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日本史についての雑文その83  フランス革命
アメリカ合衆国が建国された1ヵ月後の1789年5月、フランスでは三部会が召集されました。これは財政難に苦しむフランスのルイ16世が貴族や僧侶などの特権階級の特権を制限して課税を増やそうとしたもので、その反発を抑えるために第三身分である平民の特権階級への反感を利用するために普段は開催されない三部会を開催したのです。
しかしこの三部会の議決方法を巡って平民と特権階級が対立したため、平民側代表が国民議会を独自に発足させ、国王がこれを承認して、この国民議会で憲法を制定することになったのです。

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日本史についての雑文その82  合衆国の建国
1775年に始まったアメリカ独立革命戦争のほうは、当初は独立軍が苦戦しましたが、フランスをはじめとしたヨーロッパ諸国がイギリスの足を引っ張るために独立軍に加勢したため、イギリスは孤立して次第に劣勢に立つようになり、1783年にパリ条約を結んでアメリカ13州の独立を承認したうえに、先だってフランスから獲得したルイジアナ植民地も手放すこととなりました。
ルイジアナ植民地のミシシッピ河より東半分は独立した13州の領土となり、西半分はスペイン領になりました。そして、この時点で13州とフランスとはイギリスを仮想敵国とした米仏軍事同盟を組むこととなったのです。

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日本史についての雑文その81  13州の独立
さて、アメリカ大陸がコロンブスによって発見されたのは1492年のことですが、16世紀後半になるとヨーロッパ各国からの様々な移民が北米大陸の東部を探検し開拓し、各地に植民地を築いていくようになりました。
これら移民の方達がどういう人達であったかというと、この頃のヨーロッパは宗教戦争の嵐が吹き荒れていまして、多くの新教徒がカトリック教会や旧教徒勢力に迫害されていましたので、そうした宗教迫害から逃れるために新大陸に移住する新教徒がたくさんいたのです。

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日本史についての雑文その80  民主主義思想
そこで理性万能主義を守りつつホッブズ理論を発展的に批判して1689年に「市民政府二論」で主権の分析を行ったのがイギリスのジョン・ロックでした。ここでロックが主張したのは、要するに「主権に対する抵抗権が国民にはある」ということでした。
ホッブズ理論においては主権というものは自然状態から契約によって国家を作った時に生じるものとされたのですが、ロック理論においては主権は国民の参加する立法機関で多数決で制定されるものとして、つまり国民の自然権の一つである立法権の下に主権を置いたのです。これは典型的な制定法絶対主義、つまり人定法主義だといえます。

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日本史についての雑文その79  主権絶対論
まず啓蒙主義的な社会哲学の嚆矢は1651年にイギリスで「リヴァイアサン」を著したトマス・ホッブズであり、彼は性悪説に基づいて混沌の支配する原始的な自然状態というものを想定し、そこにおける各自の持つ自然権の暴走による社会の混乱を抑止するために、社会構成員が契約によって国家を作り、国家は主権を有しており、この主権が国民の自然権の暴走を抑止して社会の平穏をもたらすとしたのです。
こうして一種の思考実験上で国家の成り立ちというものを理論的に説明しようとしたのがホッブズの考え方であり、これはデカルト的な理性的方法論であったといえるでしょう。

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日本史についての雑文その78  啓蒙主義
1837年に浦賀へやって来たモリソン号はアメリカ合衆国の船でした。このとき、はじめて日本の歴史にアメリカ合衆国という国家が関与してきます。
ヨーロッパとロシアは既に日本史との関わりの中で出てきたのでその歴史の中で日本に関係してくる部分については説明しましたが、アメリカは今まで出てきていなかったので説明していませんでした。日本人は何故かこのアメリカという太平洋を挟んだ最大の隣国の歴史をあまり知らないのです。

