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御久し振りです。長い間更新してないのに、まだ見てくれている人が結構いるみたいですね。
更新が滞っていて申し訳ありません。私は元気にしているのですが、気分転換に始めた別ブログが面白くって、そっちばかり書いてます。そっちがひと段落したら(といっても簡単に終わりそうにないんですが)またこっちも書きます。何時になるか分かりませんが、待てる人はお待ちください。
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現代史についての雑文その20 ポツダム宣言
7月16日夜に原爆実験成功を簡潔に報せる第一報がトルーマンの手元に届き、その後、ポツダム会談の本会議が進行していくのに並行して、アメリカ本国の陸軍当局から次々と原爆実験の状況を報せる報告がポツダムのスチムソンへ、そしてスチムソンからトルーマンへ届けられました。
ただ、ポツダムは言わばソ連のホームグラウンドであり、電信の類は傍受されている可能性が高く、宿舎の会話すら盗聴されている危険があり、それ以前に原爆開発計画は米政府内でも少数の高官しか知らない極秘プロジェクトであったので、通信士にもその存在を知られてはならず、そのため原爆に関する本国との連絡は全て暗号で行われました。それも原文を通信士に渡して暗号化させるようなものではダメなので、最初から隠語で通信文を作成してそれを送るという方式となりました。つまり送り手と受け手にしか文意が分からないようにしたのです。この方法の場合、機密性は高く保持されますが、あまり複雑な内容の遣り取りには不向きでした。

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現代史についての雑文その19 新世界秩序
1945年7月15日に米英ソ首脳会談に出席するためにドイツ東部、ベルリン郊外の都市ポツダムに到着したアメリカ合衆国大統領トルーマンは、翌16日の夜に、その日の朝にニューメキシコ州の砂漠で米軍が実施した人類史上初の原子爆弾の起爆実験が成功したという第一報を受けました。そしてポツダム会談の本会議は翌17日から始まり、その冒頭の前、17日の早朝にトルーマンはソ連国家主席スターリンと初対面し非公式会談に臨みますが、この時点では原爆実験の詳報はまだ受けておりません。
この米ソ首脳の非公式会談の席でスターリンはトルーマンに対して、8月半ば頃にヤルタでの密約通りソ連が対日参戦すると確約し、トルーマンは大いに喜びました。当時、日本との戦争で米軍の被害を少なくするために出来れば米軍の日本本土侵攻作戦を行わずに早期に日本を無条件降伏させることがトルーマンの求めることであり、ソ連の参戦によってそれが実現する可能性が高くなるからでした。それをこのポツダムでスターリンに改めて要請することがトルーマンにとって今回は大きな懸案であったのですが、それが早々に解決したことになります。それでトルーマンは大いに喜んだのです。

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現代史についての雑文その18 ドイツと日本4
さて、最後に「戦勝国が敗戦国だけの戦争犯罪を裁く特別軍事裁判を実施する」というドイツ・フォーマットを日本に適用したことによる影響ですが、このフォーマットのドイツにおける適用例がニュルンベルク裁判で、日本における適用例が東京裁判であるのは、誰でも分かると思います。ニュルンベルク裁判と東京裁判には共通点も多く、それらはほぼ全て裁判としての致命的欠陥にあたる部分でした。と言うより、この2つの裁判は共に全体が致命的欠陥というもので出来上がっているような代物だったので、共通点が多いのは当たり前であったのですが。
まぁ東京裁判については語るべきことがあまりに多く、それはまた別の機会にも詳しく触れることになると思いますが、ここではドイツと日本の対比ということで、ニュルンベルク裁判と東京裁判とで違った点、すなわち、ニュルンベルク裁判のフォーマットを適用しようとして東京裁判で生じた影響や相違点を切り口にして考えるのが適当であろうと思います。まぁそういう点も細かい点も含めれば多くあるのでしょうけれど、ここでは特に致命的な4つの点に絞ります。

