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日本史についての雑文その370 世界宗教史5
このローマ帝国末期にキリスト教によって排斥された古代の重要な世界宗教として、グノーシス主義の影響を受けて成立したマニ教があります。マニ教は3世紀の中頃にササン朝ペルシアの地で精霊の啓示を受けた自称「預言者」のマニという男がグノーシス主義の反宇宙的二元論をベースにしてゾロアスター教やユダヤ教、キリスト教、仏教、ミトラ教などの教義をごった煮にして作り上げた肉欲忌避主義を特徴とした宗教でした。
その世界観は、光と闇の共存した原初の世界で闇が光を侵したため光の回復のための戦いが始まり、太陽神ミトラによって光の一部が回復されたため、闇の勢力が残された光を封じ込めるために人間を作ったというもので、これによれば人間は肉体は闇のものだが内部に光を蔵しているということになり、その内部の光を人間に認識させる智慧を授けるために光の勢力が太陽神ミトラの後継者たる預言者の系譜を受け継いだ者たちを現世に遣わしてきたとマニは唱え、ザラスシュトラ、釈迦、イエスなどはその預言者の系譜にある者たちで、マニ自身もその系譜を受け継ぐ預言者であると自称しました。
世界観自体は肉体を悪とみなし霊魂を善とするグノーシス主義の反宇宙的二元論そのものという感じで、そこに既存の様々な宗教の開祖を取り込んだちゃんぽんのような宗教で、一見怪しげな新興宗教風です。マニ自身はさほど布教の実績を上げないうちに殉教し、ササン朝ペルシアはゾロアスター教を国教としてマニ教を弾圧したためにペルシアの地ではマニ教はあまり伸びませんでしたが、その他の地域ではマニの死後に爆発的に信者を獲得していくことになりました。それはおそらくマニが世界宗教の開祖としては珍しく自分で経典を多数書き残していたため教義の解釈の相違などによる混乱が起きなかったこともありますが、マニ教があらゆる宗教のちゃんぽんのような内容であったので、どんな地域でも微妙に内容を変えたり、新たに土着の宗教の要素を更に加えていったりして適応していくことが出来たからでもあるのでしょう。また、肉欲忌避主義を特徴としながら、東方グノーシス主義に特徴的な「市場の倫理」優位の傾向により、一般信者にはあまり極端な戒律の適用をしないという特徴もあって、広く信者を集めることが出来たともいえます。

3世紀以降、マニ教はローマ帝国の全域、特に北アフリカにおいて多数の信者を獲得し、同時期に教勢を拡大したキリスト教の最大のライバルとなりました。キリスト教もマニ教も同じように「魔術の倫理」であったのですが、キリスト教の教祖のイエスは救世主あるいは神の子、神そのものとされ、それに対してマニ教の教祖のマニは預言者であるという点で大きな違いがありました。
もちろん本当に歴史上のイエスが救世主であったり神の子であったりしたわけではないのですが、3世紀以降のグノーシス的解釈によるイエス像が「霊的世界の真の神が物質世界に遣わした救世主」であったり「霊的世界の神の子、あるいは神そのもの」であったということです。一方、マニ教におけるマニは「霊的世界の真の神の言葉を聞いた預言者」であり、しかもマニ教においてはイエスもまたマニと同じように預言者ということになっています。端的に言えば、キリスト教が「救世主の宗教」であるとするなら、マニ教は「預言者の宗教」であるといえるでしょう。マニ教は「預言者が開祖となる世界宗教」の先駆けなのです。それはどういう意味を持つのか。
例えばキリスト教の場合は(あくまでグノーシス化した後の世界宗教としてのキリスト教だが)、神あるいは救世主が開祖として既にこの物質世界に出現している以上、物質世界に既に大きな変化が起きていなければいけないことになります。つまり、真の神が現れている以上、この物質世界は既に真の神の支配する世界となっているはずであるし、救世主が現れている以上、この物質世界は既に救済されて霊的世界と同質になっているはずなのです。もしそうなっていないのなら、イエスは偽の神や偽の救世主であったということになり、キリスト教は前提が崩壊してしまうのです。
だからキリスト教では自動的に「この物質世界は真の神によって救済済みの世界である」という設定となり、それゆえ「魔術の倫理」であるキリスト教がこの物質世界の唯一の「統治の倫理」となり、そこには「統治の倫理」に逆らう「市場の倫理」も必要はなく、神の国以外の政体は存在してはならず、キリスト教以外の価値観は認められず、キリスト教内部においてもこのような考え方以外の異端の存在は許容されないということになるのです。
一方でマニ教の場合は、開祖のマニは単に霊的世界からの「真の神」の声を聞くことが出来た「預言者」という立場の無力な人間に過ぎませんから、マニの出現によって物質世界が大きな変化を起こすということはありません。マニ教においてはイエスも釈迦も、あらゆる聖人はみんなマニと同格の預言者とされていますから、彼らの出現によっても物質世界は変化していないことになります。そうなると、未だ物質世界は「偽の神」に支配されたままで、救済は未来においてなされるということになります。その未来の霊的世界からの救済のために前もって物質世界における準備をしておくのがマニ教の目的であり、その霊的世界からの命令を受けて、それを物質世界で実行するのが預言者の使命なのです。
こうした宗教観のマニ教の場合、物質世界は未だ「偽の神」に支配されたままの世界なのですから、この世に存在する「統治の倫理」は「偽の神」に由来するものであるからマニ教とは別のものということになります。むしろマニ教はこれらの現世の「統治の倫理」とは対立する存在となりますから、自然と「市場の倫理」化していくことになります。とにかく「魔術の倫理」であるマニ教は「統治の倫理」にはならないのであり、もちろんマニ教が至上の教えということにはなるのですが、それはキリスト教のように不寛容なものにはならず、価値観の多様性は保障され、「統治の倫理」と「市場の倫理」の融合による腐敗も生じないのです。
キリスト教もマニ教も根っこは同じグノーシス主義であり、むしろグノーシス主義の本来の姿はマニ教のような二元論的なものであったので、キリスト教の中でもマニ教に近い考え方もありました。むしろそちらのほうが多数派であったかもしれません。しかしキリスト教においてはイエスを救世主や神としたために、一元論的な解釈の入り込む余地が生じ、そこが4世紀にローマ皇帝の権力と結びついて政治との癒着を引き起こし、政治権力と癒着した宗派(アタナシウス派)が政治権力の後押しで正統となっていったことによって、キリスト教そのものが変質していったのでした。一方、マニ教においてはそういう政治と癒着する余地が生じなかったため、マニ教は変質せず二元論的な世界観を保持したのでした。
キリスト教とマニ教のこうした差は、おそらくそれぞれの発祥の地の文化の違いによるものなのでしょう。グノーシス的なキリスト教の成立した地中海世界ではグノーシス主義は「統治の倫理」と結びつく傾向が強く、それゆえグノーシス主義をキリスト教に取り入れる際に、キリスト教が「統治の倫理」と結びつきやすいような形で教義が整備されたのでありましょう。そして逆にマニ教の成立したペルシアなどのオリエント地方ではグノーシス主義は「市場の倫理」と結びつく傾向が強いので、マニ教はそもそも最初から「市場の倫理」と結びつきやすく「統治の倫理」とは距離を置くような形で教義が整備されたのでしょう。