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日本史についての雑文その77  内憂外患
1837年に大坂で兵乱を起こした大塩平八郎は大坂町奉行所与力を務めたれっきとした元幕臣で、高名な陽明学者でありました。
天保大飢饉の被害は大坂にまで及び、大坂でも餓死者が出る有様でした。大塩は既に町奉行所与力を退役して私塾で門人に陽明学を講義する毎日を送っていたのですが、こうした現状に心を痛めて奉行所に数々の提言を行いました。
最初は江戸への廻米の中止と、奉行所で保管する蔵米を窮民救済のために放出することと、豪商による米買占めを止めさせることを提言したのですが、聞き入れられませんでした。

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日本史についての雑文その76  天保大飢饉
1832年から1838年にかけて起こった天保大飢饉は、18世紀半ばから続いていた世界的な小氷期末期の気候不順をきっかけにして引き起こされたものですが、それはあくまできっかけであり、本質的な原因はもっと構造的なものです。
まず農村の疲弊があります。貨幣改鋳政策がもたらしたインフレによる物価高が貧困層の農民の生活を圧迫し、農地を手放して都市へ流入してくる者が増加したのです。市場経済と大衆社会の発達によって都市は栄えており、都市へ出てくれば華美な生活が出来ると思う者も多くいましたし、実際都市に出てくればその日暮らしであればなんとか生活できてしまうようにはなっていましたので、都市には長屋に住んで日銭を稼ぐような階層が増えていました。

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日本史についての雑文その75  幕藩体制の行き詰まり
幕藩国家爛熟期後期に入ってから年貢増徴をせずに幕府財政の収入を増やすために貨幣改鋳政策がとられ、それによって貨幣流通量が増えてインフレが進行したことによって物価が上昇しました。
物価が上昇すると物を買う時は損した気分になりますが、物を売る時は得した気分になります。大抵の人間は消費者であると同時に生産者でもありますので、インフレになっても、それが余程極端なものでなければそんなに致命的な打撃は受けないのです。
ところが江戸時代の日本においては特殊な階級の人間が多数存在したのです。それがつまり、生産を一切せずにひたすら消費だけする武士階級というものなのです。これについては荻生徂徠が指摘してきた通りです。この武士階級はインフレによる物価高の影響をモロに受けるのです。

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日本史についての雑文その74  大御所時代
さて、1823年に家斉の実父の一橋治斉が死去すると、もうこれで家斉を制止出来る人間は存在しなくなり、家斉の贅沢や無駄遣いは歯止めが効かなくなりました。とにかく家斉本人だけでなく側室も40人以上おり、子供も55人と膨大な数となり、それらも皆、贅沢をするわけですから、その養育費や生活費も膨大なものになりました。
そうやって支出が増えれば収入も増やさねばならないわけで、この爛熟期後期に入ってからも貨幣改鋳は何度も繰り返されることになり、その度に貨幣流通量は増えてインフレが進行していきました。

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日本史についての雑文その73  化政文化
では、幕藩国家爛熟期の後期、すなわち1825年から1850年の時代、正確に言えば1853年のペリーの黒船来航までの時代ということになりますが、この時代について見ていきます。
この時代は十一代将軍の徳川家斉の時代の途中から始まります。家斉は1786年に14歳で将軍に就任しました。家斉時代の初期は松平定信の寛政の改革の時代で、1793年の定信罷免時は家斉は21歳でした。定信罷免の理由は先述のように家斉との不仲でしたが、家斉が成人して親政可能になったので定信は身を引いたという考え方も出来るでしょう。

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日本史についての雑文その72  異国船無二念打払令
こうして1825年に会沢の「新論」刊行によって水戸藩において後期水戸学が成立し、幕末維新の原動力となる尊皇攘夷思想が誕生したのです。
そしてこの「新論」はその内容があまりに過激であるということで幕府当局によって発禁処分となったのですが、これは外国情報をあまり一般に知らせたくないという目的と、親藩とはいえ幕臣ではない水戸藩士が幕府の政策に口出しするような内容になっていたからでした。
発禁になったからといって水戸学自体を弾圧したわけではありませんから、この「新論」に述べられているような尊皇攘夷思想は武士社会では広まっていくことになります。

