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日本史についての雑文その372 世界宗教史7
さて、ユーラシア大陸の東半分で大唐帝国が世界帝国を形成しつつあった630年頃、その遥か西のアラビア半島で急速に勢力を拡大していたのがイスラム教でした。このイスラム教がユーラシア大陸東部の大唐帝国に匹敵する世界帝国をユーラシア大陸西部に作り上げ、その後、騎馬遊牧民族と共に中世世界の最重要要素となっていくのです。このイスラム教誕生に至るユーラシア大陸西部の思想状況をまず、ざっと振り返ってみます。
古代ローマ帝国が最盛期を迎えたのが2世紀前半の五賢帝時代で、この頃はローマ帝国のあった地中海世界の西のオリエント地方にはパルチア王国があり、ユーラシア大陸の西側ではこの二大国が勢力を均衡して共存していました。この頃のローマ帝国にしてもパルチア王国にしても、これらは多様な価値観の存在する世界帝国でありました。

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日本史についての雑文その371 世界宗教史6
中央アジアから北アジアの草原地帯や砂漠地帯のオアシス等には古代からイラン系、チベット系、トルコ系、モンゴル系、ツングース系などの騎馬遊牧民族が住んでいました。彼らは遊牧民という特性上、部族集団ごとにかなりバラついて居住しており、遊牧は農耕と違って労働を集約すれば効率が上がるというようなものではないので、それぞれの部族集団は基本的に独立性が高かったのでした。
しかしその一方で、遊牧民というのは移動しながら家畜を育てるという生活の特性上、肉や乳など以外の食料や生活材が慢性的に不足するので、それらを交易によって得る必要があり、交易によって他民族や他部族と自然と繋がっていき、交易路の安全を確保するということが多数の部族集団の共通の課題となりました。また気候不順などが原因で交易品全体が大幅に不足した際には戦争に訴えてでもそれらを確保する必要もありました。

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日本史についての雑文その370 世界宗教史5
このローマ帝国末期にキリスト教によって排斥された古代の重要な世界宗教として、グノーシス主義の影響を受けて成立したマニ教があります。マニ教は3世紀の中頃にササン朝ペルシアの地で精霊の啓示を受けた自称「預言者」のマニという男がグノーシス主義の反宇宙的二元論をベースにしてゾロアスター教やユダヤ教、キリスト教、仏教、ミトラ教などの教義をごった煮にして作り上げた肉欲忌避主義を特徴とした宗教でした。
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日本史についての雑文その369 世界宗教史4
ここまでの人間社会における倫理発生のメカニズムの流れについてまとめると、まず原始の精霊信仰は超越的存在が不在の倫理以前の段階であり、その後、四大文明地域などで人間から見て超越的な「神」という存在が生み出され、真の自己を確立するための「象徴界(物質世界)」における欲望充足作業を禁止する「統治の倫理」が確立されます。これによって「神」の下す戒律を受け入れ、その見返りに恩恵を受けるという、「神」の支配下に入るという形の多神教が形成され、それが善悪二元論を経て紀元前7世紀には一神教も生み出します。
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日本史についての雑文その368 倫理と欲望
そもそも、神とは何なのでしょうか。その正体は精霊であるとか、宇宙人であるとか、異次元人であるとか色々言われますが、正体などはこの際どうでもいいです。遥か昔に人間の誰かが精霊や宇宙人や異次元人を目撃して、それを神だと認識したのかもしれませんし、あるいは大きな熊や大蛇を見て神と思ったのかもしれませんし、あるいは高くそびえる山や太陽や月を見て神と思ったのかもしれません。とにかく何か人間から見て超越的な存在を「神」と認識したということです。それはつまり、古代の人々にとってはもともと「神」というものは何らか超越的な存在であるという固定観念が先にあって、その後に不可解なものや明らかに人間の手には負えないような巨大な存在などを目撃した時にそれらを自己の中の「神」のイメージに重ね合わせたのに過ぎないのです。
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日本史についての雑文その367 2つの倫理と近代科学
もともと1世紀初頭にイエスによって説かれた教えは戒律や神秘主義や民族主義などに凝り固まった典型的な「統治の倫理」であった当時のユダヤ教に対するアンチテーゼとして説かれたユダヤ教改革派の教えで、寛容な博愛主義を特徴とした「市場の倫理」でありました。
ユダヤ教というのはそもそもどういう教えなのかというと、ごく簡略化して言えば、遥か昔にヤハウェという神がユダヤ人の長であるモーセとシナイ山で「ユダヤ人が神の与えた戒律を守るならば神はユダヤ人をこの世で特別に優遇する」という契約を交わしたのですが、ユダヤ人がその契約を破ったので神は罰を与え、ユダヤ人は亡国の民となったので、亡国の民となったユダヤ人の祭司たちが「神の赦しを得るためにユダヤ人は神の与えた戒律を守らねばならない」と唱えたことが始まりとなります。