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現代史についての雑文その17 ドイツと日本3
続いて「戦勝国は敗戦国に対する戦争賠償の請求権を放棄する」というドイツ・フォーマットを日本に適用したことによる影響についてです。これはドイツにおいてはドイツ国民を追い詰めるような巨額の賠償を科すことがドイツ統治を困難とし、新世界秩序にも悪影響を及ぼすという考え方に基づいて実施された措置です。せっかくナチスだけを悪玉にして一般ドイツ人を免責するプロパガンダをしていたのですから、そこで巨額の賠償金などかけてしまっては台無しなのです。
こうした原則は日本にも適用され、戦勝国は日本に対する賠償請求権を放棄しました。ただ、ドイツの場合と同様、在外日本資産の没収は行われました。しかしこの在外日本資産の没収額が日本の場合かなり巨額となったのです。それはどうしてなのかというと、そのほとんどは朝鮮、台湾、満州にあった日本資産であったからなのです。これらの地域は日本領土もしくは完全に日本の勢力圏で、しかも日本は官民挙げてこれらの地域にかなり大規模な投資をしていたのです。それらの地域が終戦後、「不当に併合した領土」と見なされて取り上げられてしまい、そこにあった日本資産が在外資産として没収されてしまったのです。

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現代史についての雑文その16 ドイツと日本2
続いてのドイツ・フォーマットは「民衆と戦勝国を免責し敗戦国の統治階級を断罪するプロパガンダと言論統制を実施する」というものです。ドイツにおいて戦勝国がこれを実施した理由は、ドイツ統治を円滑化するために全ての罪をナチスに被せて一般ドイツ人を免責して戦勝国の味方にするためであったのですが、これをやるためには大前提として「民主主義が機能していない状態であった」ということを強調する必要がありました。民主主義が機能しているのなら政府の行為には国民も責任を負うことになり、一般ドイツ人を免責することが出来なくなるからです。
これを日本にもあてはめようということなのですが、ドイツや日本において実際に民主主義が機能していたかどうかについて考えるには、そもそもの民主主義の定義や、ドイツや日本の伝統的社会の特徴なども考え合わしていかねばならず、まともにそんなことを考察すればとても話が長くなってしまいますので、そういうことは省略します。

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現代史についての雑文その15 ドイツと日本1
さて、このように延々とポツダム会談で話し合われたドイツの戦後処理について見てきましたが、ここで日本人たる私が注目したいことは、この日本降伏直前の時期に戦勝国首脳が集まって協議した、本来はナチスドイツ崩壊後というかなり特殊な条件下でのレアケースであるはずのドイツの戦後処理の手法が、そのまま無条件降伏した敗戦国に対する戦後処理の一般的フォーマットとして戦勝国の上層部の頭に安易に刷りこまれたということです。
ドイツと日本とではそもそもの国柄が違い、戦争に至った状況や敗戦に至った状況も、とにかくあらゆることが違うのですが、戦勝国の偉いさん達はドイツのことは多少知っていても日本のことなどほとんど知りませんから、まぁドイツと同じようにすればいいだろうという程度の軽い気持ちで、あるいは他の思惑も絡めて、この「ドイツ・フォーマット」を日本の戦後処理にも適用しようとすることになるのです。そうした気分はこのポツダム会談の途中で日本に対して発されることになる「(第一の)ポツダム宣言」にも反映されることとなります。この日本の国情と合わないドイツ・フォーマットを戦後日本に乱暴にあてはめようとするところに終戦時から戦後の日本の様々な混乱や歪みの原因の一端があったと思われます。

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現代史についての雑文その14 ホロコースト神話
ポツダム会談の本会議が始まってみると、議題は降伏したドイツの処分をどうするかについての話に終始しました。ドイツについてはまず併合した領土の返還、連合国への賠償、国外居住ドイツ人の本国送還が義務づけられることとなり、戦後ドイツは民主化、非武装化、非ナチス化が図られることとなり、さらにナチスの戦争犯罪の追及が行われることとなりました。
ナチスドイツは全ヨーロッパを征服したという印象を持たれがちですが、大部分はドイツ軍の影響下の傀儡政権とはいえ独自の政府を持った独立国がドイツと同盟していただけで、国家が消滅してドイツに併合されていたわけではありません。ドイツが降伏すればドイツ軍は撤退していきますから、それらドイツの傀儡政権や友好政権も後ろ楯を失い弱体化するのは必然ですが、それぞれの国家内の問題ですからドイツの問題とは別個の問題となり、これはポツダム会談で扱うべき問題ではありませんでした。