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日本史についての雑文その71  後期水戸学
1801年以降に成立した平田篤胤の復古神道は国学の「漢心」への批判精神を更に先鋭化した形で引継ぎ、純日本産以外の外国由来のものは何でも悪いというような排外主義の色彩を強め、仏教や儒学への攻撃を繰り返しつつ布教活動を繰り広げました。ただこういう他者への攻撃的傾向は新興宗教にはよく見られることで、特に珍しいことではありません。
このままの状態でいけば、単に19世紀前半に復古神道という新興宗教が流行し、排他的な宗教だったので各地で騒動をよく起こしたというだけのことで終わったはずです。復古神道が後に幕末や明治以降の政治に大きな影響力を及ぼすようになったのは、それが政治学と結びついたからです。その政治学とは、つまり水戸学のことであり、この問題の責任の所在はほぼ全部、水戸学の側にあるのです。

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日本史についての雑文その70  復古神道
その橋渡しのような役割をしたのが宣長の没後の門人であった平田篤胤で、彼は1801年の宣長の没後に宣長の研究を受け継ぎ、国学を一般大衆向けに広く普及させました。一種の芸術論であった国学が広く一般庶民に受け入れられたのは、古来から日本人に馴染みのある神道的要素を採り入れたからだと思われます。国学が神道化したのだともいえます。
どうしても儒学というと武士階級の学問というイメージがあり、それに対抗して国学は庶民の学問という位置づけがもともとありました。そして国学には宣長が打ち立てた儒学批判の理論がありました。つまり「もののあはれ」の心である「やまとごころ」の「漢心」に対する優越の思想です。

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日本史についての雑文その69  神仏習合信仰
この朱子学の尊王思想はシナにおいては単に王への忠義を尊ぶという思想だったのですが、日本においては中華思想が日本的に解釈されて「天皇を戴く皇室という王朝が変わることなく続いている日本こそが真の中華である」ということになり、そういう文脈で天皇や皇室を尊ぶという思想になったのです。つまり日本版中華思想と尊王思想は不可分の関係となっていたのです。
会沢の「新論」以前の前期水戸学においてはそのように、尊王思想は「日本こそが中華である」という朱子学の正当性を補完する概念であったのですが、「新論」以降の後期水戸学においては、この中華思想の部分が後退して、代わりに神国思想がその位置に据えられることになるのです。

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日本史についての雑文その68  尊皇攘夷思想
1820年代に相次いだイギリス捕鯨船の日本近海への出没事件を受けて、特に1824年に水戸藩領の大津浜にイギリス捕鯨船員が薪水を求めて大挙上陸した事件を受け、その際にイギリス船員との交渉係を担当した水戸藩士の会沢正志斎は1825年に「新論」を著述刊行し、これが後に幕末尊王攘夷論のバイブルとなるのです。
そして同じ1825年に幕府は異国船無二念打払令を出し、これによって幕府による攘夷政策が事実上発令されることになったのです。「新論」はこういった幕府による攘夷政策を理論的に補強する役割を担うことになりました。

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日本史についての雑文その67  フェートン号事件
ヨーロッパでは1799年からナポレオン戦争が始まり、1806年にはオランダはナポレオン軍に屈して、ナポレオンの弟を国王としてフランスの属領のようにされてしまい、ヨーロッパで唯一ナポレオンに対抗していたイギリスと戦うことになっていました。
こうしたナポレオン戦争におけるオランダとイギリスの対立の構図が長崎に持ち込まれたのが1808年のフェートン号事件で、イギリスの大型軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎港に侵入し、出島のオランダ商館を襲撃しようとした事件です。