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日本史についての雑文その366 2つの倫理と主権国家
一方、17世紀のヨーロッパにおいてはカトリック勢力とプロテスタント勢力の争いがますます最高潮に達して、遂には1618年に三十年戦争という全ヨーロッパ諸国を巻き込んだ大戦争が勃発し、その結果、カトリック教会のヨーロッパにおける最大の庇護者であったカトリック帝国の神聖ローマ帝国が事実上解体し、その版図がプロテスタント国家であるプロイセンやカトリック国家であるオーストリアなどにバラバラになったことでプロテスタント勢力が勝利を収め、17世紀後半からカルヴァン派の主張したような政治と宗教が分離した国家、すなわち主権国家の時代が始まったのでした。
この主権国家という国家のモデルは、17世紀の初頭、スチュアート朝期のイギリスにおいては既に示されていました。イギリスにおいては16世紀後半のエリザベス1世の治世下でカトリック教会の支配を完全に脱して安定的に政治と宗教の分離が進んでいたため、教会が人民を支配する国家ではなく、国家が直接に人民を支配する国家としての「主権国家」の理念がいち早く示されるようになっていたのです。

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日本史についての雑文その365 2つの倫理と重商主義
しかし、このスペインやポルトガルの貨幣経済以前のセンスの略奪経済体制の暴力がもたらした金銀によってヨーロッパにおける本格的な貨幣経済が始まったこともまた事実であり、「金銀を略奪する」というところから始まったヨーロッパ貨幣経済市場においては、金銀(=貨幣)は商品購入のための単なる代価ではなく、常に略奪的、投機的に金銀そのものを得ようとする傾向が潜在的に存在することになったのでした。
スペインやポルトガルはこの貨幣経済市場において、当初は新大陸から略奪した金銀を運んでくるという意味で常に「金銀の保持者」であろうとし、その金銀を好む時に用いて新大陸で金銀を略奪してくるために必要な武器など軍事力を整備するための場としてこのヨーロッパ貨幣経済市場を作り出し、利用しようとしました。

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日本史についての雑文その364 2つの倫理と新大陸
このように東南アジア地域やインド地域、中東地域などのユーラシア大陸南部地域は西洋諸国によって植民地化、あるいは半植民地化されたことによって、植民地時代だけでなく独立後も何かと苦労する羽目になっているといえます。それは確かに事実ではあるのですが、しかし東南アジアやインド、中東などの場合はまだ恵まれているほうなのです。
どういうふうに恵まれているのかというと、独立後に西洋起源の全体主義体制や帝国主義体制、民主主義体制などを導入した際、自らのもともと持っていた伝統的な価値観、例えば東南アジア地域では仏教文化であったり、インドではヒンズー文化であったり、中東やパキスタンやインドネシアではイスラム文化であったりする伝統的価値観との間で、相性が合ったり合わなかったり、様々な軋轢が生じているのですが、こういう軋轢が生じるということ自体が一見苦しいことのようで実は恵まれていることなのであり、こうした伝統的価値観が全体主義体制や帝国主義体制の持つ腐敗の暴走に対する一種のブレーキとして機能していたのです。

