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日本史についての雑文その51 海からの脅威 |
もし、この子平の危惧の通りに全ての海岸線が外国からの侵略ルートになるとすれば、実際にはそれを全て固定砲台で防御することは不可能です。となると、日本側も動く砲台、つまり軍艦で対抗するということにならざるを得ないわけですが、そうなると海軍を創設しなければいけなくなります。 ところが、これが江戸時代の日本においては非常に困難なことなのです。何故なら初代将軍の徳川家康が、外洋を航海できるようなまともな船を建造することを禁止していたからなのです。
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日本史についての雑文その50 林子平 |
こうした、大量生産、大量宣伝、大量消費による大衆社会の初期的形態が出現していたのが田沼時代だったのです。そして同時にこの時代は、庶民も知識人も知的好奇心が爆発していた時代でもありました。 特に知識人が興味を向けたのが蘭学で、1774年の「解体新書」出版以降、知識人たちは海外の知識を得ようと腐心するようになりました。 そうした知識人たちは主に長崎に出かけていってオランダ商人と接触して海外情報を得ようとしたのです。そうした知識人の中に仙台藩士の林子平がいました。
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日本史についての雑文その49 大衆消費文化 |
大量消費という部分では、まず人口が増加傾向になったことと、都市人口が増えたこと、商業の発達によって物流網がいっそう整備されたこと、そして問屋制家内工業の普及によって現金を所有する庶民が急増したことなどが原因に挙げられます。 現金所有者が増えるためには、そもそもの貨幣流通量が多くなければいけませんが、それは田沼意次による南遼二朱銀などの貨幣改鋳政策によって市場の需要を満たすだけの量は確保されていました。 もちろんそれによってインフレ傾向にはなっていましたが、問屋制家内工業による大量生産でコストが引き下げられ、物価高は相殺されて、比較的安価な品物が庶民の手に入るようになっていました。
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日本史についての雑文その48 問屋制家内工業 |
この天明大飢饉は確かに悲惨な事件でしたが、しかし大きな被害は東北地方に集中し、その他の地域では相変わらず安定と成熟が維持されていました。 それどころか、この天明大飢饉の時期を底として、ここから日本列島の人口は再び増加傾向に転じるのです。どうやら天明大飢饉をものともせず、このあたりから新しい文明スタイルは田沼時代を通してその助走期間を終えて表面に現れてくるようになったようなのです。
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日本史についての雑文その47 天明大飢饉 |
日に日に膨れ上がる商業資本を有効活用するために意次は更に殖産興業政策を押し進めました。蝦夷地開拓計画もそうですが、最も代表的な事業が下総印旛沼開墾事業であり、これは新田開発と運河開設による流通路の開発も兼ねた大事業で、1782年に開始されました。
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日本史についての雑文その46 自由貿易構想 |
だいたい1775年から1800年までの18世紀最後の25年間ぐらいが幕藩国家の変質期の後期で、実際歴史上のだいたいの変質期前期との境目は1778年の平賀源内入獄あたりということになります。 この変質期後期において社会の変質が表面化して大きな影響が生じてくるのですが、それはどのような変質なのかというと、先述したように、既存文明システムの限界値を超えた更なる成長を可能にする新たな文明システムを志向したものなのです。
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日本史についての雑文その45 新しい文明システム |
18世紀後半の幕藩国家変質期の日本においては、それに先立つ18世紀前半の改革期で吉宗が敷いた殖産興業路線が押し進められた結果、農村において米以外の多くの商品作物が作られるようになりました。 それによってこの1750年から1775年の変質期前期において農業が商業と直結するようになり、農業が商業化したのです。つまり農村が単に年貢を納めるための生産地ではなくなり、商業において取引される商品の原料供給地となったのです。
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日本史についての雑文その44 人口減少 |
こうして源内のような人物を駆使して田沼意次の殖産興業政策や貿易振興政策はこの時代に着々と進められ、吉宗時代からの宿願であった、各藩の垣根を取り払った日本全域の経済活性化が達成されるようになりました。 しかし、こうして全国的な一つの経済圏が機能するようになってくると困ったことが起きてきました。日本の経済圏は一つにまとまろうとしてきたのに、相変わらず通貨が東日本の金本位制と西日本の銀本位制の2つの通貨制度に分かれたままだったので、取引上の不都合が多く生じるようになってきたのです。また幕府による経済政策にも支障が生じるようになってきました。
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日本史についての雑文その43 田沼時代 |