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日本史についての雑文その66  フヴォストフ事件
そういった状況をふまえて、この爛熟期前期の対外問題への対処を見てみます。
1799年にロシアの露米会社の最高責任者に就任したニコライ・レザノフには課題があり、それは北太平洋やアラスカのロシア植民地へ食料や資材を供給することだったのですが、レザノフはそれを日本からの輸入で調達しようとしたのです。
そういうわけでレザノフは1804年に長崎に来航して通商を要求したのです。その際、1793年にラクスマンが松平定信から貰った長崎通行許可証を持参してきたのです。レザノフとしては通商要求は叶うだろうと思っていたのでしょうけど、当時の幕臣保守派からなる幕閣は「鎖国は祖法」という理由でレザノフの要求を拒否したのです。

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日本史についての雑文その65  成熟の進展
このように工場制手工業の発生によって、農村内に雇用者や被雇用者の関係が生まれるようになり、労使間トラブルのようなものが生じるようになったり、また藩の専売制などとの価格トラブルも激化するようになり、それらが訴訟や百姓一揆を激化させていき、そうした様々な問題を調整していくために農村内の自治組織が高度に政治化されていったのです。それが後に明治期の自由民権運動に繋がっていくのです。よく言われるように、地方政治は民主主義の学校だということです。
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日本史についての雑文その64  国内市場の成熟
このように全国的に綿作をする農家が増え、特に畿内や瀬戸内の農家では米よりも綿を作る量が多くなるようになりました。しかし年貢は米で納めないといけないわけで、そういう農家では綿を売ったお金で米を買って、育てた米ではなく買った米で年貢を納めるようになっていきました。
そういう米を何処から買うのかというと、それは主に東北の農家から買ったのです。綿は南方の植物なので東北では作れませんでした。稲ももともとはそうなのですが、稲は品種改良されて東北でも作れるようになっていましたから、東北農業は稲作中心だったのです。

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日本史についての雑文その63  工場制手工業
1792年にロシアの使節ラクスマンの根室来航を受けて、幕府も改めて蝦夷地の重要性に気づき、松平定信罷免後は再び蝦夷地の調査に乗り出しました。1798年には近藤重蔵らの調査隊を蝦夷地に派遣し択捉島まで調査しました。
その結果、ロシアが既に択捉島の北のウルップ島まで進出してきていることと、蝦夷地の北側の日本海とオホーツク海の天然資源、特にニシンの経済的価値が高いということが判明し、1799年に東蝦夷地を幕府直轄領として開発することとしたのです。

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日本史についての雑文その62  鎖国か開国か
さて、1550年から開始した幕藩国家文明という1つの文明サイクルの検証もとうとう1800年までやってきました。1552年の信長登場に対応する歴史的事件を1853年の黒船来航として、1つの文明サイクルを300年間とした前提でやってきましたから、これで残りは50年ということになります。
今までこの300年の文明サイクルを、形成期、確立期、修正期、改革期、変質期という50年ずつの時代に分けて合計250年分を解説してきました。これで残りは1800年から1850年までの50年で、つまり1つの時代ということになり、この時代が終われば、1853年の黒船来航をスタート地点として次の新文明の形成期の50年がまた始まるわけです。

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日本史についての雑文その61  天上無窮の神勅
このような「もののあはれ」という価値観の基本認識を獲得した宣長は、幕藩国家変質期(新文明の胎動期)後期において、古事記の研究をライフワークとしていくことになります。
1778年に古事記伝の上巻を刊行し、1792年には中巻、1798年には下巻を刊行し古事記解読を完了させていきつつ、その傍らで自身の国学論を完成させ、儒学に対する徹底的な批判を行っていったのです。

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日本史についての雑文その60  国学の大成
結局、この尊号事件の時の幕府と天皇の間の葛藤とは、朱子学のフィルターを通した「あるべき天皇像」と、日本古来の歴史に基づいた「ありのままの天皇像」との葛藤であったといえるでしょう。
そして、この時代、この後者の「ありのままの天皇像」に関する理論的根拠を提供したのが国学であり、本居宣長だったのです。