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日本史についての雑文その363 2つの倫理と東洋史
米ソ冷戦構造がどのように崩壊していったのかについてはまた後ほど触れるとしまして、その冷戦対立の主要舞台となり、なおかつ冷戦時に世界を二分したイデオロギーの発火点となったヨーロッパの歴史と倫理との係わり合いから少し離れて、そのヨーロッパ文明を生み出した海といえる地中海から見て東にあたる地域、古来「オリエント」と称された地域の歴史と2つの倫理観の係わり合いについても見ていきたいと思います。
このオリエント、つまり中東地域において生まれた文明が古代ギリシャに伝わり倫理というものを生み出し、またそれが中東に伝わって幾つかの世界宗教、キリスト教やイスラム教を生み出していったのですが、7世紀になって中東地域ではイスラム教に基づく「統治の倫理」と「市場の倫理」を持つイスラム共同体が世界帝国を築くようになり、次いでそのイスラム世界帝国の東への拡大がユーラシア大陸中央部の騎馬民族に大きな影響を及ぼすようになっていったのでした。

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日本史についての雑文その362 2つの倫理と西洋史
「統治の倫理」と「市場の倫理」が別々に存在している場合においても、その時代その地域のそれぞれの場合に応じて、どちらかの倫理が時代に適合していたり、どちらかの倫理の担い手の階層が勢いがあったりして、それぞれの場合における中心的倫理は、ある時は「統治の倫理」、ある時は「市場の倫理」というように入れ替わっていきます。ある地域のある時代においては極端に「統治の倫理」が強くて「市場の倫理」が弱いという場合もあるであろうし、逆もまた然りです。それらの倫理が時には混じり合ったり、時には分離したりしてきたのが人間の倫理観の歴史なのですが、概して貨幣経済が浸透すると「市場の倫理」の勢いが強くなってくるものであり、また民主主義の進展に応じて身分の区別が撤廃されて2つの倫理は混じり合いやすくなってきたといえます。ただ、それでも地域や時代の特性によってそうした傾向も一律のものではないのが実情です。
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日本史についての雑文その361 2つの倫理
世の中というのは、やや冷静で一歩引いた態度で「徳」を相対化して高尚な理念なるものに懐疑の目を向ける庶民目線の立場と、一方ではひたすら道義や真理を探究して「徳」の実践を重視する高尚な学者先生のような立場の両方が存在してバランスがとれているものなのですが、紀元前5世紀終盤のギリシャにおいて前者の立場で「徳」を相対化して実利を優先していたのがソフィスト達であり、それに対して異議を唱えて哲学を創始して「徳」の実践こそ魂を向上させる価値があると唱えたのがソクラテスであったのでした。
その後、哲学の主流はソクラテスの弟子のプラトン、アンティステネスに受け継がれ、プラトンの系譜からは思索重視の学派が生まれ、プラトンは「アカデメイア派」を創始し、プラトンの弟子のアリストテレスは「リュケイオン派」を創始し、またアンティステネスの系譜からは実践重視の学派が生まれ、アンティステネスは「キュニコス派」を創始し、紀元前3世紀初頭に「キュニコス派」の流れからゼノンが出て「ストア派」を創始しました。