この幕藩国家の変質期前期、そして新文明の胎動期前期にあたるのが、だいたい1750年から1775年の期間ですが、この時代は政策的には吉宗の享保の改革の延長線上だといえます。 吉宗の目指した財政再建は、そのための改革の手は打たれたものの、その効果はまだ十分には上がっていない状態で吉宗はこの世を去りましたから、吉宗の死後にその後継者たちがその路線を引き継いでいったのです。 その路線とはすなわち殖産興業政策であり、その最も忠実な政策実行者が田沼意次でした。
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日本史についての雑文その42 社会の質的変化 |
幕藩国家改革期が終わった後の1750年から1800年、つまり18世紀後半という時代とはどういう時代であるのかというと、変化が進行していく時代ということになります。 幕藩国家形成期に信長秀吉によって形を作られ、確立期において家康によって建設された幕藩国家のシステムが修正期の終わりには制度疲労を起こして使い物にならなくなったので改革期に大幅にリニューアルしたのです。つまりシステムに大幅な変更を加えたのですから、その後は以前とは違ったものに変化していくはずなのです。
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日本史についての雑文その41 庶民の学問 |
この1725年から1750年ぐらいにかけての幕藩国家改革期後期は、1751年の徳川吉宗の死去によって幕が引かれることとなりますが、この時代は様々な文化や学問が新しく出現した新文明の黎明期後期の時代でもありました。 その下地としては改革期前期、すなわち黎明期前期においての荻生徂徠の徂徠学の出現によって江戸儒学の発達が頂点に達し、自由な発想で学問に取り組める環境が整ったことがあります。また徂徠学の精密な訓古学的アプローチの手法は他の学問にも応用されていきました。
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日本史についての雑文その40 産業構造の変革 |
もちろん、これを実現することは容易なことではありませんし、実現までには多大な時間が必要ですから、方法論をこれだけに絞るというのは現実的政策ではありません。 ですから吉宗はこの後も基本的には緊縮財政と米価調節を改革政策のメインに据えつつ、機会を捉えては年貢率アップ、新田開墾、貨幣改鋳、貿易制限など、財政再建のために有効と考えられる手も全て適切なタイミングで打っています。非常に現実的な感覚をもった優れた政治家であったと思います。
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日本史についての雑文その39 米将軍 |
さて、こうして百姓一揆が頻発するようになり、吉宗の当初の計画であった五公五民の税率はとても達成出来ない状況になっていき、年貢率は三割二分ぐらいまで回復するのが精一杯という状況となりました。 吉宗の当初の財政再建計画は、緊縮財政によって幕府の支出を減らしつつ、天領の年貢率を上げて幕府に入ってくる年貢米を増やし、それを換金して幕府の収入を増やすというものだったのですが、肝心の年貢米の量がどうも思ったように伸びないわけで、その達成がどうやら怪しくなってきたのです。
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日本史についての雑文その38 百姓一揆 |
もともと農民の抵抗運動というものは中世では当たり前のことであり、それはむしろ過剰に危険な存在ですらありました。抵抗運動などという生易しいものではなく、室町時代のそれは暴動というのが適当であったと思われます。 それが戦国時代には更に過激化し、村々はそれぞれが武装し、互いに戦争をして殺し合い、土地や資源を奪い合っていました。戦国大名とやってることは大差なかったわけです。むしろそういった武装闘争の中から戦国大名が生まれてきたのだと言っていいでしょう。
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日本史についての雑文その37 法治主義 |
そういったことを踏まえて、だいたい1725年から1750年の期間にあたる幕藩国家改革期後期における吉宗の政策を見ていきたいと思います。 結局、吉宗の改革は、いやこの後の全ての幕政改革もそうなのですが、目的とするところは幕府財政の再建なのです。ただ吉宗の改革の優れていた点は、財政再建のためには小手先の経済政策だけではなく、国家全体の構造改革まで必要であると認識していた点なのです。
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日本史についての雑文その36 武士生活の矛盾 |
それはさておき、ここで触れておきたいのは徂徠学の政治学としての内容についてです。何故なら徂徠学こそが吉宗の享保の改革期における時代精神そのものであり、1722年以降は徂徠は吉宗の政治的助言者の立場にもあったからです。
徂徠が特に問題点としたのが武士生活の矛盾についてでした。 幕藩国家修正期の後期から常に幕府にとって政策課題となってきたのが経済政策でした。
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日本史についての雑文その35 荻生徂徠 |
そういう幕藩国家の矛盾や限界に対して吉宗がどのように立ち向かっていったのかについて触れる前に、そうした矛盾や限界について見通していた人物として荻生徂徠に触れていきたいと思います。徂徠もまた、この改革期を象徴し、また幕藩国家の限界を象徴する人物でもあると思われるからです。
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日本史についての雑文その34 享保の改革 |
