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日本史についての雑文その339 最澄と空海
2007/12/14 02:53

空海は讃岐国の佐伯氏という地方豪族の子として生まれ、もともとは官僚になるために都の大学寮で学んでいたのですが、19歳の時に学校を飛び出して山林での修行生活に入ったといわれます。山林での修行ということは修験道ということになりますが、その中で雑密の呪法も修めていったようです。また、それだけではなく幅広く仏教思想を学んだようで、密教の根本経典である「大日経」もこの修行時代に読み、その時に悟りを開いたともいわれています。また、室戸岬の洞窟で修行している時に口の中に明星が飛び込んできて悟りを開いたともいわれています。

これらは後世になって空海が伝説的人物となってから作られた伝説に過ぎないのかもしれませんが、それでも空海が後に遣唐使に加わって唐へ渡った際に、シナ正統密教の伝承者であった恵果が、この異国からやって来た若い無名の僧をいきなり特別扱いし、ごく短期間で密教の奥義を全て教えてしまったということから考えても、少なくとも恵果やそのシナ密教の弟子たちの目から見て空海が極めて優れた資質を持った修行者であったことは確かなようで、おそらく生来の優れた霊的能力を備えた一種の天才的な修行者であったのでしょう。
こうした天才である空海は19歳から30歳までの期間、山林での修行と仏教研究に明け暮れ、おそらく30歳になった804年の時点において、当時の日本仏教界の最高の頭脳であった最澄をも超える学識を身につけていたとも思われますが、しかしこの時点での空海は国家の公認の僧侶ではなく、公的には一介の私度僧、つまり勝手に僧を名乗っているだけの俗人に過ぎませんでした。その空海が804年に30歳にして東大寺において得度し戒律を授けられて公認の僧侶となり、その直後に延暦の遣唐使への参加が急遽決定するのですが、このあまりに急激な展開は、おそらくは空海の背後に何らかの有力者の意思が働いたと見ていいでしょう。その詳細は不明ですが、おそらくは空海の特異な才能に注目した朝廷の有力者が最澄とは別口でのシナ密教の導入を期待して空海をバックアップして遣唐使に押し込んだのだと思われます。おそらくそれは桓武とは別系統の筋であり、また唐から帰国してきた空海がしばらく冷遇されていたことから考えて、それほど有力な筋ではなかったのであろうと思われます。

こうして空海は最澄と同じ延暦の遣唐使に加わって804年7月に唐に向けて出発したのですが、最澄とは乗っていた船も違い、到着後も別行動であったので面識は無かったのでありましょう。空海は留学僧の扱いであり、次回の遣唐使が迎えにやって来るまで唐におよそ20年間滞在する予定でしたので時間はたっぷりあり、天台山に直行した最澄とは違って、まずは大使らと同行して長安へ向かいました。そのまま年を越して805年2月に大使一行や最澄らが日本への帰路について長安を離れた後、空海や橘逸勢ら留学組は長安に残され、5月には空海は長安の青龍寺の恵果に弟子入りすることになりました。
インドからシナに伝わった中期密教の主要経典は「金剛頂経」と「大日経」でしたが、金剛頂系の密教をシナにおいて大成したのは不空金剛で、大日系の密教をシナにおいて大成したのが善無畏でした。恵果は不空金剛に師事して金剛頂系の密教を学び、善無畏の弟子の玄超から大日系の密教を学んでおり、シナ密教の全てを統合して継承していた第一人者であり、青龍寺において唐のみならず東アジア各国から集まった膨大な数の弟子に密教を教えていた高僧でした。
この時、師である恵果は59歳、空海は31歳で全く無名の異国の留学僧に過ぎませんでした。しかし恵果は空海に特別に目をかけ、空海は弟子入り3ヶ月目にして早くも、密教の奥義を伝授され弟子を持って宗派を起こすことも許されることを意味する阿舎利灌頂という儀式を受け、恵果から空海に密教の正統が継承されたことを示す数々の物品も授けられ、12月に恵果が死去した際には空海は全ての弟子の代表として恵果を顕彰する碑文を撰述したりしており、空海は僅か半年ほどの間で恵果の一番弟子としてシナ密教の全てを受け継いだ正統伝承者となったのでした。
空海は日本で山林修行に明け暮れていた頃に既に悟りを開き密教の奥義を会得していたといわれますが、確かにこの異例の扱いを見る限り、恵果が空海に特別な「何か」を感じ取ったことは間違いないと思われます。もし空海が渡唐前に既に悟りを得ていたのだとしたなら、この恵果への弟子入りは空海にとっては何かを学ぶためというより、自分の会得し構想していたものが実際のシナ密教の奥義と合致したものであるのかを確認することが目的であったのかもしれません。その確認方法とは、密教独特の「面授」という、師匠と弟子とで向かい合って瞑想に入り神秘体験を共有することによって奥義の伝授を行うという方式によるものでした。だから空海はシナ密教の正統伝承者である恵果に会うために唐へ渡らねばならなかったのでした。空海と向かい合ってその内面を垣間見た恵果も、自らのシナ密教の奥義を継承する資質を空海に認め、正統継承者として遇することにしたのでしょう。