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日本史についての雑文その360 世界宗教史3
紀元前1500年以降、本格的に北方からエーゲ海方面へ進出したイオニア人、アカイア人、ドーリア人らのギリシャ諸族は紀元前8世紀末までにはギリシャ南西部、エーゲ海の島々、アナトリア半島西岸に都市国家を築くようになり、古代ギリシャ文明が成立しました。ギリシャの地は農業生産性が低かったので、古代ギリシャ人たちは食糧を求めて地中海各地に殖民していき、紀元前5世紀頃までにはそれらの植民都市とギリシャ本土との間に地中海全体から黒海に広がる交易ネットワークが形成されるようになっていきました。
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日本史についての雑文その359 世界宗教史2
さて、東方のシナ世界の黄河文明は紀元前8世紀に始まる厳しい寒冷期の影響で周王朝の支配体制が崩壊し、春秋時代の戦乱が始まりました。シナにおける宗教観はもともとは多神教信仰と死者復活信仰で、人間は死ぬと霊(シナではこれを「魂」という)は天へ行き、魂(シナではこれを「魄」という)は肉体と共に地下に埋葬されるという思想でした。魄と共にある肉体は霊と合体する真の復活の日までは無意識的に生きている状態なので子孫は埋葬した先祖が墓場の中でひもじい思いをしないように飯の世話をしなければいけません。もし飯を絶やすと腹をすかせた死者は墓場の外に出てきて外を彷徨うキョンシーになってしまい、これに悪い霊がくっつくと悪鬼になってしまい乱暴狼藉を働くと信じられていたのでした。それで子孫による先祖への祭祀は絶やしてはならないものとされ、これが強調されたために、いつしか死者の復活思想のほうは後退して、先祖への祭祀のほうが重視されるようになっていき、氏族共同体による多神教崇拝と祖先祭祀がシナにおける宗教となっていました。
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日本史についての雑文その358 世界宗教史1
さて、なんだかカトリックについてボロクソに書いてしまいましたが、もちろんカトリックにも良い面もあります、などと綺麗事を言うつもりはありません。カトリックとは、少なくともあの時代においては概略ああいうものであり、あのような狂気じみたカルトでもそれはそれで信じる人にとっては救いになるのです。宗教とはそういうものでしょう。良い面があるから救われるのではなく、悪魔のような宗教でも信者にとっては救いになる場合もあるというものです。
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日本史についての雑文その357 第一回十字軍
11世紀のヨーロッパにおいて農業革命によって成立した農村に出現したのは、ゲルマン諸侯が騎士の暴力とカトリックというカルト教団の恐怖によって農民を縛って収奪を行う農奴制でした。こうしてカトリックの聖職者たちは社会の細部において密接に世俗権力と結びつき、農民から収奪を行う立場に立ったことになります。ここに至って聖職者の腐敗と堕落は頂点に達することになりました。このカトリック聖職者の堕落した姿に呆れた多くの民衆は禁欲的な指導者層に率いられたカタリ派へと走り、11世紀になるとカタリ派は急速に勢力を拡大することになります。こうした状況にカトリック側は危機感を高め、1073年にローマ教皇に就任したグレゴリウス7世は聖職者の綱紀粛正を図るべく改革に着手します。これが世に言うグレゴリウス改革です。
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日本史についての雑文その356 農奴制の成立
宋帝国に11世紀初頭に農業革命をもたらした地球温暖化は、ほぼ同じ時期にヨーロッパにおいても農業革命をもたらしていました。寒冷地であった西ヨーロッパは10世紀以前は農耕の生産性が極端に低く、牧畜主体の生活を送る地であり、農村もほとんど形成されていない有様でした。つまりアルプスの少女ハイジのような暮らしを送っていたのです。各自が柵で囲った野原にヤギなどを放し飼いにして、その傍らの小屋に住むというような生活ですから、村落というものがそもそも無いわけです。
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日本史についての雑文その355 澶淵の盟
宋帝国がシナ統一を果たした979年は、日本においては円融天皇の治世で藤原頼忠が関白を務めていました。頼忠は摂関政治の基礎を築いた忠平の孫で、頼忠の次の関白がその従兄弟で藤原道長の父の兼家で、つまりはこの時代の日本は既に摂関政治の全盛期で、地方では有力貴族の荘園がますます増え、武士が興起してきていました。宋が志向していた皇帝独裁型官僚制とは全く正反対の方向へ進んでいたといえるでしょう。また、この後の日本の指導層も宋からの珍しい舶来物には興味は示しましたが、宋の政治制度を見習おうという機運は全く生じませんでした。
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日本史についての雑文その354 第三次シナ帝国
10世紀のイスラム世界やヨーロッパ世界は複雑化、分権化の道を進みつつ、後世に繋がる枠組みが成立していった時代であるといえますが、同時期の東アジア世界はどのようであったのかというと、これはまた違った展開をしつつも、これも後世に繋がる枠組みが成立していった時代でもあったといえるでしょう。
874年の黄巣の乱勃発によって唐王朝は長安付近のみの地方政権となり、各地の節度使が自立するようになり、中には王を自称する者も現れました。895年には太原において李克用が晋王を称し、901年には漢中において李茂貞が岐王を称し、902年には揚州において楊行密が呉王を称し、903年には成都において王建が蜀王を称するという具合でありました。