よって、4世紀のローマ皇帝権力のパートナーになったのは「統治の倫理」との親和性が高いキリスト教のほうであったのであり、マニ教は皇帝権力とは距離を置いたのでした。そうなるとローマ帝国の版図においては何かと皇帝権力によって便宜を得られるキリスト教のほうが有利となるのは当然で、しかもキリスト教主流派およびそれと一体化した皇帝権力は徹底的に異教を排斥する方針であったわけですから、ローマ帝国内のマニ教は弾圧されて5世紀ぐらいには消滅してしまったといわれます。
しかし、本当にローマ帝国下のマニ教はこの時に消滅したのでしょうか。そもそもマニ教の消滅期とされる時代はローマ帝国がゲルマン民族の大移動後の大混乱の中で分裂して滅亡していく時代と重なっているのであり、東ローマ帝国領として残ったバルカン半島、アナトリア半島、シリア、エジプトを除けば皇帝権力も正教会の権力も及ばない状況になったのであるから、それらの地では弾圧を受けることなく生き残っていった可能性はあります。だいたい、それらの北アフリカや西ヨーロッパの地の西ローマ帝国滅亡前後の詳細な状況など不明な点が多く、実際のところはこの時マニ教がどうなったか、マニ教が消滅してしまった現在においてはよく判っていないのです。
ただ確実なことは、これらのローマ皇帝権力が及ばなくなった地において正教会の教義があまり受け入れられなかったことです。だいたい正教会の系譜に属するキリスト教の主流派というものは、正教会にせよカトリックにせよプロテスタントにせよ、歴史上常に、非常に布教熱心な割には純粋な布教によって信者を増やすことが不得手で、だいたいは政治権力の手を借りてやっと信者を獲得出来るのが特徴なのです。要するに普通に布教して信者が増えるほど魅力的な宗教ではないのです。だからローマ皇帝の権力が及ばなくなった5世紀以降の北アフリカや西ヨーロッパで正教会が受け入れられなかったのは当然で、ならばマニ教がそれらの地で受け入れられていた可能性はあります。
西ヨーロッパで後に10世紀に出現してカトリックの最大のライバルとなり、カトリックの徹底的な弾圧を受けて13世紀までに滅ぼされたカタリ派はキリスト教の異端とされていますが、その反宇宙的二元論や極端な肉欲忌避主義や、権力と距離を置く傾向や、戒律を指導者階級と一般信徒とで区別する傾向など、マニ教と酷似した特徴を持ち、むしろ西ヨーロッパで生き残っていたマニ教の教団が9世紀のカトリックの進出を受けて、その影響でキリスト教と習合して10世紀にカタリ派という形となったのではないかとも思えます。

また、マニ教は3世紀以降、オリエントからアフガニスタンを経て中央アジア方面へも広まっていきましたが、これらの地でマニ教を受け入れたのは遊牧民や交易商人たちで、同じようにアラビア半島の砂漠の遊牧民たちにもマニ教は広まり、これが後に7世紀にイスラム教の成立に大きな影響を与えることになります。マニ教とイスラム教には断食の習慣や預言者宗教である点など共通点が多く、マニ教の広まった範囲は後にイスラム教の広まった範囲と重なるところが多く、言ってみれば、マニ教の信者が後により魅力的で似た教義の宗教であるイスラム教に改宗して、マニ教はイスラム教に回収されて消滅したのだといえるのです。実際、世界各地のマニ教の消滅はだいたいその地にイスラム教が伝播して少し後のことなのです。だとするなら、北アフリカにおいても砂漠の遊牧民によって5世紀のローマ帝国滅亡後もマニ教は信仰されており、それが7世紀にイスラム教の進出によって呑み込まれ自然消滅したと考えたほうが自然なのではないでしょうか。
いや、視点を変えてみると、イスラム教の広まった地域とマニ教の広まった地域が重なるのは偶然や結果論ではなく、マニ教の信者の多く存在する地域へイスラム教は進出していったのではないでしょうか。そう考えると、交易面ではほとんど無価値の8世紀のイベリア半島や南フランスまでもイスラム教が進出していった理由も、そこにマニ教徒が存在したからなのではないかとも考えることが出来ます。実際、後にカタリ派が最も大量に発生したのは南フランスであり、ローマ帝国時代にマニ教徒が特に多かったと言われるのが北アフリカですから、イベリア半島や南フランスあたりに中世に入ってもマニ教の拠点が多数存在していたとしても不自然ではないでしょう。
もしイスラム教の初期の爆発的な勢力圏拡大がマニ教徒の改宗が呼び水になっていたのだとしたなら、初期のイスラム勢力圏に組み込まれなかった地域というのは、マニ教徒が多数派ではなかった地域ということになります。アナトリア半島でイスラムを食い止めた7世紀の東ローマ帝国では正教会が多数派でありましたし、中央アジアでもすぐにはイスラム王朝成立まで至らなかったのは仏教の勢力が厳然と存在したからでありましょう。
ならばインドはどうであったのかというと、インドも当面はイスラム化しなかったということはマニ教はあまり浸透していなかったということで、マニ教とは異質な何かがマニ教の浸透を阻んだということなのでしょう。それが4世紀に成立したヒンズー教ということになるのですが、厳密に言えば、ヒンズー教の中の多神教的な要素がマニ教の進出を阻んだということなのでしょう。

多神教というのは文明社会における最初の超越的存在に対する信仰で、文明の最初は都市国家でしたから、多神教は都市国家単位の信仰でした。つまり都市国家ごとに崇拝する神があり、それぞれの都市国家ごとにそれぞれの崇拝する神から下された「統治の倫理」があったわけです。その後、都市国家をまとめる帝国が形成されるようになり、それに伴って帝国をまとめるための統一的な「統治の倫理」や「市場の倫理」が必要となり、それに関わる多神教の神々をまとめる主神や、更にそこから発展した一神教の神なども作られるようになりましたが、それでも基本的には、それぞれの都市ごとの神々への信仰は保持されました。
例えばギリシャではアポロンを祀る都市もあればアルテミスを祀る都市もあるという感じで、それでいて主神としてのゼウスへの信仰もあり、またそれとは別個にプラトンやアリストテレスの哲学や、ストア派やエピクロス派の信条などもあったのです。キリスト教徒は他の神を認めませんでしたから信仰をかけもちすることはありませんでしたが、本来的には他の神を信仰する人達とも共存していました。
おかしくなったのは4世紀になって「魔術の倫理」たるキリスト教をローマ皇帝権力が利用して「統治の倫理」としてしまい、必然的にキリスト教が他の神々への信仰を弾圧し始めてからです。ゼウス神殿やアルテミス神殿なども狂信的なキリスト教徒によって破壊され、ローマ帝国の版図においては多神教は消滅してしまったのでした。ただ、それとほぼ同時にローマ帝国自体が崩壊してしまったので、東ローマ帝国の版図として残った地域以外の地域では以前の多神教的な状況に戻ったようですが、あまり詳細は分かっていません。おそらくかつて崇拝されていた多神教の神々の神話や信仰は残ったのでしょうが、それはもう都市国家単位のものではなくなってしまい、何らかの秘教サークルのような形での信仰になったのでしょう。
同じように「魔術の倫理」である儒教が「統治の倫理」となって多神教を弾圧したシナ帝国においても都市国家における多神教信仰は消滅してしまい、多神教信仰は「市場の倫理」として成長した「魔術の倫理」である道教の中に再編成されて組み込まれて残存し、社会の裏面で生き永らえることになったのです。
このようなローマ帝国やシナ帝国のような状況のほうが古代世界では例外的だったのであり、例えばペルシアでは一神教のゾロアスター教が帝国の国教でありましたが、一神教といっても最高神のアフラ・マズダー以外にも神々は各地で崇拝されており、それらはアフラ・マズダーの眷属であったので排斥されるということもありませんでした。つまりアフラ・マズダーは最高神ではあるが唯一神というわけではないのです。
もともとアフラ・マズダーも多くの多神教の神々の一柱に過ぎなかったのですが、ゾロアスター教が成立して善(光)と悪(闇)の二元論が出来ると光明神であったアフラ・マズダーを最高神としてその他の神々をアフラ・マズダーの眷属とする神話体系が作られて、ゾロアスター教としてはアフラ・マズダーのみを信仰するという意味で一神教なのであり、別にその他の神々の存在を否定するというのではないのです。そういう点、キリスト教や儒教などとは全く違うわけです。
だからゾロアスター教を国教としたササン朝ペルシアにおいてもゾロアスター教徒以外の人々は他の神々をそれぞれ信仰していました。ペルシアでマニ教が弾圧されたのは、おそらくキリスト教と同じく純粋の「魔術の倫理」であるマニ教が他の神々を認めなかったためゾロアスター教や他の多神教との間で軋轢が生じたからでしょう。また初期のマニ教はペルシアの王室に接近していたので、もしかするとマニ教もキリスト教のように「魔術の倫理」でありながら「統治の倫理」となり他の宗教を弾圧した可能性もあるわけで、そうした危険性を嗅ぎ取りゾロアスター教側がマニ教を排斥したのかもしれません。とにかく、そうしたペルシアにおけるマニ教のような例外を除いては、オリエントではだいたいは多神教の形態が各都市で維持されていたのです。そうした状況の中ではキリスト教やマニ教も多神教の神々の1つとして扱われていたといえます。