そういうわけで空海には恵果の死後はもう唐においては学ぶべきものは無く、残りの留学期間を切り上げて、たまたま帰国が遅れていた延暦の遣唐使の一部の帰りの便に橘逸勢と共に便乗して806年8月に唐を出発し、10月に九州に到着しました。日本では同年1月に最澄が天台宗を開いており、3月には桓武天皇が死去して平城天皇が即位していました。空海は帰国後、大宰府に滞在して朝廷に向けて自分の持ち帰ってきた物品の目録を提出しました。それらは恵果から譲り受けた経典、曼荼羅、密教法具、その他密教正統継承者であることを示す様々な物品類でした。しかし都の役人にはこれらの品々の真の価値を理解できる者はおらず、そもそも20年の予定の留学期間を勝手に2年で切り上げて帰ってきた空海は国家との契約違反ということとなり、入京を許されず大宰府に留め置かれることになったのでした。
そうして2年ほど空海は大宰府で無為の日々を過ごすことになったのですが、そのうちに空海の帰国時に提出していた目録が都で最澄の目にとまることになり、最澄は空海の持ち帰ってきた密教の重要性を理解し、空海の入京のために尽力するようになります。当時の日本において空海の目録の真の価値を理解出来るだけの知識を持った人物は、曲りなりにも唐でシナ密教を学んできた最澄だけであったのです。
最澄が唐で学んだ密教は断片的知識に過ぎず、一方、空海の継承した密教はシナ密教の正統であり全てでした。つまり空海の密教のほうが最澄の密教よりも上なのです。最澄はもちろんそれが分かっていました。分かっていたからこそ、その真の価値ある空海の密教が埋もれてしまうことを惜しんで空海の入京を支援したのです。空海が入京してくれば最澄自身の「密教の第一人者」という地位は失われることになるのですが、そんな自身の都合よりも最澄は日本仏教界の発展という大きな目標のほうを優先したのでしょう。そういう意味でも最澄という人は、こと仏教に関しては極めて真摯な人であったようです。
そうした最澄の尽力もあって、平城天皇が退位して嵯峨天皇が即位した809年、空海は入京を果たしました。入京当初は空海の密教の価値を理解していたのは最澄ぐらいであったので、最澄は空海に対して密教に関しては弟子の礼をとって経典を借りたりしていたようです。最澄としては自分の密教の足りない部分は空海から借りた経典などを研究して補っていこうとしたのでしょう。空海もとりあえず最澄は恩人ですから快く経典を貸してあげていたようです。
そうこうしているうちに810年に薬子の変が起きて、空海は鎮護国家のための大祈祷を行い嵯峨天皇の目にとまることになります。その後、徐々に空海の名声が高まっていき、812年に高尾山寺において密教の結縁灌頂の儀式を空海が催し、数多くの僧侶が空海から灌頂を受けましたが、その中には最澄やその弟子たちも含まれていました。結縁灌頂とは師匠から弟子に入門時に施す灌頂儀式であり、つまりこれで最澄が正式に空海の密教の弟子となったということになります。最澄としても空海の密教の優位性を認めているが故に灌頂を受けるしかなかったわけですが、これにより空海の密教が天下一のものであることが内外に明確に示されたのでした。