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現代史についての雑文その13 トリニティ実験
トルーマン一行がまだ大西洋上の政府専用船の上にあった1945年7月12日、アメリカのニューメキシコ州の砂漠地帯にあるアラモゴード爆撃試験場の北端部に極秘に資材が運び込まれて「ガジェット」というコードネームを名付けられたプルトニウム型原子爆弾の組み立てが開始されました。「ガジェット」というのは「装置」という意味で、人類史上初の核実験であるトリニティ実験における試験爆発用の実験装置がそのままコードネームになったものだといえます。
ちなみに実験名の「トリニティ」というのはキリスト教における唯一神の顕現した姿である「三位一体」を意味し、ロスアラモス研究所長のオッペンハイマーが名付けた実験名でした。彼にとって原爆の開発は神の降臨とそれに続く至福千年王国の実現に直結するものであったのでしょう。この世の戦争を無くして世界政府による平和、すなわち至福千年王国を実現する究極の神がこの地に降誕する予定であったのありましょう。

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現代史についての雑文その12 対ソ終戦工作
1945年7月15日から連合国によって占領中のドイツのベルリン郊外の都市ポツダムで米英ソ3カ国の首脳会談が開催されることが決定し、そこでヨーロッパの戦後処理の問題と共に対日降伏勧告の共同声明についても議題としていく方針が米政府において決定されると、それに合わせて、米政府は自らの対日方針を事前に固めていくことになりました。
この対日声明案の推進者であったグルーやスチムソンらは、沖縄が陥落して本土が丸裸になればさすがに日本も態度を軟化させるだろうと思っていました。ところが5月末に沖縄への航空支援の打ち切りを決定した日本政府は、その後、6月に入ると更に本土決戦のボルテージを高めてますます頑なな態度を示すようになり、これにより米政府内におけるグルーら軟着陸を目指すグループの発言力は弱くなってしまい、これにはさすがにグルーやスチムソンらも呆れ、日本国内にまだまだ頑強な強硬派が健在なのだと解釈し、ちょうどこの頃になると原爆の完成にも目処がつくようになってきたのもあり、天皇制度の保証を明示した対日声明の後でそれでも日本が降伏を拒否するようなら原爆を投下してその威力によって早期降伏に導くしかないと考えるようになっていきました。

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現代史についての雑文その11 トルーマンの憂鬱
1945年4月12日のルーズベルトの急死を受けて副大統領からの自動昇格で新大統領となったトルーマンは、出来るだけルーズベルトの遺した政策を引き継ごうとしました。個人的にトルーマンがルーズベルトの政策を支持していたということもあるが、これはそれ以上に全く当然のことでありました。
アメリカは日本やイギリスのような、立法府が行政府に対して常にチェック機能を果たす議会制民主主義国家ではなく、かなりの部分で行政府に自由裁量を許す大統領制であったので、大統領の政策は立法措置に関わるもの以外は基本的には議会によるチェックを必要としないのです。つまりアメリカ国民は4年間ほとんどノーチェックで行政権を専制的に行使する強大な権限を大統領に授けるのです。そのために大統領選挙は1年間かけてみっちりと行われ、アメリカ国民は日本人にはおよそ想像もつかないような情熱を傾けて選挙戦に参加して、熟慮の末、4年間を任せて本当に間違いないと思われる人物を自分達の大統領に選ぶのです。

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現代史についての雑文その10 マンハッタン計画
一般に化学反応と言われているものというのは、物質を構成する原子と原子を結合させたりその結合を切断したりすることによって生じる変化を言います。原子は原子核とその周りを回る電子とから成っており、原子と原子の結合はそれぞれの電子が結合しているのです。化学反応というのはこの電子が原子核から遊離して遣り取りされることで起きる反応だといえます。原子核と電子の間は一定のエネルギーを使って結合されているので、その結合を切断するとその結合エネルギーが放出されて熱反応を生じます。つまり化学反応はエネルギーの移動による熱放出を伴うのです。
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現代史についての雑文その9  本土決戦の構想
1945年5月上旬にナチスドイツが崩壊した頃、アメリカでは第二次大戦のクライマックスとなるような重大な国際的イベントが開かれていました。例のダンバートン・オークスで提唱された国際平和維持機構を創設するための会議が4月25日からサンフランシスコで始まったのでした。この会議の成功を最も心待ちにしていたのはルーズベルトでしたが、そのルーズベルトはこの会議の開会の13日前に急死してしまっていました。
そしてこの会議が始まった時、沖縄では相変わらず血みどろの戦いが続き、既にベルリンにはソ連軍が突入して暴虐の限りを尽くしており、この会議が始まって5日目にヒトラーが自殺し、その7日後にドイツが無条件降伏しました。その後もこの会議は延々と続けられ、沖縄戦の終了が発表された翌日、6月26日にサンフランシスコのオペラハウスにおいて、現在「国際連合憲章」と日本でいわれているものが採択されて閉幕しました。