そういう状況は古代インドでも同様で、紀元前15世紀ぐらいにアーリア人が侵入してインダス文明を滅ぼした頃から都市国家ごとに異なった神々を祀る多神教状況にありました。その主な神々にはインドラ、ヴァーユ、アグニ、ヴァルナなどがあり、これらの神々に対する信仰は「リグ・ヴェーダ」という聖典にまとめられていますが、これらはもともとは個別に存在した伝承を後にまとめたものなのでしょう。
インドラは雷神、ヴァーユは風神、アグニは火神、そしてヴァルナは天空神で最高神、始原神とされ、ペルシアではこの神がアフラ・マズダーと呼ばれていたのですが、インドにおいては紀元前7世紀ぐらいに始原神はブラフマーとされるようになり、ヴァルナは水神として祀られるようになりました。このブラフマーというのはウパニシャッド哲学で言う宇宙の根本原理であるブラフマンを神格化したもので、ここにおいてウパニシャッド哲学が生じたということになります。このブラフマンをシナ語に音訳したものが婆羅門(バラモン)です。つまりバラモン教というのは正式にはブラフマン教というべきなのであり、それはウパニシャッド哲学と同じ概念であると考えてよいでしょう。
「ウパニシャッド」というのは「ヴェーダ」という名で総称される古代インドで編纂された一連の宗教文書の中で最も新しい紀元前7世紀ぐらいに編纂された哲学書の部分を指し、この「ウパニシャッド」の中において初めて霊肉二元論やブラフマンという概念を中核としたウパニシャッド哲学が語られたことになります。つまり紀元前7世紀ぐらいにウパニシャッド哲学と共にバラモン教(ブラフマン教)は生まれたのです。
ところが、インドラやヴァーユ、アグニ、ヴァルナなどが活躍する神話が描かれた「リグ・ヴェーダ」という聖典はこの「ヴェーダ」という一連の宗教文書の中で最も古い部分に属するのであり、つまり古代インド神話の多神教の神々への信仰というのはバラモン教よりもずっと起源が古く紀元前15世紀ぐらいまで遡るのです。このヴェーダ神話の神々の上に紀元前7世紀になって最高神としてブラフマンを神格化したブラフマーが据えられて、霊肉二元論の世界観のもと神々が再編成されてバラモン教(ブラフマン教)が出来上がったのです。だから、バラモン教とは関係なく、もともとヴェーダ神話の神々への多神教信仰というものは存在していたのです。それがバラモン教成立後はバラモン教のウパニシャッド哲学と習合していたということになります。

このバラモン教の霊肉二元論の「魔術の倫理」に反対して紀元前5世紀に発生したのが仏教であり、インドの支配者階級には仏教のほうが受け入れられてバラモン教は押されがちになります。これは必ずしも仏教が優れていてバラモン教が劣っているというわけではないのです。バラモン教の最重要教義は輪廻転生ですが、ブラフマンと一体化するまで人間の魂は現世において輪廻転生を繰り返すというもので、魂のステージの上下に応じて現世において生まれ変わる階層(カースト)が変わります。これがカースト制度で、カーストは非常に細かく分けられているのですが、大きく4つに分かれており、一番上がブラフミンという神官階層で、これはブラフマンとほぼ同一の境地に達した魂が転生する階層で、特別に神聖視される権威のある階層です。その下がクシャトリアという武士や政治家の階層で現世における実質的な権力者ですが、ブラフミンよりは下位とされます。その下がヴァイシャという商人階層、その下がシュードラという奴隷階層となります。
生きている間にカーストを移動することは出来ませんが、生前の行いが良かったり、よく修行したりして魂が浄化されれば、次の転生で上位のカーストに生まれることは可能とされ、人間はこの輪廻転生の繰り返しの中で、真の世界である霊的世界(現実界)から唯一、物質世界(象徴界)に突き出した人間の霊魂(想像界)を浄化して、霊的世界の真の存在であるブラフマンと同一の境地であるアートマンまで高める行程を辿りつつカーストを上昇していき、最終的にはブラフミン階層への転生を成し遂げ、その後、輪廻転生から離脱して(解脱して)ブラフマンと一体化するべきであるというのがバラモン教の教義なのです。
つまり現世における絶対的権威がブラフミン階層という神官階層であり、しかもその階層への参入は転生によってしか不可能であるので、現世的な権力をいくら持っていてもブラフミンを超えることは出来ないのです。それがバラモン教における大原則であり、バラモン教はカースト制度によってブラフミン階層を特別視する宗教だといえます。
ところが、これでは面白くないのが現世における実際の権力を握っているクシャトリア階層で、このクシャトリア階層がカースト制度を否定した仏教を支援したために仏教の勢力が伸びたのです。仏教がカースト制度を否定したのは、仏教においてはブラフマンのような「真の存在」も含めて全ての実体というものを否定することによって欲望を捨てて、それによって苦しみの無い境地に達することこそが真の「解脱」であると説いたので、そうなるとブラフマンとの一体化を目指してカーストの階層を上がっていくような制度も不要であるし、ブラフマンと同一化した階層であるブラフミン階層を神聖視する理由も無いからです。その「カースト制度否定」という点においてクシャトリア階層は仏教に共感を覚えたのです。
つまり、現実的な政治的・軍事的勢力であるクシャトリア階層は、別に仏教の教義に深く賛同して仏教を保護したのではなく、仏教によってカースト制度を否定して、目の上のタンコブであるブラフミン階層の権威を失墜させて、自分たちが現世における最上位階層になろうとしたのです。その結果、ブラフミン階層は次第に力を失っていき、それに伴ってブラフミン階層によって保持されていたバラモン教も衰えていったのです。そうした変化は徐々に進行していき、1世紀ぐらいにはバラモン教はインドにおいてほぼ消滅したのでした。

ただ、ここで消滅したのはあくまでウパニシャッド哲学に基づいたバラモン教であり、バラモン教に先行して存在し、そしてバラモン教の中に取り込まれていたヴェーダ神話の多神教の神々への各地の都市国家における信仰が消滅したわけではないのです。そうした多神教信仰は仏教が批判したウパニシャッド哲学の霊肉二元論とは本来無関係な信仰であったので、バラモン教とは分離して生き残りました。
また、バラモン教に取って代わってインドの支配的哲学となった仏教はキリスト教のような「魔術の倫理」とは全く異質な哲学で、他の神々を排斥するような傾向はありませんでした。そもそも仏教というものは「この世界は全て実体は無く空虚である」という事実を悟ることのみを求める教えであり、本来、「神」という存在を全く必要としない哲学であったので、「仏教の神」というものが存在せず、それゆえ他の神々とも競合関係になることはなく、もともと重視もしていないし警戒もしていないわけですから、逆に他の神々と平気で共存したり取り込んだりすることが出来るのです。だから、ヴェーダ神話の神々への信仰はバラモン教の没落に伴って、今度は仏教と共存して繁栄していったのでした。
当初は紀元前4世紀に北インドを統一したマウリヤ朝が安定した勢力を誇っており、紀元前3世紀のアショーカ王の時代に最盛期を迎えますが、このアショーカ王が仏教保護で有名な王で、この時代に仏教が国教化してバラモン教が没落してカースト制度が形骸化し、クシャトリア階層が自由に勢力を伸ばすようになると、インド社会は次第に混乱が増してくるようになりました。武士や政治家などの権力者たちを抑える権威というものが失われて戦国乱世になってしまったのです。
仏教そのものが世を乱すというものではないのですが、仏教によってカースト制度が失われたことがインド社会の秩序を乱すことになったのです。結局、仏教というものがカーストに代わる秩序を提供し得なかったのは確かで、仏教というものは教団や小王国単位の小集団の秩序程度は維持し得ても、北インド全体を統一するような安定的な秩序は維持出来ない程度のものでした。つまり、もともと仏教は個人の悟りを追求するための哲学であり、「統治の倫理」としてはさほど優れたものではなかったのです。

