さて朝鮮出兵が失敗に終わったことで、外国に軍を派遣して戦争をするということはやりづらくなりました。国内の戦争も秀吉の天下統一以来絶えていました。確立期の50年間においても戦争は関が原と大阪の冬夏の陣と島原の乱の4回だけです。 もともと海外交易の利益は秀吉時代は戦費につぎ込まれていたのですが、もうそういう必要は無くなったわけです。そこで必然的にその利益は国内インフラ整備に向けられることになったのです。 ...read more
さて、このようにこの幕藩国家形成期後期においてスペイン勢力は秀吉に大変強圧的に圧迫されるわけですが、世界の海を支配しているはずのスペインがこれらに対してほとんど為す術が無いというのもおかしな話です。確かに秀吉や日本の軍事力が強大であったことも事実ですが、それにしても不甲斐なさすぎなのです。 ...read more
こうして16世紀半ば以降、日本とポルトガル商人とシナ商人との間に南蛮貿易が始まったのですが、日本においては最初は九州地方の戦国大名が盛んに貿易を行いましたが、1568年に織田信長が入京を果たした後は、直轄地とした堺を窓口として、これまた直轄地とした国内の銀山から出た銀を使って南蛮貿易を管理し拡大していったのです。 そうやって莫大な利益を上げ、その金で鉄砲などの軍備を整え、また大量の硝石を独占し、その結果として1575年の長篠の戦いの大勝利があるのです。つまり信長は南蛮貿易を富国強兵政策の一環として明確に位置づけていたのです。 ...read more
さて、香辛料を求めて東南アジア海域へ到達したポルトガルとスペインの商人達ですが、既に東シナ海を中心に海洋交易圏が成立しており、香辛料はその中で流通しており、安易に略奪などして入手できるものでもないことに気づきました。また、その交易圏の中ではヨーロッパ産の毛織物は商品価値はほとんど無く、コンスタンチノープルでやっていたように毛織物と香辛料を交換することが出来ないという現実にも直面しました。 ...read more
一方、モンゴル帝国から締め出されたユーラシア大陸のもう片方の端っこであったヨーロッパにおいては、黒死病の猛威により14世紀半ばに人口が大減少し、労働力不足によって封建制が危機に瀕します。そこで封建領主は労働力や土地を巡って激しく争うようになっていき、例えば14世紀半ばから15世紀半ばにかけては英仏百年戦争などが戦われたわけですが、こうした争いが激しくなる中でフランスやイギリスなどでは次第に王権が強化されていき、各国の王権が強化されると王権同士の争いも起きるようになっていきました。こうしてヨーロッパは戦争の時代へと突入していきます。 ...read more
そもそも幕末の、文明先進国である西欧と後進国である日本という構図が刷り込まれているから、鎖国などして西欧と関係を絶っていたのは誤りだったのだというような観念が生まれるのでしょうが、19世紀半ばの幕末と、この17世紀前半の家光の時代とでは西欧諸国そのものの状況が全く違うのですから、そもそも比較の対象にするのがおかしいのです。 ...read more
ここでこの幕藩国家確立期後期の幕府の施策のうち対外政策のトピックとして、いわゆる「鎖国政策」について触れておきます。 そもそも「鎖国」という言葉は1801年に日本のオランダ語通詞がケンペルの「日本誌」を翻訳する時に造った言葉で、それまでは存在しなかったし、そもそも「日本誌」の中にもそのように訳すのに適当な言葉は無く、超意訳によって造られた言葉なのです。 ...read more
この幕藩国家確立期の後期を見てみると、一方では新文明の成果を享受し生き生きと立ち働く庶民や松平信綱に代表されるような新官僚としての武士の姿が見られ、一方では消え行く旧文明の遺風としての旗本奴や町奴、大久保彦左衛門のような古いタイプの武士、幕府による武断統治とあぶれる浪人の群れなどが見られます。 ...read more
1625年から1650年に至る25年間はこの幕藩国家の確立期の後期にあたり、徳川三代将軍家光の時代です。家光は1623年に将軍に就任し、実権を振るうようになったのは1632年の父であり大御所であった秀忠の死後であり、1651年の彼本人の死まで28年間将軍を務めました。実質的に権力を振るった期間は19年間というところでしょうか。 ...read more
こうした兵農分離政策を基本とした領国富強化計画を、おそらく信長は1550年頃、元服した頃から構想していたのだと思われます。そしてそれが全国規模で実現し、その成果の果実が収穫できたのが秀吉政権や家康政権、江戸幕府初期を経て、1650年あたり、確立期の終わりあたりであったのであり、100年経って若き日の信長の構想は現実化したのだといえます。 ...read more
そもそも戦国期に始まった地殻変動とはどういうものだったのかというと、旧来の封建領主の支配地域において自治を求める農民の動きが出てきたことがその根本でした。封建領主からの自立と自治を求める農民の動きに地侍が乗っかって一揆を形成し、それが拡大し、また再編成されて戦国大名の家臣団が形成されたのです。戦国大名と自治農民とは双子の関係にあり、共に新文明の担い手として立ち現れてきたのです。 ...read more
こうして信長と秀吉が作り上げた新しい文明の形というものが、1600年の関が原の戦い以降は徳川家康の手に受け継がれます。ここから、せっかく形成した文明スタイルをしっかり確立し定着させていく地道な作業の時期に入ります。兵農分離という文明スタイルがそもそも安定と平和を志向したものでしたから、その文明スタイルが定着したこの時代から、途端に華々しい戦などは無くなります。 ...read more
さて世間では安倍政権も出来まして、相変わらず歴史認識がどうしたこうしたと煩いことですが、歴史歴史と言っても、どうも聞いていると先の大戦の戦争責任の問題ばかりが話題になっているようです。 歴史というのは連続したものであり、先の大戦の問題だけが独立して存在しているわけではありません。それをまるで新聞の三面記事を批評するように安易に取り扱うというのは、これは歴史を扱っているのではなく政治的案件としてしか扱っていないわけです。 ...read more