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現代史についての雑文その8  ドイツ無条件降伏
辞任した小磯に代わって組閣の大命が下ったのは海軍出身の鈴木貫太郎でした。鈴木は77歳という高齢もあり、また自分は政治向きではないと自覚していたので何度も辞退しましたが天皇に「この大事の時に他に頼める人はいない」と頼み込まれて結局引き受け、1945年の4月7日に鈴木内閣が発足しました。天皇に直接頼み込まれて首相になった人物は後にも先にもこの鈴木だけです。
鈴木は海軍出身といってもかなり昔に予備役に入り長年侍従長や枢密顧問官などを務めた人物で、海軍の代弁者というよりは昭和天皇の側近グループに属する人でした。この首相就任の経緯から見ても昭和天皇の信任が非常に厚かったことが分かります。鈴木の妻は昭和天皇の幼少時の養育係であり、昭和天皇にとって鈴木は父親に類した親近感を持った存在であったと思われます。鈴木の首相就任は、憲法の規定によって政治に口出しが出来ない天皇の意思をこの非常時において内閣に色濃く反映させるために苦肉の策であったと思われます。

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現代史についての雑文その7  沖縄戦始まる
硫黄島の戦いも日本本土空襲も戦史に名高い事件です。しかし硫黄島があれほどの激戦になるとは日米ともに予想はしていませんでしたし、絨毯爆撃による本土空襲はとにかくそれまでにあまり例の無い作戦であっただけに、本当に成功するのか、成功したとしてもどれほどの効果を発揮するものか今一つ分かりませんでした。
1944年の末に日米決戦の舞台フィリピンをほぼ手中に収めた米軍も、フィリピンを失った日本軍も、そこで戦争が終わらなかった以上、次の決戦の舞台を考えるしかないのであり、その決戦場は自然に日本本土となってくるのでした。当時の日米両軍の首脳部が最も重視していたのは硫黄島や本土空襲ではなく、やはり次の日本本土を舞台とした日米決戦であったのです。そういうわけで1945年1月になると、日本政府や日本軍の中ではにわかに本土決戦構想が叫ばれるようになりました。米軍のほうでも、本当にやるかどうかはとにかく、まだ戦争が終わらない限り軍を進めていかねばならないのであり、日本本土侵攻計画を立案していくようになったのでした。

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現代史についての雑文その6  本土に迫る戦雲
このようにして、小磯内閣においては陸軍ルートでソ連やシナ国民党に向けて講和に関する交渉を秘かに持ちかけつつ、同時にアメリカとの交渉を実現するためにまずアメリカ軍に一撃を与える機会を窺っていくことになりました。そのためにはアメリカ軍の次の動きを予想する必要があったのですが、これは予想は簡単につきました。アメリカ軍の次の目標はまず間違いなくフィリピンでありました。
このフィリピンを決戦場としてアメリカ軍を迎え討ち、勝つとまではいかずとも万全の態勢で一撃を与え、大きな被害を受けたアメリカ軍がこれ以上日本本土に近付けば更なる被害を受けるという危惧を抱いてくれればいいのです。戦争を続ければ日本本土に部隊を近づけていかざるを得なくなります。そうなると被害が増えると予想すれば、戦争を続けるのがイヤになってくるはずです。日本の無条件降伏などということのためにアメリカの若者の血が必要以上に流れることをアメリカ国民は望まないはずです。被害が増えればアメリカは講和に傾くはずなのです。