カースト制度は確かに生存中の階層の移動が不可能という厳格さによって下の階層には厳しいものではありましたが、こういう身分制度が一概に否定されるべきものではないことも社会秩序維持という観点からも明らかです。カースト制度の持つ意味は幾つかありますが、まずはシュードラというのはアーリア人侵入以前のインド先住民で、アーリア人の生産階級であったヴァイシャとの間の差は征服民族と被征服民族の間の厳然たる差でありました。つまりブラフミンとクシャトリアとヴァイシャがアーリア人社会の構成していたわけです。そのうち、クシャトリアとヴァイシャの区別というのは統治階級と生産階級の分離であり、これは近代以前の何処の社会にも普遍的に存在した階級差であり、「統治の倫理」と「市場の倫理」を分けて社会の腐敗を防ぐという意味で必要な区別でありました。問題はブラフミンという神聖階級の扱いで、そもそもこの一種の不可侵の階級に対するクシャトリア階級の不満が紀元前における仏教を利用してのカースト制度への攻撃に繋がっていったのです。
しかし、もともと古代の共同体においては王というのは神官も兼ねていたのであり、共同体をまとめていくためには武力や政治力のような現世的権力だけではなく、現世を超越した神聖性というものが必要でありました。そして、そうした神聖性に特化した階級を現世権力階級の上に分離して置いたのがブラフミンであったのです。私達日本人にはこうしたシステムは実は結構馴染みがあって、平安期以降の天皇制度というのはこれと同じような神聖性に特化して政治から隔離された特別な階層を身分の最上位かつ社会の中心に置くというシステムでありました。
インドや日本以外でこのブラフミンや天皇に相当するのが、例えばキリスト教においては「主」なのであり、シナにおいては「天」なのですが、ブラフミンも天皇も「主」や「天」と同じく超越的な存在と同一のものとして扱われているわけですから、結局はみな同じことなのです。ただ、ブラフミンや天皇は「主」や「天」とは違い生身の人間でもあるので現世の穢れの影響を受けて神聖性が損なわれる恐れがあり、あえて政治から遠ざけるという制度にしたのでしょう。キリスト教世界の王などは完全に現世権力であったのでそもそも神聖性は必要なく、シナの皇帝は「天」と同じく神聖な存在でしたが現世の穢れにもどっぷり浸かっていました。ただ、それゆえシナ皇帝の場合は最終的に易姓革命という手段で穢れの溜まった皇帝を廃棄して新しい皇帝に取り換えるという制度が生まれました。
ただ、インドのブラフミンと日本の天皇が同一の制度かというと、そういうことでもなく、ブラフミンを頂点としたカースト制度は徹底的に固定化した階層制度であり、それに比べて天皇を中心とした日本の身分制度はかなり流動性の激しい制度です。これはその社会を律する宗教のタイプの違いによる差なのでしょうが、人民の上るべき階層構造の頂点に君臨するブラフミンは絶対的かつ実質的な権威として存在していた一方、人民から聖別されてただ一人怨霊鎮魂に専念する天皇は人民とは縁遠い権威となっていきました。そうしてブラフミンは常に意識される密度の濃い権威となって常にカースト制度を律していく求心力の源となっていったのに比べ、天皇はその存在を空洞化して実質権力を常に周縁へ拡散していく遠心力の源として作用したので、インドのカースト制度は固定化した制度となり、日本の身分制度は流動性の強いものとなったのでした。
そのようにインドのカースト制度は階層を徹底して固定化しつつブラフミンの権威を保つ必要性から、ブラフミンの神聖性の裏返しのような大量のアウト・カーストの被差別の不可触民の存在を必要としたのです。日本の場合も同じように天皇と遊芸民のような異形の民との関係性を重視する立場の歴史家もいますが、確かにそういう側面もありますが、日本の場合はその影響力はかなり小さく、天皇の権威はむしろその空洞性によって保たれてきたのではないかと思います。

ともかく、カースト制度、特にブラフミン階層の権威というものはインド社会を1つにまとめるためには必要であったのであり、それが仏教を利用したクシャトリア階層によって損なわれたために北インドでは紀元前3世紀のアショーカ王の死後、政治的に不安定な時代が何世紀も続くことになったのでした。そしてその間、仏教はインド社会を1つにまとめる「統治の倫理」としてはあまり役には立たなかったのであり、むしろ戦乱の時代の中で北インドにおいては紀元前1世紀ぐらいから庶民の相互扶助的な「市場の倫理」の要素を強調した大乗仏教へと変質していったのでした。
開祖の釈迦の教えを継承して個人の悟りを追求する上座部仏教は、釈迦が厳しい修行の末に悟りを開いたという事実に基づいて、ひたすら出家した僧侶の修行の末の解脱を重視したために、実際のところ、一般庶民にさほど浸透していませんでした。一般庶民は相変わらずヴェーダ神話の多神教の神々を各都市ごとに信仰していたのです。そうした庶民たちを統治するクシャトリア階層の人々がバラモン教への対抗上、仏教を信仰していたのですが、クシャトリアの多くは出家していませんでしたから自分自身は悟りを得ることは出来ないので、もっぱら仏教教団のパトロンに徹し、その見返りに何らかの功徳を得るということになりました。一般信者がほとんどおらず、非生産的な修行者の集まりであった仏教が教団を維持していけたのは、こうしたパトロンの存在があってこそでした。
「教団への支援の見返りに功徳を得る」というような発想自体が元来の仏教には存在しないものだったのですが、そういう約束事でも無ければクシャトリア側としても仏教への支援がそうそう長続きしないのであり、支援を受けなければ仏教側としても教団を維持できないので、こうしたパトロンへの功徳という発想は仏教において暗黙の了解となっていきました。しかし仏教において最高の功徳といえば、やはり悟りを得ることでありましたから、クシャトリア側としては何とか出家しないで悟りを開くことは出来ないものかと考えるようになりました。
また、自分は仏教を信仰しているのに自分の統治する領民が別の神を信仰しているという状況は面白くなく、領民にも仏教を信仰させるクシャトリアも多かったのですが、領民をみんな出家させてしまっては領地が立ち行かないので、大抵は在家のまま仏教を信仰させました。するとやはり領民側からも在家のままで悟りを開くことは出来ないものかという不満が出てくるようになったのでした。
クシャトリアの支援を受けてカースト制度を打破して仏教の勢力が伸びるに従ってクシャトリアの勢力も拡大してき、特に戦乱の時代になってクシャトリアの影響力が増すと、皮肉なことに仏教側もこうしたクシャトリア側からの要望も無視出来ないようになっていき、紀元前1世紀以降、北インドの仏教は変質していくことになったのです。何故、北インドでそうした変化が顕著で、南インドでは顕著ではなかったのかというと、もともと北方から侵入してきたアーリア人の有力諸侯であるクシャトリア達はその多くが北インドに根拠地を置いていたからでした。