ちょうどこの頃、最澄は戒律問題で南都六宗との対立が激化し、とにかく東大寺の国立戒壇を押さえているのは南都六宗で、これにより最澄の弟子たる天台宗の僧侶たちは東大寺で授戒を受けられないで僧侶としての活動が出来ないという事態に立ち至っていました。これにより天台宗の僧侶たちのほとんどが最澄の下を去って南都六宗のほうへ移籍してしまい、天台宗は存亡の危機を迎えていました。
そういう状況の最澄は自らの密教の向上を図り空海に経典を借りていたのですが、813年になって空海は「密教は天台宗のような顕教とは違い、文章修行によって学ぶことは出来ないのであり、実践修行によってしか学ぶことは出来ない」と言って最澄の経典借り入れの要請を拒絶するようになりました。これは確かにその通りで、つまり師匠と共に修行して神秘的体験を共有するという「面授」によってしか密教の教えの伝承は不可能ということであり、空海自身がそのようにして恵果から密教を受け継いだのですから、最澄も本気で密教を学びたいのならば経典を借りたりしないで空海のもとで一緒に修行に励むべきではないかという意味なのです。
これは確かに道理の通った意見であり、別に空海は最澄に意地悪を言っているわけではないのです。しかし現実問題としてこれは最澄には無理な相談でした。最澄の目指すべき目標はあくまで天台教学の「一乗思想」による鎮護国家の実現であり、密教はその付属物のようなものでした。その天台教学の理想を実現するための教団である天台宗がやっと立ち上がったばかりであり、しかもその天台宗が危機的状況に直面している時期に、その開祖たる最澄が密教修行のために全てを捨てて空海の下で修行三昧の生活を送るなどということが出来るはずがないのです。
そういうわけで最澄は自らの、つまり天台宗における密教分野を高めることは諦めざるを得ませんでした。しかし最澄自身はそういった事情によって空海のもとへ行くことは出来ませんでしたが、最澄の弟子の中で密教を極めたいと願う者は話は別でした。そういう者はこれ以上伸びる見込みの無い天台宗の密教に見切りをつけて空海のもとで密教修行を行いたいと思ったことでしょう。こうして天台宗を辞めて空海の弟子になる者も出てきたのです。これにより最澄と空海の間には亀裂が入ることになりました。

こうした苦境の中で最澄は、戒律問題で正面突破を図って天台宗を去っていった弟子たちを回復し、さらに新たな弟子を獲得していくために戦うことにしたのです。すなわち、最澄の提唱する「大乗戒」を授ける国立戒壇を新たに比叡山に設置するよう朝廷に申し入れ、当然それに猛反対する南都六宗の僧侶たちとの間に813年から熾烈な論争を開始したのです。最澄は46歳となっていました。
こうして最澄は南都六宗と全面対決の様相となっていったのですが、一方の空海はこの戒律問題ではどういうスタンスであったのかというと、空海も最澄と同じく「大乗戒」を支持する立場でしたが、空海は最澄のように南都六宗と対立的ではなく協調的な姿勢を示し、自分の弟子の授かる戒律は「大乗戒」でも「小乗戒」でもどっちでも構わないとしました。
最澄の南都六宗への対決姿勢の背景には、多分に桓武天皇の極度の南都六宗嫌いの影響があったと思われ、桓武天皇に可愛がられた最澄ならばやむを得ない面もありましたが、桓武の後を継いだ平城天皇や嵯峨天皇は桓武ほど極端に南都六宗を毛嫌いすることはなく、南都六宗もそれなりに朝廷内に影響力を保持していました。ですから、南都六宗と殊更に対立するよりも、むしろ協調してその力を上手く利用するほうが朝廷の覚えも目出度いというのが実情であったのです。そのあたり、やや最澄は柔軟性を欠き、空海は意外に法力だけでなく政治力もあったのだといえます。
そうして空海は嵯峨天皇に気に入られるようになっていき、815年には内供奉十禅師に任じられて宮中で密教の加持祈祷を行うようになるとともに東国の僧侶に密教の流布を開始しました。しかし東国では最澄もまた伝道を行っていたのでここでも両者の利害は衝突することになり、先述の南都六宗に対するスタンスの違いによる対立に加えて、更に最澄と空海の対立を助長することになり、完全に両者は絶縁することになりました。
その後、816年に空海は嵯峨天皇から修行用の道場として高野山を下賜され、空海はここを根拠地として伽藍などを建立していきます。ここに真言宗が正式に開宗されることとなったのです。時に空海は42歳でした。

