KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その14  国内フロンティア出現
さて朝鮮出兵が失敗に終わったことで、外国に軍を派遣して戦争をするということはやりづらくなりました。国内の戦争も秀吉の天下統一以来絶えていました。確立期の50年間においても戦争は関が原と大阪の冬夏の陣と島原の乱の4回だけです。
もともと海外交易の利益は秀吉時代は戦費につぎ込まれていたのですが、もうそういう必要は無くなったわけです。そこで必然的にその利益は国内インフラ整備に向けられることになったのです。

...read more
スポンサーサイト

日本史についての雑文その13  日本国大君
さて、このようにこの幕藩国家形成期後期においてスペイン勢力は秀吉に大変強圧的に圧迫されるわけですが、世界の海を支配しているはずのスペインがこれらに対してほとんど為す術が無いというのもおかしな話です。確かに秀吉や日本の軍事力が強大であったことも事実ですが、それにしても不甲斐なさすぎなのです。
...read more

日本史についての雑文その12  秀吉の野望
こうして16世紀半ば以降、日本とポルトガル商人とシナ商人との間に南蛮貿易が始まったのですが、日本においては最初は九州地方の戦国大名が盛んに貿易を行いましたが、1568年に織田信長が入京を果たした後は、直轄地とした堺を窓口として、これまた直轄地とした国内の銀山から出た銀を使って南蛮貿易を管理し拡大していったのです。
そうやって莫大な利益を上げ、その金で鉄砲などの軍備を整え、また大量の硝石を独占し、その結果として1575年の長篠の戦いの大勝利があるのです。つまり信長は南蛮貿易を富国強兵政策の一環として明確に位置づけていたのです。

...read more

日本史についての雑文その11  南蛮貿易
さて、香辛料を求めて東南アジア海域へ到達したポルトガルとスペインの商人達ですが、既に東シナ海を中心に海洋交易圏が成立しており、香辛料はその中で流通しており、安易に略奪などして入手できるものでもないことに気づきました。また、その交易圏の中ではヨーロッパ産の毛織物は商品価値はほとんど無く、コンスタンチノープルでやっていたように毛織物と香辛料を交換することが出来ないという現実にも直面しました。
...read more

日本史についての雑文その10  大航海時代
一方、モンゴル帝国から締め出されたユーラシア大陸のもう片方の端っこであったヨーロッパにおいては、黒死病の猛威により14世紀半ばに人口が大減少し、労働力不足によって封建制が危機に瀕します。そこで封建領主は労働力や土地を巡って激しく争うようになっていき、例えば14世紀半ばから15世紀半ばにかけては英仏百年戦争などが戦われたわけですが、こうした争いが激しくなる中でフランスやイギリスなどでは次第に王権が強化されていき、各国の王権が強化されると王権同士の争いも起きるようになっていきました。こうしてヨーロッパは戦争の時代へと突入していきます。
...read more

日本史についての雑文その9  黒死病
そもそも幕末の、文明先進国である西欧と後進国である日本という構図が刷り込まれているから、鎖国などして西欧と関係を絶っていたのは誤りだったのだというような観念が生まれるのでしょうが、19世紀半ばの幕末と、この17世紀前半の家光の時代とでは西欧諸国そのものの状況が全く違うのですから、そもそも比較の対象にするのがおかしいのです。
...read more

日本史についての雑文その8  鎖国政策
ここでこの幕藩国家確立期後期の幕府の施策のうち対外政策のトピックとして、いわゆる「鎖国政策」について触れておきます。
そもそも「鎖国」という言葉は1801年に日本のオランダ語通詞がケンペルの「日本誌」を翻訳する時に造った言葉で、それまでは存在しなかったし、そもそも「日本誌」の中にもそのように訳すのに適当な言葉は無く、超意訳によって造られた言葉なのです。

...read more

日本史についての雑文その7  旧文明の解消
この幕藩国家確立期の後期を見てみると、一方では新文明の成果を享受し生き生きと立ち働く庶民や松平信綱に代表されるような新官僚としての武士の姿が見られ、一方では消え行く旧文明の遺風としての旗本奴や町奴、大久保彦左衛門のような古いタイプの武士、幕府による武断統治とあぶれる浪人の群れなどが見られます。
...read more

日本史についての雑文その6  武断統治
1625年から1650年に至る25年間はこの幕藩国家の確立期の後期にあたり、徳川三代将軍家光の時代です。家光は1623年に将軍に就任し、実権を振るうようになったのは1632年の父であり大御所であった秀忠の死後であり、1651年の彼本人の死まで28年間将軍を務めました。実質的に権力を振るった期間は19年間というところでしょうか。
...read more

日本史についての雑文その5  絶対王政
こうした兵農分離政策を基本とした領国富強化計画を、おそらく信長は1550年頃、元服した頃から構想していたのだと思われます。そしてそれが全国規模で実現し、その成果の果実が収穫できたのが秀吉政権や家康政権、江戸幕府初期を経て、1650年あたり、確立期の終わりあたりであったのであり、100年経って若き日の信長の構想は現実化したのだといえます。
...read more

日本史についての雑文その4  兵農分離
そもそも戦国期に始まった地殻変動とはどういうものだったのかというと、旧来の封建領主の支配地域において自治を求める農民の動きが出てきたことがその根本でした。封建領主からの自立と自治を求める農民の動きに地侍が乗っかって一揆を形成し、それが拡大し、また再編成されて戦国大名の家臣団が形成されたのです。戦国大名と自治農民とは双子の関係にあり、共に新文明の担い手として立ち現れてきたのです。
...read more

日本史についての雑文その3  天下統一
こうして信長と秀吉が作り上げた新しい文明の形というものが、1600年の関が原の戦い以降は徳川家康の手に受け継がれます。ここから、せっかく形成した文明スタイルをしっかり確立し定着させていく地道な作業の時期に入ります。兵農分離という文明スタイルがそもそも安定と平和を志向したものでしたから、その文明スタイルが定着したこの時代から、途端に華々しい戦などは無くなります。
...read more

日本史についての雑文その2  安土桃山時代
まぁだいたいこの1550年から1850年の時期は、ほとんど江戸時代といわれる時代なんですが、よく徳川300年などといわれますが、正確には江戸時代は1603年から1868年の間ですから、265年間でして、全然300年には足りないのです。
...read more

日本史についての雑文その1  まえがき
さて世間では安倍政権も出来まして、相変わらず歴史認識がどうしたこうしたと煩いことですが、歴史歴史と言っても、どうも聞いていると先の大戦の戦争責任の問題ばかりが話題になっているようです。
歴史というのは連続したものであり、先の大戦の問題だけが独立して存在しているわけではありません。それをまるで新聞の三面記事を批評するように安易に取り扱うというのは、これは歴史を扱っているのではなく政治的案件としてしか扱っていないわけです。

...read more

お知らせ
最近投稿した3件の記事を削除しました。
TBS署名活動に関連した疑惑の説明の記事だったのですが、どうでも良い疑惑の説明から入っていくというスタイルはやはり順序が逆であろうと思い、もう少し丁寧に核心的な疑問点に関係する説明から始めるほうが真摯であろうという判断です。
最近3件の記事は、このブログ全体のトーンとは少し異質なもので、少し真摯さに欠けていたと思いますので、削除します。
次回分から真面目な説明を心がけていきたいと思います。





上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。