直球ど真ん中的な政策という意味では、この初期の頃にも吉宗は地道ながら効果的な政策を打ち出しています。それは倹約令であり、これは吉宗自身が木綿の衣服を着用したりして率先垂範して行われました。 これは主に服装の華美を禁じたもので、実際、最高権力者である将軍が木綿を着ているわけですから、その配下たる他の武士が木綿以上のグレードの衣服を着るわけにはいきませんから、これは非常に巧妙な吉宗の作戦だといえます。
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日本史についての雑文その33 徳川吉宗 |
ここまで、だいたい1700年から1725年にかけての幕藩国家改革期前期のうち、15年ほどの試行錯誤を見渡してみました。この改革期前期はだいたい試行錯誤の時期ですから、まぁこんなものでしょう。ここから残り10年ぐらいでやっと方向性が定まって改革が軌道に乗ってくるわけです。それを担うのが八代将軍吉宗であり、その改革政治を享保の改革といいます。
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日本史についての雑文その32 新井白石 |
荻原重秀の経済改革はこのように大変に斬新なものであったのですが、特にこの貨幣改鋳というのは実際にやるとなると経験則が必要で、一歩間違うとインフレを引き起こす危険なものでした。 案の定インフレが起きて、インフレである程度物価が上がると経済は勢いがつきますが、物価が上がりすぎると庶民の生活を圧迫します。そうなると怨嗟の声は勘定奉行の重秀に向きました。
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日本史についての雑文その31 荻原重秀 |
この幕藩国家改革期前期においてまず急務であったのは元禄バブル崩壊の収拾と失速した経済の再浮揚、そして幕府財政の再建でした。1696年に勘定奉行に抜擢された荻原重秀はそれらに取り組みました。 荻原重秀は大名の家格などではなく一介の御家人身分から現代の財務大臣ともいえる勘定奉行にまで抜擢された人物で、大変に有能な人でした。それゆえ非常に敵が多かったようですが、後ろ盾であった綱吉が1709年に死去した後も罷免されることなく、結局は1712年に罷免されるまで16年間も勘定奉行を続けることとなったのも、彼に替わるほどの人物が無かったからだと言われています。
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日本史についての雑文その30 文明の再生 |
ここまで、信長の出現から約150年が経過したことになります。そしてここから黒船来航まで約150年です。つまり激動期と激動期の間、一つの文明サイクル300年のちょうど中間点、折り返し点まで来たことになります。そしてここにきて、信長秀吉から受け継いで文明を創建した家康の国家百年の計の賞味期限が切れて、新しい方法論が求められる時代になってきたのです。
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日本史についての雑文その29 公共のための忠 |
そうした天下への生命を賭けた忠義を貫く武士道の実践者としてこそ、江戸の庶民達は赤穂浪士たちを「武士の鑑」と喝采をもって誉めそやしたのです。 庶民たちは馬鹿ではありません。綱吉の政治が理想主義的かつ形式主義に走り、実効性を伴っていないことを分かっており、不満を持っていたのです。また経済政策にも不満が溜まっていました。そういう中で幕府に対して生命を賭けて諫言した赤穂浪士に庶民は共感したのです。
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日本史についての雑文その28 元禄赤穂事件 |
その「ある事件」とは、こうした元禄バブル崩壊の混乱とその収拾の最中、1701年に浅野内匠守が江戸城にて吉良上野介に刃傷に及び、激怒した綱吉の命により切腹、赤穂浅野家は取り潰しとなり、そして翌1702年に浅野遺臣の大石内蔵助ら47名の赤穂浪士が江戸の吉良邸に討ち入り上野介を討ち果たしたという一連の事件のことです。世に言う元禄赤穂事件です。
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日本史についての雑文その27 元禄バブル崩壊 |
こういった治世のイデオロギーの面での行き詰まりのみならず、この幕藩国家修正期の安定成長は結果的に経済財政面での行き詰まりも生むこととなりました。 どうしてそういうことになったのかというと、商業流通が発達し経済成長が続いた結果、とうとう貨幣供給量が追いつかなくなり、通貨不足により経済が失速したのです。
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日本史についての雑文その26 徳川綱吉 |
1675年から1700年ぐらいにかけての幕藩国家修正期後期の時代は、これもまた修正期前期の流れを受け継いで文治政治を更に徹底化していった時代であり、それを強力に推し進めたのが1680年から1709年の29年間の長きに渉り将軍職についた五代将軍の徳川綱吉でした。
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日本史についての雑文その25 経済成長 |
さて、このように1650年から1675年の幕藩国家修正期の前期において全国的に儒学による文治政治が定着していく過程で面白いことが起きてきます。 この時代の儒学は先述したように個人の道徳の完成を目指すもので、その結果、君主の徳によって善政が行われるということを目標としていました。つまり逆を言えば、善政が行われていれば、その藩の藩主は儒学をよく収めて徳があるのだと見なされるということでした。そういうわけで全国的に善政競争が行われるようになったのです。