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日本史についての雑文その59  尊号事件
1788年に光格天皇が実父の閑院宮典仁親王へ上皇の尊号を贈りたいという意思を表明されたのが尊号事件の始まりでした。
典仁親王は天皇の実父でありながら公家諸法度の規定によれば摂政や関白や太政大臣、左大臣、右大臣よりも地位が低く、孝心篤い天皇はそのことを悩み、幕府に公家諸法度の改正を要請していたのですが、家康を神格化していた定信が家康の定めた公家諸法度を改正出来るはずもなく、それは拒否されていました。

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日本史についての雑文その58  大政委任論
しかし、このように幕府に政治向きのことで朝廷が意見してくることは前代未聞のことですから、幕府側としては衝撃を受けました。もちろん幕藩国家修正期から生じた水戸学による勤皇思想は幕府全体、いや武家社会全体に浸透していましたから、皇室を軽んずる気持ちなどは毛頭無かったのですが、政治に口出しをしてくるとなれば話は別です。
朝廷が政治に口出ししてくるようになり朝廷と幕府の間で意見の相違が常態化するようになれば、朝廷が反幕府勢力の拠り所になってしまう危険があります。

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日本史についての雑文その57  光格天皇
ところで、この定信の時代に京都の朝廷で皇位にあったのは第119代の光格天皇であり、この帝は直系皇族の出自ではありませんでした。日本の皇室の歴史を紐解いてみれば、決して直系の血筋だけで繋がってきたわけではないことが分かります。
初代の神武天皇以降の初期王朝に関しては実在が疑問視されたり何系統かに分かれているという説もあったりしますが、まぁここは記紀の記述に従えば、初代の神武天皇から25代の武烈天皇までが直系男子の血統で繋がった初期王朝ということになるでしょう。

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日本史についての雑文その56  定信罷免
このように定信の改革はあまり果果しい成果が上がらず、老中就任6年目の1793年にあっさり罷免されることになりますが、改革失敗が原因で失脚したというわけではありません。定信失脚の原因は将軍家斉との不仲でした。
十一代将軍の徳川家斉は、十代将軍家治の世嗣が急死したために一橋家から将軍家に養子に入り、更に1786年に家治が急死した後、14歳で将軍となりました。将軍になると即刻、田沼意次を罷免し、翌年に27歳の白河藩主の松平定信を老中筆頭に登用して政治改革にあたらせることになったのです。

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日本史についての雑文その55  大衆文化の弾圧
さて、子平の著作は幕府の政治を批判したからという理由で処罰されたのですが、他にも定信は、風紀を粛清するとして出版統制令を出して、好色本や風刺本を取り締まりました。
1791年には山東京伝などが処罰され著作は発禁になり、版元の蔦谷重三郎も財産を没収されたりして、江戸大衆文化は弾圧されました。
これもやはり、新興勢力への抑圧政策の一環であったのだと思われます。浮世絵なども弾圧されましたが、まぁこれは、浮世絵の多くは春画、すなわちポルノだったわけですから、いささか仕方ないような気もしますが、ただ江戸時代の庶民の開放的性感覚から言えば、ちょっと厳しすぎる処分のような気もします。他にも銭湯の男女混浴禁止措置など、朱子学にかぶれた硬直化した禁制も多かったようです。

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日本史についての雑文その54  寛政の改革
まず寛政の改革期における緊縮財政としては、たびたび倹約令が出されています。これは吉宗時代と同じです。
また定信の緊縮政策としては田沼政治の否定という側面が強かったため、商業資本に対して圧迫的な政策がとられました。これは新勢力に対する抑圧という狙いも含まれていたのでしょう。株仲間や専売制を廃止して特権商人への優遇措置をやめました。
そして田沼時代のインフレ傾向にストップをかけて物価を抑制するために、南遼二朱銀を廃止して貨幣流通量を減らしたのですが、これによってデフレを招き景気は冷え込み、かえって幕府財政は悪化しました。

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