当時の仏教において主流派であったのは上座部仏教の中でも紀元前2世紀に興った説一切有部という学派で、この学派は釈迦の教説を徹底的に研究し、悟りを開くためには煩悩を断つことが必要であることから、煩悩の克服法について詳細に考察しました。その結果、この学派は煩悩を108個存在すると規定し、この108個の煩悩を断つためには、厳しい修行と深い仏法に関する研究考察の末に生じる智慧が不可欠であると唱えました。これは到底、在家の信者にはクリア不可能な条件であったので、この説一切有部の学説に対するアンチテーゼの形で「般若経」が書かれることになったのです。
「般若経」という経典は紀元前5世紀の釈迦の時代に書かれたという触れ込みで登場しましたが、これは偽りで、実際は紀元前1世紀あたりに書かれました。では釈迦の教えとは関係ない偽経かというとそういうわけでもなく、そもそも釈迦自身も釈迦の弟子たちも経典を書き遺しておらず、上座部仏教の経典が書き始められたのは釈迦の死後100年ほど経ってからのことですから、こちらだって釈迦の教えに本当に忠実かどうか怪しいものであり、結局、釈迦の遺して漠然と受け継がれてきた仏教思想に沿って様々な解釈をもとにして書かれたのが仏教の経典であるということになります。この定義に照らせば、「般若経」もまた仏教思想から決して逸脱しておらず、れっきとした仏教経典であるといえます。
この「般若経」で説かれていることは、ひたすら「空」についての理論です。「空」とは「この世界には実体というものは無い」ということで、これは釈迦が唱えた仏教の根本思想です。説一切有部などの上座部仏教においては、「この世界に実体というものは無いのだから煩悩など無意味であり、それゆえ煩悩を断たねばならず、煩悩を断つことによって悟りを開くことが出来る」という理論展開がなされるのですが、「般若経」においては煩悩を断つための煩瑣な修行や研究を省略し、「この世界に実体が無いと実感することによって悟りを開くことが出来る」としたのです。つまり「煩悩」に関する理論を省略して、ひたすら「空」の理論に特化することによって、在家信者でも悟りを得ることが出来るように道を開くのが「般若経」の目的であったのです。ここから「大乗仏教」の流れが始まることになります。

「般若経」によって在家のままでも悟りを開くことが出来るという立場を表明したグループに対して、当然ながら既存の仏教の側から批判に晒されることになりました。それに対して般若経側も反論していくうちに両派は次第に不仲となっていき、般若経の側は自らを在家信者も含めたより多くの人の悟りのための仏教という意味で「大きな乗り物」、すなわち「大乗仏教」と称するようになり、それに対し、大乗仏教側は既存の仏教を出家者のためだけの「小さな乗り物」という意味で「小乗仏教」と呼ぶようになりました。なお、これは蔑称ですので、現在は一般的には使用されず、大乗仏教成立以前から存在する仏教の流れを汲む仏教を「上座部仏教」や「南伝仏教」と呼ぶのが現在では一般的です。
このように大乗仏教側は既存の上座部仏教を「出家している自分たち僧侶だけが悟ることが出来れば良いと思っている利己的な宗派」として非難するようになりました。そうなると自分たちは利己的ではないということをアピールしなければなりません。そこで自分たち大乗仏教は自分の解脱よりも他者の救済をまず優先するという姿勢をアピールすることになりました。そして、そこから一歩進んで、他者救済のための善行を一種の修行と見立て「利他行」と呼び、誰でも在家のまま俗世間で生活していても「利他行」を積んでいくことでいつの日か悟りを開くことが出来ると唱えるようになりました。これはまさに仏教のパトロンとして俗世間にありながら仏教支援を通じて衆生の救済に力を貸すという善行を積んでいるクシャトリア達に成仏への道を開く教説でありました。そして、この「利他行」の思想が戦乱の時代の北インドの民衆にも受け入れられたのでした。

成立当初の大乗仏教はこの「利他行」の効用を強調して大乗仏教の上座部仏教に対する優位を唱えたため、利他行を実践する大乗仏教の信者は成仏出来るが、上座部仏教の修行者のような利己的な教えに囚われた者は成仏出来ないと唱える傾向がありました。これに対して大乗仏教の中で異議を表明したのが「般若経」に次いで紀元前1世紀に成立した「法華経」でした。
「法華経」においてはこう考えられました。誰でも「空」を実感することで悟りを開くことが出来るというのなら、釈迦以外にも今まで多くの人が悟りを開いて仏陀となっているはずで、そしてこの世のあらゆるものは縁起によって繋がっているのだとすれば、この世のあらゆるものは多くの実在した仏陀と繋がったものであり、この世界は1つの巨大な仏陀が常に存在しているようなもので、そうした世界で成仏出来ないものが存在するはずがないのです。ですから利己的な者も含めて全ての衆生は成仏可能だと考えたのです。これが「大乗」も「小乗」も同じ1つの乗り物に乗って成仏するという意味で「一乗思想」といいます。
これは確かに心の広い思想で、また壮大な宇宙観でもありますが、こうなると利己的で善行も為さないような者でも成仏してしまうわけですから、善行さえ無意味ということになり、何らモラルというものを提供し得ない「なんでもあり」の思想ということにもなってしまいます。それではどうしても納得出来ないという人も多く、やはり「利他行」の効用にこだわるべきと考える人も大乗仏教には多くいました。そういう人は「法華経」の一乗思想は受け入れず、利他行を実践する者が成仏出来るという考え方に与しました。
また、法華経の場合、更に大きな問題であったのが、「巨大な仏が常住する」というその世界観でした。「この世界に確かな実体というものは存在しない」というのが仏教の基本的思想であるにもかかわらず、この法華経の世界観では仏という1つの巨大な実体のみは確かな存在としてこの宇宙に在るということになり、極論すれば「この世界は仏陀そのものである」ということにもなります。これは仏教の根本教理に反するとして認めない人も多く、そういう人は法華経の教えに与することはありませんでした。確かに法華思想は仏教でありながら仏教でないような、「神」的存在の実体を認めて「倫理」化した仏教であったといえましょう。ただ法華思想の場合、「この世に実体というものは無い」ということを悟ることによって初めて「唯一の実体」である仏陀の存在を知覚するのであり、基本的には「自我というものは無い→欲望は無意味→欲望を捨てれば無用な苦しみから脱することが出来る」という点では間違いなく仏教でもあり、単独で危険な代物ではありませんでした。ただ、この「唯一の実体」である仏陀が他の実体である何らかの「神」と習合しやすい状態にあり、その習合する相手の「神」の種類次第では、法華思想の持つ「なんでもあり」という特性が相乗して危険度を増すということもあるのでした。