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日本史についての雑文その24 勤皇思想 |
この幕藩国家修正期前期の江戸儒学においてもう一つ特筆すべきことは勤皇思想の定着です。江戸幕府成立当初の文明確立期においては、幕府は皇室に対して優位に立とうと腐心し、時には紫衣事件のような皇室圧迫政策さえとることもありました。
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日本史についての雑文その23 武士道 |
こうして見てみると、幕藩国家修正期の時期というのは、同時にまた、確立期において新しい文明を推進していた指導原理である外来思想に旧文明の残滓が取り込まれて消化されて、その新文明の指導原理を日本化していく過程なのだとも言えると思います。
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日本史についての雑文その22 江戸儒学 |
この密教的部分の自由な発想で道徳律を考えるという手法に陽明学が入り込んできます。陽明学というのは、明の時代に体制護持の学問に成り下がった朱子学に対するアンチテーゼとして起こった学派で、これはもともとの朱子学の持っていた自由な経典解釈から更に発展して、人間の心にある本来的な善の心である「良知」というものに忠実に行動することを提唱したもので、こうなるともう四書五経なども関係なく、自らの良心に従って行動することがすなわち善であるということになります。
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日本史についての雑文その21 文治政治 |
この文治政治への切り替えを主導したのが、徳川家康の孫であった保科正之であり、彼は三代将軍家光の異母弟であり、庶子であったため保科家に養子に出されて将軍継承資格は有していなかったが、家光の信頼が厚く、1639年に29歳にして会津藩主となって以降は幕政において家光の補佐役としてよく働き、家光の死後は四代将軍家綱を補佐して大老として幕政の実権を振るった人物です。
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日本史についての雑文その20 朱子学 |
朱子学とは、儒学の一派です。儒学というのは孔子がシナで紀元前5世紀に創始したもので非常に古い歴史を持っています。あんまりにも古すぎて、しかもシナの場合、結構言語も変わってますのでその原典の意味するところもよく分からなくなってきたので、その経典の語句の探求なんかがメインになってしまい、本来の目的である道徳の追求などが忘れられたりしがちになりました。そういうわけでシナでも3世紀に後漢が滅びて以降は、仏教や道教などに押されてしまうような時代が続きました。 そこで12世紀の宋の時代において他の宗教のエッセンスなども少々取り入れて儒学をリニューアルしたものが朱子学なのです。
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日本史についての雑文その19 由比正雪の乱 |
さて、長らく鎖国政策について述べている間に空間的時間的にも大きく脱線してしまいましたが、このあたりで江戸時代前期の日本、すなわち幕藩国家確立期の終わりであり修正期の最初にあたる1650年付近に話を戻したいと思います。ここで由比正雪の乱というものが起きて幕府の統治方針が修正されることになったというところまで話をしていたと思います。
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日本史についての雑文その18 日本の出遅れ |
このように見てみると、列強のアジア進出といっても、その状況は1815年のナポレオン戦争後に新たに生じた事態であり、それ以前の日本側は、ロシアとの一時的トラブルはあったものの、基本的には管理貿易体制を着実に守っていれば良いという状況であったことが分かります。あくまでも対外的には。
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日本史についての雑文その17 近代西洋の勃興 |
さて17世紀末以来の新大陸における英仏植民地抗争はイギリスの勝利に終わり、1763年のパリ条約でフランスは新大陸の植民地のほとんどをイギリスに奪われました。 その広大な植民地維持のための財源をイギリス政府は新大陸植民地住民への課税によって賄おうとしたのですが、これが植民地住人の反発を買い、1773年にボストン茶会事件を引き起こし、これがアメリカ独立戦争に発展し、1776年にアメリカ合衆国が独立することとなりました。
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日本史についての雑文その16 鎖国による得失 |
こうして、いわゆる「鎖国体制」というものが完成していったわけですが、実態は単なる幕府による管理貿易体制の完成に過ぎず、これが日本にとって多大な損失であったなどというのは間違いです。幕末になって結果的に損失と感じられた部分もあったかもしれないが、当時の判断としては決して間違った判断ではないのです。
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日本史についての雑文その15 管理貿易体制 |
この潮目が変わるのが、だいたい1625年以降の幕藩国家確立期後期の時代、新文明の建設ラッシュが一段落ついて新文明が国内でじっくり定着していく時代です。この時代になると、確かに海外交易自体は利益も大きく必要ではあるが、国内の経済効率の良さを考えれば、わざわざリスクの大きな貿易形態を選択してまで貿易額を膨れ上がらせる必要性も無いのです。
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