真言宗は空海がシナで恵果から継承した正統密教に彼なりのアレンジを加えて成立した教えで、その奉ずる密教を真言密教とも言い、真言密教を大乗仏教の究極進化形態と定義し、それ以前の他の宗派を顕教とし、真言密教は顕教に優越する最上位のものとし、真言宗においては真言密教のみを専修するとしました。つまり、天台宗のように法華経や禅や戒律や密教やらというように色々手を出さないということです。
天台宗が本尊を釈迦如来とするのに対して、真言宗の本尊は大日如来です。大日如来は宇宙の本体であり絶対の真理であるとされますが、天台宗の釈迦如来にしてもそれは歴史上実在の釈迦ではなく「久遠実成の釈迦」なのでありますから、まぁその意味合いは同じようなものです。顕教たる天台宗と密教たる真言宗の最も大きな違いは、天台宗があくまでその教説の真理は言葉で伝えるものであるとしていたのに比して、真言宗においては真理は言葉だけでは伝達不可能で、心によって伝達されるものであるとしたことです。つまりこれが「面授」というわけですが、それゆえ真言宗においてはその修行も経典を読んで理解するなどという言語的なものではなく、極めて非言語的、象徴的なものが重視されます。すなわちそれが真言宗における「三密」という修行法で、「身密(手で印を結ぶ)」「口密(真言を唱える)」「心密(心に曼荼羅を観想する)」というものです。真言というのはマントラともいいまして、要するにサンスクリット語の呪文をそのまま漢訳や和訳をせずに唱えることで、日本人が聞いてもさっぱり意味は不明ですから、その音の響き、つまり一種の言霊を発生させることに主眼があったと見るべきでしょう。
こういった象徴的修行法である「三密」を行うことによって修行者は大日如来と一体化して生きたその姿のまま仏となる、つまり「即身成仏」することが可能であるとするのが真言宗の最重要の教義ということになります。真言宗においては「三密」を極めれば誰でも即身成仏が可能であると説くわけで、つまり天台宗の唱える「一乗思想」と基本的には同じく、誰でも成仏可能という教えになります。しかしそれは天台宗の「法華一乗」とは違い、あくまで「真言一乗」なのであって、ある意味、「真言一乗」は「法華一乗」より、更にラディカルな一乗思想であるといえます。
それは、「法華一乗」においてはあくまで「全ての衆生はいつかは成仏可能である」と説くわけで、それは現世であるとは限定しておらず、輪廻の循環の中でいつかは成仏が可能であるという意味なのですが、「真言一乗」においては現世の生身の体のままで成仏が可能だと言っており、これが「即身成仏」なのです。なぜ真言宗においてのみそのような「即身成仏」が可能なのかというと、それは「三密」という特別な修行法を行うからであり、それがつまり他の顕教とは一線を画した「密教」というものであり、大乗仏教の究極の姿だからなのです。つまり、大乗仏教とは衆生救済をその特徴とするのですが、その進化した形が「全ての衆生が成仏可能」と説く「法華一乗」であるとするなら、更にそれを究極まで進化させた形が「全ての衆生が現世で即身成仏可能」と説く「真言一乗」ということになり、つまり特別な象徴的修行法「三密」を行う真言宗こそが大乗仏教の究極進化形態ということになるのです。ちなみにシナ密教においては真言宗ほどには「即身成仏」を強調してはいません。「即身成仏」をここまで強調するのは日本において空海の開いた真言宗独特の特徴で、それゆえ真言宗こそが究極の大乗仏教ということにもなるのですが、これは自分自身が悟りを開いて「即身成仏」した(らしい)空海だからこそ、ここまで強調出来たのでしょう。
これが真言宗の教義のだいたいの説明ということになりますが、結局、「三密」を行うとどうして「即身成仏」出来るのかについては全く説明出来ていないわけですが、これはそれこそ言葉では伝えられない部分ですので仕方ないのです。ここで言っておきたいことは、空海や真言宗といえばどうしても法力や呪法の印象が強いのですが、真言宗もまた、天台宗とは全く異なった土壌の上に育ちながらも、天台宗と同じく「一乗思想」を掲げており、むしろ天台宗より過激であり、言わば「三密」という特別な修行法を用いた「即身成仏」への究極の近道あるいは特急列車が真言宗の本質であり、そしてそれに関連しているのですが、究極の大乗仏教であるゆえに天台宗と同じく戒律面でも「大乗戒」を支持している立場であるということです。