このように大乗仏教には「法華経」の教えに与するか与しないか、言い換えれば「利他行」を重視するかしないかによって大きく分けて2つの流れがあったということになります。当初は「利他行」を重視する派が強く、これが1?2世紀にかけて中央アジアを経てシナにも伝わりました。しかし、次第に「法華経」の教えが広まるようになっていきました。善行を積まなくても修行をしなくても成仏出来るというのですから、大変有難い教えであり、庶民は歓迎したのです。しかし、確かに宗教的には寛容で素晴らしい思想かもしれませんが、それではモラルも規範も無いわけで、「統治の倫理」としてはほとんど用をなさないものでした。そうした法華経に与した思想が広まったため、ますます北インドの政治混乱が続き、1世紀にはバラモン教が完全に衰えると、ますます混迷を深めていきました。
そうした中、2世紀に中央アジア方面からおそらくイラン系と思われる遊牧民がインド北西部のインダス河流域に進出してきてクシャナ朝やサカ王朝を築き、盛んに西方のパルチアと交易したため、これら遊牧民王朝を介してインド社会にもオリエントの思想が入ってくるようになりました。その代表格がゾロアスター教やミトラ教でした。特にミトラ教は2世紀にはインドへ伝わって大乗仏教と習合してマイトレーヤ信仰を生み出しました。
これは、法華思想における「仏をこの世界における巨大な実体」と捉える思想がオリエント由来の「神」、すなわちマイトレーヤやアミターバなどと仏との習合を容易としたという事情があります。すなわち法華思想の「他宗教の神と習合しやすい」という特性がここで発揮されたわけです。そうして成立したマイトレーヤ信仰やアミターバ信仰が2世紀にシナにも伝わり、弥勒信仰や阿弥陀信仰となり、それが更に老荘思想と習合して道教を生み出し、シナにおいてシナ帝国を崩壊させる革命思想ともなったわけです。
このように、習合する相手の神々の種類にもよっては、確かに法華思想には革命思想に転化する危険性も含まれているのです。また、他宗教の神と習合しやすいということは、言い換えればその習合した神と敵対する神に対しては排斥的になるわけで、そういうわけで法華思想には排他的傾向も潜んでいるのです。この場合、マイトレーヤやアミターバに対する信仰に含まれたグノーシス主義的な要素や極端な善悪二元論的な要素と法華思想が習合して「魔術の倫理」化した仏教が生まれたのだといえます。

それはともかく、おそらくは2世紀以降、オリエント由来の思想はマイトレーヤ信仰やアミターバ信仰のような大乗仏教に与えた影響以外にも、特にインド土着の多神教信仰の方面にも、かなり大きな影響も与えたはずです。そして、3世紀に入ってオリエントに興ったササン朝ペルシアの遠征を受けてクシャナ朝が討たれて以降はインダス河地方はササン朝ペルシアの強い影響下に入り、ササン朝で3世紀に生まれたマニ教も浸透してくるようになりました。これらに対する北インド社会のリアクションがヒンズー教を生み出したのではないでしょうか。
よくヒンズー教は仏教に対抗するために4世紀にバラモン教が民間信仰(つまりヴェーダの多神教)を取り入れて成立したといわれますが、バラモン教は仏教との長い競争の末に敗れて1世紀には事実上消滅しており、今更バラモン教が改めて仏教の脅威を感じて4世紀になって対抗措置をとるというのも不自然であり、この時ヒンズー教を形成した主体はバラモン教ではなく、ヴェーダの多神教のほうであると考えたほうが自然でしょう。そして仏教と多神教の間に緊張関係は無かったわけですから、多神教に脅威を与えたのは仏教ではなく、オリエント起源のミトラ教やマニ教のような「魔術の倫理」のほうであったのではないでしょうか。ミトラ教やマニ教はローマ帝国におけるキリスト教のように「統治の倫理」化して他宗教を弾圧するほど危険なものではなかったが、それでも霊的世界における「真の神」以外の他の神々を「偽の神」として認めないという点では、十分に多神教にとっては、少なくとも仏教よりは危険な相手であったのでした。

ミトラ教やマニ教の教義の根本は光と闇の二元論、そして救世主信仰でありました。このうちの光の神の神格がヴェーダ神話における巨大神であったヴィシュヌという神に取り込まれ、ヴィシュヌは光明神や太陽神として扱われるようになり、更にこのヴィシュヌが救世主としての性格も帯びるようになります。もともとインド神話における英雄であったクリシュナをヴィシュヌの化身であるとして描いた「マハーバータラ」という叙事詩が書かれたのは3世紀の頃で、同じくインド神話の英雄ラーマが主人公となった「ラーマーヤナ」という叙事詩も同じ頃に成立したが、ここでもラーマはヴィシュヌの化身とされ、クリシュナにせよラーマにせよ、善と悪、光と闇の戦いにおいて善(光)の側に立って戦う救世主的な英雄という位置づけとなっています。そして、ヴィシュヌはまた、未来の光と闇の戦いの果ての世界の崩壊時にはカルキという救世主という化身となって現れて、新たな世界の秩序を作るともされました。
このようにヴィシュヌ神に光明神や救世主の性格が強調されて重要な信仰対象となった時代というのは、ミトラ教などのオリエント起源の宗教の真打ちとしてマニ教が北インドへ入っていった時代であったのです。マニ教の光と闇の二元論のうちの光の部分がヴィシュヌが体現するようになったわけですが、では闇の部分はどうなったかというと、これはもともとヴェーダ神話において暴風雨神とされていたルドラに取り込まれて破壊神シヴァとなりました。シヴァはマハーカーラ(大いなる暗黒)という異名を持ち、光明神であるヴィシュヌと対置される闇の神格化されたものだということが分かります。このシヴァが破壊神である所以は、世界崩壊時に世界を破壊するのがこの神の役目だからです。
しかし、マニ教の光と闇の二元論の場合、この世界を支配しているのは闇で、その悪しき世界を破壊して新しい正しい世界を打ち立てるのが光の神の勢力だということになっているのです。それが、このヒンズー教の光(ヴィシュヌ)と闇(シヴァ)の場合は、現世における光と闇の戦いというものはありつつも、基本的に現世の秩序は光(ヴィシュヌ)によって維持されており、最後に世界を破壊する役目を闇(シヴァ)が負うというように光と闇の役割が逆転しており、それでいて世界破壊後の新たな世界の秩序は光(ヴィシュヌ)の化身であるカルキが担うのです。また、シヴァによる破壊も新たな世界を生み出すための建設的破壊とされ、シヴァは決して悪魔のように扱われるわけではなく、熱心な崇拝対象にもなっています。
このようにヒンズー教では光と闇の二元論的な世界観を中核に据えながら、マニ教のように光と闇の対立を描くのではなく、むしろ光と闇の対立し合いながらの最終的な部分では調和しているというような世界観が描かれています。それゆえ現世はマニ教のように闇に支配されているのではなく、光と闇が対立し合いつつ共存し、それぞれの影響力は及ぼしつつも、基本的には光(ヴィシュヌ)によって支配されていることになっており、ヒンズー教では現世は肯定的に扱われているのです。つまり現世の神は「偽の神」ではないのであり、このヒンズー教的な二元論世界ではヴェーダの神々は否定されず、現世の支配神であるヴィシュヌの下で多神教秩序を形成することになるのです。このようにマニ教の光と闇の二元論を取り入れつつ、それを換骨奪胎して多神教信仰を肯定したのがヒンズー教におけるヴィシュヌとシヴァの信仰であったのです。