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現代史についての雑文その5  東条内閣の退陣
このように1944年7月にマリアナ諸島の要であるサイパン島は陥落し、既に6月末に激しい抵抗の末にビアク島も陥落しており、絶対国防圏の防衛ラインは突破されてしまいました。また同じ7月に莫大な犠牲者を出して退却したインパール作戦の中止が決定し、イギリス軍がビルマに侵入してきました。ここでも絶対国防圏は綻びを見せたのでした。これは明らかに戦争指導政策の失敗であり、東条内閣は責任を取らざるを得ない立場に追い込まれたのでした。特に東条は陸軍参謀総長も兼任していたので、作戦失敗の責任は重大でもあり、東条が首相兼参謀総長として戦争指導にあたり続けるのは不可能な情勢となっていきました。いや、本当は作戦失敗の責任の大部分は海軍にあるのですが、海軍の戦果の虚偽報告のおかげで、作戦失敗の責任はいつも陸軍にあるように見なされていたのです。
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現代史についての雑文その4  絶対国防圏の崩壊
1943年11月には東京で大東亜会議が開かれてアジア地域の現地民の仮政府の代表者が一堂に会して大東亜共栄圏の結束が誇示されました。これは開戦以降、着々と進んでいた大東亜共栄圏建設事業の1つの大きな画期をなすものとなりましたが、この頃にはギルバート諸島とビルマにはそれぞれアメリカ軍とイギリス軍がいよいよ反転攻勢を本格的に始めようとしていたのでした。
そして同じ11月にはカイロとテヘランで相次いで連合国側の首脳会談が行われたのでした。これらは一連の会談だったが、カイロではアジア戦線、テヘランではヨーロッパ戦線を議題とし、会談参加者もルーズベルトとチャーチルに加えて、カイロにはシナ国民党総統の蒋介石、テヘランにはソ連のスターリンが参加しました。このカイロとテヘランの会談から初めてもはやドイツと日本の降伏を決定的なこととして公式に戦後処理に関連した話題が出てくるようになります。

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現代史についての雑文その3  連合国の巻き返し
アメリカは参戦当初はアジア太平洋戦線よりもヨーロッパ戦線のほうに力を注ぎました。これはまずヨーロッパ戦線での連合国側の劣勢がかなり切羽詰まっていたというのが最大の理由で、更に言えば、真珠湾攻撃で太平洋艦隊が壊滅的打撃を受けてしばらくまともに機能しなかったので太平洋戦線で反攻作戦の立てようが無かったというのも理由でありました。また日本軍の実力やアジア植民地の現地民の反感などを過小評価していたため、太平洋艦隊の態勢を立て直すまでのしばらくの間は各国植民地軍だけで東南アジア地域では日本軍の攻撃を持ちこたえることは出来るだろうと楽観視していたともいえます。
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現代史についての雑文その2  第二次大戦の開始
イギリスは伝統的にヨーロッパ大陸に統一した大きな勢力が現れることを阻止する戦略をとっており、1914年に勃発した第一次大戦でヨーロッパ大陸の最強国であったドイツを破って以降、ドイツの国土を分断して弱体化させてヨーロッパ統一の芽を摘むという戦略をとっていました。第一次大戦終了後の1919年にイギリスおよびその同盟国フランス主導で発足したヴェルサイユ体制とはそうしたものでありました。ドイツは巨額の賠償金を課されたため経済が破綻しハイパーインフレを起こし、ドイツ国民は塗炭の苦しみを味わうことになったのでした。このためドイツ国民は反英感情、反仏感情、反ヴェルサイユ体制感情を強く持つようになり、これが後に第二次大戦を引き起こすことに繋がります。
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現代史についての雑文その1  前置き
さて、久しぶりにブログを再開しますが、「日本史についての雑文」の連載をしばし中断しまして、現代史について色々書いてみたく思います。少し時代的には飛んでしまいますが、これが一段落したら、また「日本史についての雑文」の続きを書きます。ではここから「現代史についての雑文」というタイトルでやっていきますが、まずはその前置きを少し書きます。今回、未曾有の金融危機が起きまして、これがおそらく歴史の大転換期の始まりとなるでしょう。そこで歴史の大きな流れをふまえて今後の日本を考察してみました。これがそもそも私が「日本史についての雑文」を書いている動機ですから。すると、やはり現代史について整理していかないといけないと思うようになったのです。そういうわけで、今のペースではおそらく遥か先に書くことになったであろう現代史部分を先に書くことにしました。これからしばし「現代史についての雑文」を書くことになった理由がそれで、その結論に至るまでの最初の考察部分が今回掲載する前置き部分ということになります。
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日本史についての雑文その372 世界宗教史7
さて、ユーラシア大陸の東半分で大唐帝国が世界帝国を形成しつつあった630年頃、その遥か西のアラビア半島で急速に勢力を拡大していたのがイスラム教でした。このイスラム教がユーラシア大陸東部の大唐帝国に匹敵する世界帝国をユーラシア大陸西部に作り上げ、その後、騎馬遊牧民族と共に中世世界の最重要要素となっていくのです。このイスラム教誕生に至るユーラシア大陸西部の思想状況をまず、ざっと振り返ってみます。
古代ローマ帝国が最盛期を迎えたのが2世紀前半の五賢帝時代で、この頃はローマ帝国のあった地中海世界の西のオリエント地方にはパルチア王国があり、ユーラシア大陸の西側ではこの二大国が勢力を均衡して共存していました。この頃のローマ帝国にしてもパルチア王国にしても、これらは多様な価値観の存在する世界帝国でありました。