その戒律問題で南都六宗と全面対決していた最澄は、817年以降はそれに加えて更に南都六宗の1つ法相宗の僧侶である徳一といわゆる「三一権実」の論争を開始することになりました。これはつまり、法相宗の奉じる「三乗思想」と天台宗の奉じる「一乗思想」のどちらが「権(仮の教え)」で、どちらが「実(真実の教え)」であるのかについての論争でした。徳一は法相宗の「五性各別論」に基づいた「成仏は限られた資質を持った者だけに可能なものである」という「三乗思想」こそが真実の釈迦の教えであり、「全ての衆生が成仏可能である」という「一乗思想」は仏教を広めるための方便の教えに過ぎないと主張して最澄を論難し、最澄はそれに対して逆に「三乗思想」こそ釈迦が相手のレベルに合わせて説いた方便の教えに過ぎないのであって、真実の教えは「一乗思想」であるとしたのです。
この論争は延々と続き、結局、決着がつかないまま最澄も徳一も死んでしまったので、どちらの論が優れていたのかについては断言は出来ないのですが、結果論として、最澄には多くの優秀な後継者がいたのに対して徳一には後継者がおらず、両者の死後に最澄側の後継者たちが一方的に勝利宣言して最澄が勝ったことになっています。実際、その後の日本仏教においては天台宗の唱える「一乗思想」が主流思想となり、「三乗思想」は傍流の教えとなりましたから、長い目で見て最澄が勝ったのでしょう。こうして日本仏教は「全ての衆生が成仏可能である」という考え方でやっていくことになり、ここから平安仏教、鎌倉新仏教の様々な思潮が生じてくることになるのです。

さて最澄は戒律問題のほうでも何としても比叡山に大乗戒壇を設立しようとして攻勢に出ます。818年に自らかつて東大寺で授かった小乗戒を捨て去ることを宣言し、天台宗独自の大乗戒に基づいた修学心得「山家学生式」を作成したのです。その中で最澄は、比叡山で得度授戒した僧侶は12年間は比叡山に篭って山林修行することを義務づけ、その修行を終えた僧侶は比叡山において後身の指導をするか、あるいは日本各地で仏教界の指導者として活動させるという天台宗の理念を示したのでした。最澄が何のために大乗戒壇を作るのかというと、それはこうした将来の仏教界の指導者を育てるためなのであって、そうした「衆生を教え導く人」こそが「真の鎮護国家」のために欠かせない「国の宝」だとしたのです。そのためには自己の解脱のみを求めていた時代の戒律である「小乗戒」ではなく、衆生と交わるに適した「大乗戒」を授かった僧侶のほうが指導者としてふさわしいということです。そうした理念を示した上で、「小乗戒」から「大乗戒」に転換することで法力が弱まるのではないかという心配に対しては12年間の厳しい山林修行を義務づけることによって払拭を図ったのでした。法力は戒律によってではなく、あくまで修行によって保証されるものとしたのです。
このような理論武装を施した上で最澄は改めて比叡山における大乗戒壇設立の許可を朝廷に願い出たのですが、これに対して南都六宗側も猛反発しますが、これを最澄は悉く論破し、南都六宗側はとうとう沈黙を與儀なくさせられたのでした。しかし朝廷は南都六宗側の面子も立てるために最澄が822年6月に55歳で没するまでは大乗戒壇の設立は許可せず、最澄の没後7日目に比叡山に大乗戒壇設立を許可する勅許を下したのでした。また、824年には比叡山寺は最澄が開山した時の元号にちなんで延暦寺という寺号を下賜されることになったのでした。
この822年の大乗戒壇設立によって、天台宗は奈良の旧仏教の影響力を完全に排して完全に独立し、延暦寺において独自に僧侶を養成することが出来るようになったのです。すなわち、誰憚ることなく「一乗思想」を奉じて、仏教界における後身の指導や衆生の救済指導に積極的な活動をする「国の宝」たる指導者たちを育てることが出来るようになったということです。こうして比叡山延暦寺は天台教学・戒律・禅・密教を教える仏教総合大学の様相を呈することになり、天台教学の円仁・円珍・良源、浄土教の源信・良忍、浄土宗の法然、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮など、後に多くの名僧を輩出することになるのです。