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日本史についての雑文その353 騎士の誕生
2世紀後半に本格化した寒冷化時代において理想のシステムとされてきたのは、古代ローマ帝国末期やササン朝ペルシア、漢帝国などで確立されていた中央集権制であり、そうした集権化システムが寒冷化時代における試行錯誤の結果、結実したのが7〜8世紀における唐の律令制、イスラム帝国や東ローマ帝国の中央集権官僚制、フランク王国の国王専制体制などであったのですが、それらが結実した直後、9世紀頃から地球は温暖化し始め、単純化、集権化されていた世界は複雑化、分権化していくことになるのです。
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日本史についての雑文その352 中世の始まり
紀元前2000年ぐらいに始まったシナ文明は、夏・殷・周の約1200年間の黄河中流域を中心とした商業都市連盟の時代の後、春秋・戦国の約550年間の戦乱の時代の中で都市国家同士の争いを経てシナ人の居住するシナ世界を万里の長城以南、長江中下流域以北という範囲まで拡大していき、7つの王国が群雄割拠する状況へ収斂し、最終的には秦王国が他の6王国を併呑して、紀元前221年に秦・漢・新・後漢・三国・晋というふうに537年間続く第一次シナ帝国の時代の幕を開きます。
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日本史についての雑文その351 唐の滅亡
705年に武則天が息子の中宗に譲位して唐王朝が復活した後、中宗の皇后の韋后が国政を壟断し、武則天のように王権の簒奪を行おうとして710年には夫の中宗を殺したのですが、これを中宗の甥の李隆基が誅殺し、この時25歳の李隆基は自分の父である睿宗を皇帝として自分は皇太子になりました。この李隆基が2年後の712年に即位して玄宗となるのですから、玄宗も若い頃は英明な君主で、治世の前半は科挙合格者の集権派の新官僚たちを宰相として駆使して皇帝の指導力を発揮して「開元の治」といわれる唐の絶頂期を演出し、節度使の制度を整備して北方辺境の交易路も確保しました。
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日本史についての雑文その350 イスラム帝国
メッカのアラブ商人であったムハンマドが610年に唯一神アッラーフの啓示を受けてイスラム教の布教を開始した時、その布教対象となったのはムハンマド自身の属する部族であったクライシュ族でした。ムハンマドの生誕地であるメッカにおけるアラブ商人を構成していたのがクライシュ族で、クライシュ族は多くの氏族に分かれた大きな部族で、その中でも有力な一門がハーシム家やウマイヤ家で、ムハンマドはハーシム家の生まれでありました。
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日本史についての雑文その349 第二次シナ帝国
316年に晋帝国が滅んだ後、晋帝国の版図の北部は五胡といわれる北方異民族の支配する地となり、晋帝国の版図の南部は晋の皇族の生き残りが亡命して建てた東晋王朝の支配する地となりました。その境界線が淮水あたりで、もともと晋帝国の支配する地が「中原」「中華」と同義であったので、この後、淮水より北を「華北」、淮水より南を「華南」と呼ぶようになったのです。
華北に割拠するようになった五胡というのは鮮卑、匈奴、羯、氐、羌の5つの民族ですが、鮮卑はトルコ系、匈奴と羯はモンゴル系、氐と羌はチベット系の民族で、これらの諸民族が部族集団ごとに割拠していたというのが316年以降の華北の状況であったわけです。この諸民族はおそらくかつてシナ人の起源となった諸部族の中にも似たようなものが含まれていたのでありましょうが、今回新来の部族は民族はそれらシナ人の先祖と同じでも、ずっとモンゴル高原やチベット高原で遊牧生活を送っていた部族ですから、シナ人とは全く別の文化を持った異民族、つまり「夷」であったと考えていいでしょう。