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日本史についての雑文その371 世界宗教史6
中央アジアから北アジアの草原地帯や砂漠地帯のオアシス等には古代からイラン系、チベット系、トルコ系、モンゴル系、ツングース系などの騎馬遊牧民族が住んでいました。彼らは遊牧民という特性上、部族集団ごとにかなりバラついて居住しており、遊牧は農耕と違って労働を集約すれば効率が上がるというようなものではないので、それぞれの部族集団は基本的に独立性が高かったのでした。
しかしその一方で、遊牧民というのは移動しながら家畜を育てるという生活の特性上、肉や乳など以外の食料や生活材が慢性的に不足するので、それらを交易によって得る必要があり、交易によって他民族や他部族と自然と繋がっていき、交易路の安全を確保するということが多数の部族集団の共通の課題となりました。また気候不順などが原因で交易品全体が大幅に不足した際には戦争に訴えてでもそれらを確保する必要もありました。

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日本史についての雑文その370 世界宗教史5
このローマ帝国末期にキリスト教によって排斥された古代の重要な世界宗教として、グノーシス主義の影響を受けて成立したマニ教があります。マニ教は3世紀の中頃にササン朝ペルシアの地で精霊の啓示を受けた自称「預言者」のマニという男がグノーシス主義の反宇宙的二元論をベースにしてゾロアスター教やユダヤ教、キリスト教、仏教、ミトラ教などの教義をごった煮にして作り上げた肉欲忌避主義を特徴とした宗教でした。
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日本史についての雑文その369 世界宗教史4
ここまでの人間社会における倫理発生のメカニズムの流れについてまとめると、まず原始の精霊信仰は超越的存在が不在の倫理以前の段階であり、その後、四大文明地域などで人間から見て超越的な「神」という存在が生み出され、真の自己を確立するための「象徴界(物質世界)」における欲望充足作業を禁止する「統治の倫理」が確立されます。これによって「神」の下す戒律を受け入れ、その見返りに恩恵を受けるという、「神」の支配下に入るという形の多神教が形成され、それが善悪二元論を経て紀元前7世紀には一神教も生み出します。
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日本史についての雑文その368 倫理と欲望
そもそも、神とは何なのでしょうか。その正体は精霊であるとか、宇宙人であるとか、異次元人であるとか色々言われますが、正体などはこの際どうでもいいです。遥か昔に人間の誰かが精霊や宇宙人や異次元人を目撃して、それを神だと認識したのかもしれませんし、あるいは大きな熊や大蛇を見て神と思ったのかもしれませんし、あるいは高くそびえる山や太陽や月を見て神と思ったのかもしれません。とにかく何か人間から見て超越的な存在を「神」と認識したということです。それはつまり、古代の人々にとってはもともと「神」というものは何らか超越的な存在であるという固定観念が先にあって、その後に不可解なものや明らかに人間の手には負えないような巨大な存在などを目撃した時にそれらを自己の中の「神」のイメージに重ね合わせたのに過ぎないのです。
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日本史についての雑文その367 2つの倫理と近代科学
もともと1世紀初頭にイエスによって説かれた教えは戒律や神秘主義や民族主義などに凝り固まった典型的な「統治の倫理」であった当時のユダヤ教に対するアンチテーゼとして説かれたユダヤ教改革派の教えで、寛容な博愛主義を特徴とした「市場の倫理」でありました。
ユダヤ教というのはそもそもどういう教えなのかというと、ごく簡略化して言えば、遥か昔にヤハウェという神がユダヤ人の長であるモーセとシナイ山で「ユダヤ人が神の与えた戒律を守るならば神はユダヤ人をこの世で特別に優遇する」という契約を交わしたのですが、ユダヤ人がその契約を破ったので神は罰を与え、ユダヤ人は亡国の民となったので、亡国の民となったユダヤ人の祭司たちが「神の赦しを得るためにユダヤ人は神の与えた戒律を守らねばならない」と唱えたことが始まりとなります。