このように最澄は死して後に日本仏教の後世に巨大な影響を残していくことになるのですが、一方、最澄没時に48歳となっていた空海はその圧倒的な法力をもって嵯峨・淳和・仁明の歴代天皇に重用され、835年4月に61歳で高野山において没する(真言宗では空海は死んだのではなく永遠の禅定に入ったであり今も生きているとされる)までの間に朝廷内における密教修法による国家護持の体系を作り上げ、そこにおける真言宗の絶対的優位を確立したのでした。
空海がそこまでの偉業を成し遂げることが出来たのは彼の法力がずば抜けており、朝廷の期待に見事に応えるものであったからでした。実際、空海が朝廷において国家護持の修法を行っていた810年から835年にかけての期間は目立った災厄が発生することもなく、また新たな怨霊が発生することもなく、朝廷がもともと密教を導入しようとした動機である「怨霊鎮魂」という意味で空海は見事に期待に応える働きをしたのだといえます。それゆえ朝廷の空海への信頼も強固なものとなり、空海への破格の待遇も生じたのだといえます。
このように空海はまさに巨人といえる存在であったのですが、しかし後世への影響という点でいえば最澄に比べればそれほどでも無かったともいえるでしょう。最澄の「法華一乗」の思想は最澄によってスタートが切られはしましたが、それはまだまだ詰め切れていない部分が多く、悪く言えば未熟、未完成で、それゆえ最澄を引き継いだ数多くの後継者たちによって、彼らそれぞれなりに独自のアレンジを大胆に加えて様々な方向性に伸びて開花していく余地を存分に残していました。それが浄土宗や禅宗、日蓮宗などであったのです。しかし空海の「真言一乗」のほうは、あまりにも完璧に緻密に空海によって完成されてしまっていたため、その後伸びる余地があまり残されておらず、しかも天才空海にしか完全には理解できないレベルまで高められてしまっていたために、それを引き継いだ後継者たちはそれを解釈し理解し引き継ぐことに汲々としてしまい、それに大胆なアレンジを加えていくという部分では最澄の後継者たちに及ばなかったのではないかと思われるのです。そういう意味で、空海は天才であり最澄よりも優れており、真言宗は天台宗よりも完成された教えではありましたが、最澄および天台宗は空海および真言宗よりも後世に大きな影響を与えたのだといえます。