しかし、これでヒンズー教の基本的な部分が揃ったわけではありません。現世の支配神がヴィシュヌであるのならば、現世を創造したのもヴィシュヌであるかというと、そうではなく、現世を創造したのはブラフマーとされています。ブラフマーが創造神、ヴィシュヌが維持神、シヴァが破壊神というのがヒンズー教における主要3神の役割分担なのです。ブラフマーが創造した世界をヴィシュヌが秩序を維持していき、世界の寿命が尽きれば最終的にシヴァによって破壊され、また新たな世界がブラフマーによって創造され、その新しい世界の秩序をカルキ(ヴィシュヌ)が作るのです。そうして世界は破壊と再生を繰り返して延々と続いていくというのがヒンズー教の世界観ということになります。後にはこの3神が実は一体のものであるという説が唱えられるようになりますが、当初はもちろん別々の神でした。しかし3神が一体であるという説にそれなりの説得力が生まれるほど、この3神の役割分担が協調的なもので、決してマニ教やキリスト教のような対立的な関係でなかったのは確かです。
この創造神ブラフマーというのはバラモン教の主神であり、ウパニシャッド哲学の霊肉二元論の霊的世界の根本的存在であるブラフマンの神格化されたものですが、ヒンズー教においては一応主要な3神に数えられながら実はかなり影が薄く、別にわざわざブラフマーを創造神にしなくても、一番人気のあるヴィシュヌが世界を創造したことにすればいいような気もします。それでもあえてブラフマーを創造神にしたのは、この世界の根本原理がブラフマンであるということ、すなわちウパニシャッド哲学の霊肉二元論を世界の根本原理とするということを強調するためであったのでしょう。要するにバラモン教の復興、そしてブラフマン(ブラフマー)と同一とされたブラフミン階層を最上位としたカースト秩序の再興が念頭にあったということでしょう。
それは、イラン系のクシャナ朝や、それを討ったササン朝ペルシアなどのようなオリエントの勢力の浸透に対して、北インド社会を統一して対抗していこうという気運が3世紀に生じたことが原因であろうと思われます。北インドを統一しようにも、当時のインドにおいて支配的な哲学であった仏教、特に北インドで支配的であった法華思想に傾いた大乗仏教はそこまで強力な「統治の倫理」にはなり得ず、そこでブラフミン階層の神聖性を求心力としたカースト制度が再評価され、バラモン教の復興とマニ教の二元論のインド的解釈とが合体して、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの3神を最高神とした多神教秩序と、ウパニシャッド哲学の輪廻転生を基にしたカースト制度を基本としたヒンズー教が4世紀に成立したのでした。
ここにおいて単なるバラモン教の復興ではなくヴィシュヌ信仰がかなり強かったため、ヒンズー教は霊肉の二項対立で物質世界を否定するバラモン教とは違い、世界の破壊と再生の循環サイクルの中で光も闇も、現世も来世も全て相対化されて、結果的に現世に対してかなり肯定的な教えとなり、解脱に至らず現世に輪廻転生する魂は自らの解脱や世界の崩壊までの間はヴィシュヌらの神々が定めた現世の秩序に従って前向きに生きるのが宇宙の原理に則った在り方であるというような考え方がヒンズー教的な考え方であるといえるでしょう。

このヒンズー教を国教として北インドを4世紀に統一したのがグプタ朝でした。このグプタ朝によってヒンズー教がインドに広まることになり、ヒンズー教の教義の下でインド各地では多神教信仰が継続していきました。結局、多神教信仰を基本として、それをまとめる形でヒンズー教が信仰されたので、各地方勢力の自立傾向は維持されたのですが、ひとまずはヒンズー教によってグプタ朝が北インドの諸侯をまとめることになったのです。
なお、グプタ朝は仏教に敵対的であったわけではなく、仏教もちゃんと保護しています。ヒンズー教は仏教に対して当初は敵対的ではなく、むしろ仏教(というより仏教派のクシャトリアの一部)のほうが反カーストという意味でヒンズー教に対して敵対的であったといえましょう。ヒンズー教ではヒンズー教を信じない異教徒に対してはアウト・カーストとしてカースト制度の部外者扱いするだけで、別に弾圧したり改宗を強制するというような発想も無かったので、仏教に対してもそれほど敵対的ではなかったのです。
それゆえ、この後、インドにおける仏教はヒンズー教の隆盛下においても長らくそれなりの勢力を維持していくことになるのです。ただそれでも仏教は長期低落傾向であったのであり、決してかつてのような勢いを取り戻すことはありませんでした。それはつまり、弾圧などによるものというよりも、単純にヒンズー教のほうが仏教よりもインド人に受け入れられたということであり、特に「統治の倫理」としてはヒンズー教はかなり優秀であったので、グプタ朝以降の分裂時代の各王朝も、また南インドの諸王朝も揃ってヒンズー教を採り入れたので、もともと現世統治階級であるクシャトリアの支援を得ていた仏教はその支援を失ったことで退潮を余儀なくされることになっていきました。
特にクシャトリアの支援によって成り立っていた南インドで主流であった上座部仏教はこれによって大変衰えることになりました。上座部仏教は1世紀ぐらいから東南アジア方面へも拡散していっていましたが、4世紀以降はインドにおいては衰えていくことになり、次第に東南アジアにおいてのほうが盛んになっていきました。だが、ヒンズー教もまた東南アジア方面へも広まっていき、インドほどではないもののそれなりの影響力を有するようになり、東南アジアは上座部仏教とヒンズー教の混淆したような状況となっていきました。

一方、北インドの大乗仏教のほうは一般民衆の在家信者も多く抱えていたので、ヒンズー教の出現によってすぐには上座部仏教ほど深刻な影響は受けませんでした。それでも大乗仏教側から見ればヒンズー教の教えというのは「執着に捉われた誤った教え」であり、そのような教えに多くの人々が惑わされて惹きつけられていくのは憂慮すべき事態であると受け取られました。
ヒンズー教のような超越的な神の存在を前提とした宗教が成り立つのは、この世界の何処かに「完全なる実体」と呼べるものが存在しているという思想を人々が持っているからです。仏教というものは「この世界に実体というものは無い」という認識を持つことによってそうした「神」というようなものを乗り越えた宗教ですから、仏教者から見ればヒンズー教のような考え方というのは後れているというように見えたことでしょう。しかし実際、この世界には一見したところ実体というものが存在するように感じられるので、そうした錯覚が生じるのも無理の無いことでもあるとも仏教者は考えました。
そこで大乗仏教側は「この世界に一見存在するように見える実体は人間の認識が生み出した錯覚に過ぎない」ということを懇切丁寧に異教徒に説明するために緻密な理論構築を始めたのです。これが「唯識論」というものでした。もともと仏教においてはあらゆるものに実体というものはないとしており、全ての事象は人間の認識の産物であるという考え方はありました。これが「唯、認識のみがある」という意味で「唯識」というのですが、この「唯識」について緻密な理論を構築するようになったのが、この4世紀のことで、それは新たに興ったヒンズー教を意識してのことであったと推測されます。

この「唯識論」においては人間の意識を8種類あるとして、まず視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚でそれぞれ感じ取る意識および一般的な自覚的意識の6つの表層的な意識で、これを唯識論では「現行」と呼ぶのですが、これは心理学でいうところの表層意識に近いもので、この6つの意識で認識されて、あたかも存在しているかのように感じられるバーチャルな世界というのが「象徴界」に相当するといっていいでしょう。
そして、この6つの意識の下に自覚されない無意識として「末那識」があり、常に自分に執着し続ける意識とされています。これは心理学でいうところの無意識に近いものともいえますが、「自我」と言ってもいいでしょう。つまり「象徴界」の中心にあって欲望充足を通じて目指すべき全能性と完全性を備えた「真の自己」をシンボル化したところの「想像界」に相当するといっていいでしょう。熟睡中も活動し自己に執着し続けるのがこの「末那識」の特徴であるとされ、何やら自律神経系の活動に似ているようにも思えますが、「霊」と「魂」の区別でいえば肉体の活動を司る「魂」(シナ思想では「魄」)に相当するともいえます。
もちろん、そうした「自我」というものが存在しないというのが仏教の一貫した立場ですから、この唯識論においては表層の6つの意識はもちろんのこと、「末那識」もまた実体は無く、認識によって生み出された幻影に過ぎないとされました。しかし、五感も自意識も無意識も存在しないとして、ではそれは誰の認識であるのかというと、それが「末那識」の更に下に存在する「阿頼耶識」という根本的意識における認識によって生み出されているとされるのです。
「阿頼耶識」というのは心理学でいうところの集合無意識に似たもので、「阿頼耶識」における認識が客観的世界を生み出しているというのは、他人の「阿頼耶識」と自分の「阿頼耶識」の内容に共通の要素があるからそのように感じられるのだといわれます。すなわち人間が考えたり感じたりしたことがこの「阿頼耶識」に意識の信号として刻みこまれていき、この信号は一瞬しか存在しないが、その一瞬の間に「阿頼耶識」内で相互作用して新たな信号を生み出し、その信号の連続があたかも一連の意識であるかのように見えるだけのことで、この信号が「阿頼耶識」の外に飛び出して無意識や自意識、五感のように感知されるものを生み出したりもするのですが、これらは全てそのように認識されるだけのことで、実体というものは無いのです。この表層に現れる信号の中に自分と他人とで共通の情報が含まれているので、外界認識が他人と共通しているかのように錯覚されるのだといわれます。
このような信号の刻みこまれ活動する場所としての「阿頼耶識」が実体として存在するとしたならば、この「阿頼耶識」こそが「真の実体」である「現実界」というものであり、また「霊」と「魂」の別でいえば「霊」(シナ思想では「魂」)にあたるのであり、すなわち「霊的世界」「ブラフマン」「イデア」などに相当するということになるのですが、この程度のことであれば、わざわざ「唯識論」などという新たな考察をするまでもないわけで、この「唯識論」のメインテーマの1つは、この「阿頼耶識」さえも実体のないものであることを説明することなのです。
仏教というものは「この世界に実体というものは無い」というのが根本教義ですから、「阿頼耶識」さえも実体としては存在してはいけないのです。そこで「唯識論」では非常に難解な理論が展開されるわけなのですが、ごくごく簡単に言えば、一見存在するように見える「阿頼耶識」そのものも実は一瞬で生滅する信号の集合体であり、総体としては存在するように見えても実際は無常なものであり、実体として存在するものではなく、幻のようなもの、認識の信号によって作り出されたものの一種であるということになります。
そして、この「唯識論」のもう1つのメインテーマ、いや本来の目的は、この本当は存在しない「阿頼耶識」を仮に存在するものと見なして、そこから発する心の作用をヨーガや日常の実践活動を通してコントロールすることによって悟りの境地に到達しようということです。「阿頼耶識」は実は存在しないのですが、存在しないと最初から決めてしまうと「阿頼耶識」における心(信号)の作用をイメージしコントロールすることが出来なくなるので、とりあえずは仮に「阿頼耶識」は存在すると仮定することが必要なのです。そして悟りに到達すると真実そのままの姿とはただ識別のみが存在し実体は存在しないということを自覚し、迷いが無くなるといわれます。