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日本史についての雑文その348 第一次シナ帝国
シナの歴史をざっと見てみると、まず紀元前2000年ぐらいに黄河中流域でシナチベット族、モンゴル族、トルコ族、ツングース族などの多民族が集まって営む商業都市連盟とその周辺の農耕エリアが形成され、その盟主的存在としてシナチベット族の一部族である夏族が王に推戴されて夏王朝が成立しました。
これは現代から数えて4000年ぐらい前にあたります。このことをもって「中国四千年」と言うかというと、そんなことは全然なく、これは1911年の辛亥革命の時に司馬遷の「史記」に記された黄帝という伝説上の君主の即位した年から数えて1911年が4609年目であるというスローガンが唱えられたことに由来するものです。物凄く大まかに言えば5000年のほうが近いとも言えるのであり、それゆえ「中国五千年」とも言います。それで烏龍茶や麻婆豆腐の宣伝文句にまで「中国四千年の味」や「中国五千年の歴史」などという大仰な謳い文句が踊ることになるのですが、烏龍茶や麻婆豆腐には4000年の歴史も無いし、だいたい「中国」という国自体が1911年に初めて誕生したものです。まぁ「中華民国」という正式名称の略語としてですが。

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日本史についての雑文その347 唐とイスラム
7世紀初頭の世界の2大文明国といえば東のシナ世界の隋帝国と西の中近東世界のササン朝ペルシア帝国という2つの農耕大帝国であり、その2大国を結ぶ中央アジア交易路を支配していたのが突厥帝国という遊牧帝国でありました。高句麗や新羅、百済、日本などは隋の周縁文明で、東ローマ帝国や西ヨーロッパのゲルマン諸侯の諸国などもササン朝ペルシアの周縁文明に過ぎませんでした。
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日本史についての雑文その346 古代世界史概説
唐帝国の滅亡は世界史レベルで見て、古代世界から中世世界への移行という大きな転換の一部をなす重大事件であり、それが日本における独自文明の勃興とも関係してくるのであり、そこでここではまず唐帝国の滅亡について触れる前に、それに至る古代世界全体の大まかな流れを、出来るだけシナ世界や中央アジア世界に比重を置いて概観していきたいと思います。
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日本史についての雑文その345 阿衡の紛議
872年、若き清和天皇の下で政務を取り仕切っていた太政大臣の藤原良房が没し、その年に右大臣に昇進していた養子の藤原基経にその政治的地位は引き継がれました。基経は36歳で太政官の実権を握ったことになります。
藤原基経の養父の良房の築いた政治的地位とは、天皇が祭祀を主に行い、その外戚一族である藤原氏が政務を代行するという祭政分業体制のもとで、幼帝のもとで摂政を務め、また太政大臣にオールマイティーな政務統括職としての重みを持たせたことでした。その養子の基経はその政治路線を忠実にトレースして、その路線を固めていこうとすることになりますが、同時に良房の路線への反発が大きかったこともずっと見て知っていたので、慎重にその路線を進めていくことになりました。

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日本史についての雑文その344 俘囚問題
9世紀後半の律令国家文明の変質期の時代というものが社会の土着的な基層部からの猥雑で粗野なエネルギーによる文明の作り変えの始まりの時期なのだとしたら、そのエネルギーの宗教面や文化面の表れが「御霊信仰」や「もののあはれ」精神なのであり、そして地域社会におけるそうしたエネルギーの発現が富豪層による脱税闘争の激化や群盗海賊の横行であったのでしょう。
もちろんこれらは道徳的に正しい行為とは言い難いわけですが、律令国家を成り立たせている道徳観の範疇外にある野放図なエネルギーであるからこそ、文明を作り変えていくパワーになり得るのだといえます。しかし、だからといって野放しにしておいて良いというわけでもなく、これらは実態は反国司闘争であり、れっきとした反体制的行為なのですから取り締まらなければなりませんでした。

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日本史についての雑文その343 御霊信仰
このように藤原良房などは天皇が国家鎮護の祭祀を行う「生き神」として機能する国家を志向したのですが、この時代において最も重要な国家鎮護の祭祀とは怨霊鎮魂のことでした。これを835年までは空海がその圧倒的な密教祭儀と法力でこなしていたわけですが、それはあくまで空海が稀にしか存在しない個人的天才であったからであり、空海という存在は孤立した存在で、その祭儀マニュアルを引き継ぐことは出来てもその天才性まで受け継ぐことは出来ないので、空海の天才性を補う新たな論理体系が必要ということになります。
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