しかしそれは後世の話であり、この835年の空海入定時点においては真言宗が天台宗より優れていたのは明白であったのであり、特にその大きく勝っていた部分は密教の修法の部分であったのであり、その部分の優劣こそが朝廷の評価を最も大きく左右する部分で、この時代においては朝廷の評価こそが教団の存亡を左右する重大問題であったのでした。
そこで天台宗側としては最大の弱点である密教部分の補強を図ることが第一の課題であったのであり、亡き最澄の弟子であった円仁はなんとか唐に渡って今度こそ密教の奥義を手中にしようとしていました。円仁は15歳で最澄に弟子入りし、その後は最澄にその一番弟子として忠実に仕えて、822年に最澄が没した時点では28歳となっており、その後は天台宗を背負って立っていたのでした。その円仁に入唐のチャンスが訪れたのは41歳の時、835年9月に承和の遣唐使に参加するようにとの命令を受けた時でした。この年の4月に空海が入定しており、天台宗側の円仁としてはここで一気に真言宗との距離を縮めておきたいところでした。
もちろん、この命令は偶然円仁に下されたものではなく、以前から再々、円仁が唐へ渡りたい旨を朝廷に具申していた成果であり、そもそも、このおよそ30年ぶりとなる承和の遣唐使自体が円仁をはじめとした仏教界からの強い要望によって実現したようなものでした。つまり、それだけこの頃には遣唐使を派遣する外交的意味や学術的に何らかの政治制度を学んだりする意味が薄くなっており、その中で仏教界のみが唐からの経典の摂取などを求めて盛んに朝廷に働きかけていたということになります。
8世紀半ばの安禄山の乱以降、唐は混乱を深めていくようになりました。安禄山の乱勃発時の6代皇帝の玄宗の後は粛宗、代宗と続き、代宗の時代に乱が収まりましたが混迷が続き、続く徳宗の時代には節度使の勢力を抑制しようとして失敗したりしました。最澄や空海が参加した延暦の遣唐使が派遣されたのはこの徳宗の治世の最末期の頃で、その後、唐は順宗の短い治世を経て11代皇帝の憲宗の時代に一時的に改革に成功して中興を達成しますが820年に憲宗が宦官勢力に暗殺されてしまうと、穆宗、敬宗と暗愚で短命な皇帝が続き、その間、宦官の専横と官僚の派閥闘争が激化し、敬宗が宦官によって826年に暗殺された後に擁立された文宗も宦官勢力の傀儡で、承和の遣唐使派遣が決定された翌年の835年には文宗による宦官粛清計画が発覚して文宗は幽閉され、文宗はそのまま幽閉されたまま840年に死去するという有様でありました。承和の遣唐使はこの文宗幽閉中に唐に行っているわけですから、そもそもほとんど外交的意義を求めてのものでないのは自明のことでしょう。ちなみに詩人の白居易が活躍して時世を厳しく批評した詩を詠んだのはこうした徳宗から文宗を経て次の武宗に至る時代なのであり、白居易が時世を嘆き問題意識を強くしたのも当然というべき時代でありました。

さて承和の遣唐使は2度の渡航失敗を経て838年に3度目の渡航を試みて成功し、円仁も念願の唐へ到着しました。円仁はかつての最澄と同じように遣唐使派遣期間の1年間弱ほどしか唐に滞在できない身分でありましたので、とにかくすぐに天台山へ向かい、限られた学習期間の大部分を密教の摂取に割くつもりでありました。しかし唐政府から天台山への旅行許可が下りず途方に暮れることになり、ここで円仁は遣唐使一行から離脱して唐に不法滞在して居残って密教摂取に努めることを決心します。
シナ帝国というものは皇帝の徳を慕って来る者は拒まず受け入れるという建前になっていますから基本的に入ってくる者には寛容ですが、逆に皇帝の徳を見限って去っていく者の存在を認めるわけにはいかないため、出て行く者には厳しく、例えば外交使節のような特別の出入国許可証を持っている者でなければ、入るのはともかく出て行くことは極めて難しい国家でした。つまり円仁が遣唐使一行から離れて唐において不法滞在者になるということは、唐の国情を考えると次の遣唐使が何十年後になるか予想もつかないため(実際、これが最後の遣唐使となった)、二度と生きて日本に帰れなくなる恐れが極めて大きいという選択肢であったのです。
それでもあえて唐に残ったのですから円仁の密教摂取に賭ける情熱は並々ならぬものであったのでしょう。とにかく円仁は様々な苦闘の末、840年に山西省の五台山に到着し、ここで法華経と密教の関係の整合性に関する解答を得て、多くの仏典を書写し、更に長安に移動して密教寺院を巡り数々の灌頂を受け密教修法を学び、金剛界曼荼羅を得ることにも成功し、円仁はだいたい入唐の目的を達成したのでした。
この後、841年以降、円仁は唐政府に帰国願いを再三提出しますが断られ続け、そうこうしているうちに文宗が幽閉中に死去した後を継いだ武宗による「会昌の廃仏」といわれる仏教に対する大弾圧が842年に始まったのです。これによって845年には唐の全ての僧侶は寺院から追放され強制的に還俗させられることになり、外国人僧も還俗の上で国外追放ということになりました。つまり、全く怪我の功名なのですが、これで円仁も合法的に唐から出国して日本へ帰れることになったのです。といっても廃仏の嵐が吹き荒れる混乱の中、また846年の武宗死去に伴う混乱などもあり、帰国の旅も困難を極め、結局、847年9月に53歳になっていた円仁は多数の仏典や密教修法を携えて日本へ帰り着くことになりました。
ちなみに、唐においては武宗の死後は宣宗の比較的平穏な治世を経て、859年に即位した懿宗の時代には農民反乱が頻発するようになり、懿宗の死後に即位した僖宗の治世初期の875年には黄巣の乱が勃発し、いよいよ唐末の大混乱が開始され、唐は滅亡へと向かっていくことになり、日本としてもほとんど遣唐使派遣の意味は無くなっていきます。よって、この円仁が参加した承和の遣唐使が最後の遣唐使ということになるのです。