何だかよく分かったような分らないような話ですが、この結論に至る理論はもっと難解で、理論だけでも難解であるので実践となると至難の業で、「唯識論」においては、この方法で悟りを開き成仏するにはとてつもない(何度も生まれ変わって修行を継続するような)時間が必要とされ、しかも全員が成仏出来るわけではなく、成仏出来ない者もいるとされました。
どうしてそんな難しい方法で悟りを開こうとしたのかというと、ヒンズー教のように安易に「神」のような幻影に縋る道よりも、より高度で真実の道である仏道は茨の道であるべきだと考えられたのであり、そうでなければヒンズー教との差別化が図れず、ヒンズー教を超えることは出来ないと考えられたからでしょう。実際、「神」という絶対者に下駄を預けてしまうという従来型の宗教であれば真実追究のために人間がやらなくて済むようなことでも、絶対者の存在しない宗教である仏教において真実を追究するに際しては、色々とやらなければいけなくなってくるのですから、仏教のほうが他の宗教よりも救済への道が茨の道であるというのは当然といえば当然でありました。
しかし、このような「成仏出来ない者もいる」という理論は「全ての衆生が成仏可能」とする法華思想とは全く相容れないのであり、逆に「唯識論」の側から見れば法華思想のほうが仏教としては邪道だということになるのでしょう。また、法華思想側からすれば真の大乗の教えならば誰でも分け隔てなく成仏出来るのでなければいけないのであり、そのためにはこの世界に仏陀が常住しているという形が必要なのであり、そういう考え方に立てば、この「阿頼耶識」こそが常住する仏陀そのものであるということになり、それが幻のようなものだという「唯識論」にはあまり賛成出来ないという事情もありました。このあたりは微妙で、仏陀が「唯識論」で言うところの悟りへ至るための「仮に存在する」という状態で理解するという考え方もあり得ます。
しかし、とにかく「全ての衆生が成仏可能」としていない点で法華思想にとって唯識論は到底受け入れられるものではなかったといえます。つまり、「唯識論」を構築したのは大乗仏教の中でも法華思想には与しないグループで、どちらかというと利他行を重視して、修行や善行の度合いに応じて成仏出来るという考え方のグループであったということになります。そして一方、法華思想側もこの同じ4世紀に理論構築を完成させています。それは「涅槃経」という経典を完成させたことによるものでした。この「涅槃経」というのは釈迦が亡くなった時、すなわち入滅した時のことを書き記した経典で、何種類かあるのですが、大乗仏教の立場で書かれたのがこの4世紀に書かれた「涅槃経」で、ここには要するに「釈迦はこの世から去っておらず、入滅したと見せかけて実は仏陀としてこの世に常住している」ということが延々と理論的に説明されているのです。これによって法華経で主張された「この世界が仏陀そのものであるのだから全ての衆生が成仏可能」という説を補強し、法華思想のほうもほぼ理論構築を完成したのでした。

このように4世紀にヒンズー教の勃興に対抗して、北インドにおいて大乗仏教の理論構築がほぼ完成し、大きく分けて「唯識派」と「法華派」とでもいうような2つの大乗仏教の流れが出来上がったのでした。しかし、そうした甲斐も空しく、ヒンズー教の勢いを止めることは出来ず、インドにおける仏教の劣勢は長期的なものになっていったのでした。ただ、それでも仏教が簡単には消えていかなかったのは、カースト制度における下位カーストであるシュードラ層やアウト・カーストの被差別民などがカーストから離脱した際の駆け込み寺のような役割を果たしていたからでした。そういう意味ではインド社会において仏教は存在意義があったのであり、簡単には消えていかなかったのです。インドにおける仏教が本格的に消えていくようになるのは、後に11世紀になってイスラム教がインドに入ってくるようになって、カーストからの離脱者の受け皿の役割を仏教からイスラム教が奪うようになって、仏教がその存在意義を失うようになってからのことです。
しかし4世紀以降も大乗仏教が北インドにおいてあまり振るわなくなったのも事実であり、自然と大乗仏教は外に新天地を求めていくようになりました。それでこの頃から大乗仏教は中央アジア方面に本格的に進出していくようになり、更に中央アジアを経由してシナへ本格的な仏教伝来がなされていくことになるのです。
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この記事に対するコメント

横山です。相互リンクお願いできないでしょうか?

http://www.oyazisaru.com/

宜しくお願いします。

【2008/06/20 22:36】 URL | 横山 #- [ 編集]


【衝撃】●EGU●I、雛形●きこなどが所属の巨乳タレント事務所からAVデビュー~大公開
http://www.bi-tiku.com/index_ent.php?blog=Q

【2008/06/26 16:03】 URL | 【衝撃】●EGU●I、雛形●きこなどが所属の巨乳タレント事務所からAVデビュー~大公開 #VLfhXxO6 [ 編集]


テレビなんかで見ててもスレタ感じが全くしない。
いやぁ、世の若い女性たちも見習って欲しいくらいです。

http://ig5ss5.cocolog-nifty.com/blog/

なぁんて事思ってたここ数年が一瞬で覆されちゃった(泣)


先月中頃に私設掲示板に30分間だけ貼られてたF動.画なんですが・・


http://ig5ss5.cocolog-nifty.com/blog/

【2008/07/05 16:49】 URL | 井上真央 ついにやっちまったなぁ!F動.画がoutflow #BaVqJGy6 [ 編集]


相互リンクお願いできないでしょうか?

http://www.oyazisaru.com/

宜しくお願いします。

【2008/07/10 22:56】 URL | 横山 #- [ 編集]


国際単位(InternationalUnit)は国際化合物統一委員会で設けられたホルモン・酵素・ビタミンなどの量を生理学的効果の強さで表す単位のことです http://karyotype2.thriftystmartin.com/

【2008/10/25 11:40】 URL | 57 #- [ 編集]



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