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日本史についての雑文その143 文明の誕生
このヴュルム氷期終了後の1万4千年前から始まる時代を日本では縄文時代というわけですが、この時代は日本列島が急速に湿潤な気候になり森林が広がり狩猟採集資源が豊富になりました。同時に気候と海流の変化で漁労資源も豊富になり、従来から居住していた新モンゴロイドの草原狩猟民族は森林での狩猟や採集を行うようになり、新来の旧モンゴロイド海洋民族は沿岸地域で漁労を行うようになりました。
ところが日本列島は海岸線と山岳部が非常に近く、この狩猟採集民と漁労民は非常に頻繁に接触するようになり、次第に混血して同一化して、狩猟も採集も漁労も行う新しい民族集団を形成していくようになったのです。

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日本史についての雑文その142 日本人の起源
人類の発祥は約600万年前のアフリカといわれており、180万年前にはユーラシア大陸にやってきて、その後、40万年?50万年前には北京原人だとかジャワ原人なども存在していたといわれます。日本列島においてもあるいはこうした時代に人類が生息していたのかもしれません。
しかしこれらの原人や旧人といわれる種族は7万年前から始まったヴュルム氷期に際して寒冷適応が出来ずに絶滅したようですので、現在の日本人とは無関係の存在ということになります。そうなると日本の歴史に繋がってくるものとしては、10万年前にアフリカで出現した現生人類の歴史のみを対象に考察していけばいいでしょう。

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日本史についての雑文その141 外来文化の受容
このように600年間の文明サイクルの連鎖を見渡してみると、常に定期的に繰り返されるパターンとして、とりあえず外来文化を入れておいて、その後で日本の実情に合わせて改良していくというパターンです。一言で言えば、外来価値観と伝統的価値観の相克相生の歴史ということになるでしょう。
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日本史についての雑文その140 起承転結
さて、この600年間の文明サイクル内の24の時代区分についてここまで説明してきましたが、この600年間は25年ずつの24の最小単位の時代区分が前期後期の2つずつ合わさった、50年ずつの12期に分類されます。それがつまり黎明期、胎動期、草創期、形成期、確立期、修正期、改革期、変質期、爛熟期、衰退期、解消期、残滓期の12期です。
そして、上記に説明した各期の特性を見ると、この12期はその特性の傾向別に、大略して3期ずつを1グループにした4部に分かれるように思えます。つまり、600年の文明サイクルは、150年間ずつの4部構成によって成り立つということです。

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日本史についての雑文その139 閑話休題
ここでようやく文明サイクルの細かな内容を説明することが出来ました。この後、古代からの歴史を追いかけていくことになり、この雑文も新たな展開となっていきますが、その前にここで少し一息入れて、閑話休題とします。
先日、非常に良い文章を見つけましたので引用させていただきます。衆議院議員の西村眞悟氏のホームページにある「眞悟の時事通信」というページに西村氏が寄稿された文章です。

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日本史についての雑文その138 文明の残滓期
23、550年?575年 C文明の残滓期前期(?)/D文明の修正期前期(+)

前の時代の最後においてC文明はその影響力を完全に失いましたが、社会に影響力を及ぼさなくなったとしても、その文明の残滓というものは残るものであり、それが濃縮されてエッセンスとなっていくのがこの時代です。
この時代に社会の中核を担うようになる世代は、この前の時代の人格形成期においてもう既にC文明的価値観の影響をほとんど受けていないのですが、C文明的価値観の影響を残していた両親や祖父母に思いを馳せるように、客観的にC文明的価値観について向き合う人が少数ながら出てくることになります。そういう人によってエッセンスが抽出されていくのです。

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日本史についての雑文その137 文明の解消期
21、500年?525年 C文明の解消期前期(?)/D文明の確立期前期(+)

この時代の初期においては、C文明は社会を動かす直接的な力というものは既に失っていますが、その社会の動向への間接的影響力はまだかなり残っており、理念としてのC文明はまだまだ侮れないものがあります。
しかし過去の弊風を排除して新規D文明を不可逆的に磐石なものに整備していこうとする新文明勢力の人達はこうしたC文明の影響力を嫌うようになります。