こうして円仁によって天台宗にも体系的な密教の修法が伝えられることになり、朝廷においては真言宗の密教である「東密」に並び称して天台宗の密教は「台密」と呼ばれて重きを置かれるようになっていくのです。このように9世紀半ばになって国家鎮護の修法は真言密教と天台密教の二本立て体制になっていくのですが、ここで天台密教にも国家鎮護の修法としてのニーズが生じているというのは、この頃、空海の存世中は発生しなかった新たな怨霊が発生してきていたからでした。
それは皮肉にも空海と共に遣唐使に参加していた橘逸勢で、842年の承和の変で流罪となり配流途中で死亡したのですが、おそらくはこれは政治的陰謀であり無実の罪であったようで、流罪を命じた仁明天皇は逸勢の怨霊に悩まされるようになり、結局850年に亡くなることになります。また、843年には筑前守を解任された文室宮田麻呂が謀反の罪で流罪となりましたが、これも無罪であったことが判明し、宮田麻呂の霊も怨霊となったといわれるようになりました。また、地方において空海没後ぐらいから群盗海賊の被害が目立つようにもなって世情が騒がしくなってきました。
このように空海のいる間は上手くいっていたはずの密教による怨霊鎮魂が、空海がいなくなって以降はあまり上手く機能しなくなってきていたのです。そこで円仁によってテコ入れされた天台密教にも期待されるようにもなっていたのですが、これはやはり空海という天才であったからこそ人間の身であそこまで完全な怨霊鎮魂が出来たのであり、空海のような天才的な人間はそうそう現れるものではなく、空海がいなくなった以上はやはり人間だけではなく神様の力にも頼らなければいけないのではないかという考え方もここで生じてくるようになりました。ここから9世紀後半には、大乗密教の下での神祇信仰の系列化、そして天皇の清浄化の進展とも相俟って、宮中において「御霊信仰」というものが生じてくるのです。また、神の力に頼るようになるということは、つまりは霊の力を必要とするようになっていくということで、霊とは「言霊」でもあり「霊(もの)」でもあり、ここから和歌による鎮魂や、「ものがたり」、また「もののあはれ」という概念が生じてくることにもなるのです。
また、すっかり護国の呪法として定着した密教は、やがて個人の現世での救済を求める加持祈祷の盛行を招くようになりますが、これが「一乗思想」における個々の衆生の救済思想と末法思想が結びついて、やがて個人の来世での救済を求める浄土信仰へとつながっていきます。その浄土信仰の流行の大きなきっかけとなる念仏思想の日本への輸入も円仁によってなされました。円仁が唐で修行した五台山で念仏修行も行われており、これを円仁が日本へ帰国した後、比叡山延暦寺における修行内容に取り入れ、90日間休みなく阿弥陀仏の名を唱えながら、心に阿弥陀如来のことを観相するという修行法を設定したのが、日本における阿弥陀浄土信仰の始まりとされます。ここから浄土教や浄土宗、浄土真宗の流れが生じていくのです。

カテゴリ:歴史

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