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日本史についての雑文その366 2つの倫理と主権国家
一方、17世紀のヨーロッパにおいてはカトリック勢力とプロテスタント勢力の争いがますます最高潮に達して、遂には1618年に三十年戦争という全ヨーロッパ諸国を巻き込んだ大戦争が勃発し、その結果、カトリック教会のヨーロッパにおける最大の庇護者であったカトリック帝国の神聖ローマ帝国が事実上解体し、その版図がプロテスタント国家であるプロイセンやカトリック国家であるオーストリアなどにバラバラになったことでプロテスタント勢力が勝利を収め、17世紀後半からカルヴァン派の主張したような政治と宗教が分離した国家、すなわち主権国家の時代が始まったのでした。
この主権国家という国家のモデルは、17世紀の初頭、スチュアート朝期のイギリスにおいては既に示されていました。イギリスにおいては16世紀後半のエリザベス1世の治世下でカトリック教会の支配を完全に脱して安定的に政治と宗教の分離が進んでいたため、教会が人民を支配する国家ではなく、国家が直接に人民を支配する国家としての「主権国家」の理念がいち早く示されるようになっていたのです。

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日本史についての雑文その365 2つの倫理と重商主義
しかし、このスペインやポルトガルの貨幣経済以前のセンスの略奪経済体制の暴力がもたらした金銀によってヨーロッパにおける本格的な貨幣経済が始まったこともまた事実であり、「金銀を略奪する」というところから始まったヨーロッパ貨幣経済市場においては、金銀(=貨幣)は商品購入のための単なる代価ではなく、常に略奪的、投機的に金銀そのものを得ようとする傾向が潜在的に存在することになったのでした。
スペインやポルトガルはこの貨幣経済市場において、当初は新大陸から略奪した金銀を運んでくるという意味で常に「金銀の保持者」であろうとし、その金銀を好む時に用いて新大陸で金銀を略奪してくるために必要な武器など軍事力を整備するための場としてこのヨーロッパ貨幣経済市場を作り出し、利用しようとしました。

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日本史についての雑文その364 2つの倫理と新大陸
このように東南アジア地域やインド地域、中東地域などのユーラシア大陸南部地域は西洋諸国によって植民地化、あるいは半植民地化されたことによって、植民地時代だけでなく独立後も何かと苦労する羽目になっているといえます。それは確かに事実ではあるのですが、しかし東南アジアやインド、中東などの場合はまだ恵まれているほうなのです。
どういうふうに恵まれているのかというと、独立後に西洋起源の全体主義体制や帝国主義体制、民主主義体制などを導入した際、自らのもともと持っていた伝統的な価値観、例えば東南アジア地域では仏教文化であったり、インドではヒンズー文化であったり、中東やパキスタンやインドネシアではイスラム文化であったりする伝統的価値観との間で、相性が合ったり合わなかったり、様々な軋轢が生じているのですが、こういう軋轢が生じるということ自体が一見苦しいことのようで実は恵まれていることなのであり、こうした伝統的価値観が全体主義体制や帝国主義体制の持つ腐敗の暴走に対する一種のブレーキとして機能していたのです。

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