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日本史についての雑文その136 文明の衰退期
19、450年?475年 C文明の衰退期前期(?)/D文明の形成期前期(+)

この時代は前の時代からの混乱が更に増幅して社会危機が生じ、それを解決するために新興勢力から更に先進的な考え方を持った急進的な先駆者集団が現れて体制の変革に乗り出します。
C文明の支配体制は前の時代の終盤において実質的には終焉し形骸化していたのですが、それでもC文明の原理に基づく勢力はまだこの時代には数多く残っていますから、これらC文明集団は先駆者たちの急進的な体制変革運動に抵抗します。

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日本史についての雑文その135 文明の爛熟期
17、400年?425年 C文明の爛熟期前期(?)/D文明の草創期前期(+)

この時代においてはC文明は時代を動かす主導権をD文明に譲り渡していきます。そういう事態の進行に対してC文明側の反応は大きく2種類に分裂していきます。
まず前の時代の終盤の反動政策を引きずって、あくまでD文明に主導権を渡さないように抵抗していく方向性があります。この場合、D文明側からの反発を招き、C文明とD文明との乖離はますます大きくなっていき、C文明はますます時代への対応力を失って取り残されていきます。それでもC文明側によるD文明側への抑圧が続く場合は、D文明からC文明への抵抗運動も起きてきて、ちょっとした抗争状態も生じます。

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日本史についての雑文その134 文明の変質期
15、350年?375年 C文明の変質期前期(+)/D文明の胎動期前期(+)

この時代においては前の時代の文明再生計画をそのまま文明成長計画に移し変えて実行していき、修正期のように量的な急成長は遂げられませんが、前の時代からの努力が実を結び、安定と質的な成長、つまり成熟は達成されてC文明はこの時代の終わり頃には完成することになると言えます。

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日本史についての雑文その133 文明の改革期
13、300年?325年 C文明の改革期前期(?)/D文明の黎明期前期(+)

この時代は、前の時代の終わりに、成長の頂点で矛盾が表面化して行き詰ったC文明を再生させるための試行錯誤が繰り返される時代です。
そもそもC文明が行き詰ったのは外来の価値観を主導原理として急成長を遂げたために文明システムそのものに大きな矛盾が生じてしまったからであり、これを根本的に解決して再び社会を成長路線に戻すためにはC文明に替わる新しい文明システムを構築しなければいけないのでした。

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日本史についての雑文その132 文明の修正期
11、250年?275年 C文明の修正期前期(+)/B文明の残滓期前期(?)

この時代は前の時代における新文明の完全定着と抵抗勢力の完全排除を受けて、抵抗勢力への抑圧方針自体が不要のものとなったので、前時代末期における圧迫の行き過ぎによる形成期前期への揺り戻しへの反省もふまえて、新文明の支配原理となった外来の価値観の浸透による穏健な方法での新文明の普及と安定が図られ、そしてその上での安定成長が達成される時代です。

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日本史についての雑文その131 文明の確立期
9、200年?225年 C文明の確立期前期(+)/B文明の解消期前期(?)

この時代は新しくスタートしたC文明の体制を磐石なものに整備するために、強力な推進力で次々に施策を打ち出して創業が行われる時代です。
この時代の創業の担い手達は、前の時代の先駆者や新興勢力ではなく、新興勢力から生まれてくる新しい勢力であり、旧文明であるB文明体制を出自とする新興勢力とは違い、この新しい勢力はB文明体制をほとんど知らない世代であり、新興のC文明体制を出自とする、まさに「新文明の申し子」といえる勢力であり、新文明勢力と呼ぶことにします。

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日本史についての雑文その130 文明の形成期
7、150年?175年 C文明の形成期前期(+)/B文明の衰退期前期(?)

この時代の初期において対外的危機と社会危機のレベルが更に一段上がり、国家体制そのものの危機が生じ、それに対応して社会体制の根本的変革を求めるラディカルな革新思想が生まれます。ただ、この革新思想は求心力を高めるために伝統回帰色もいっそう強いものとなっています。

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日本史についての雑文その129 文明の草創期
5、100年?125年 C文明の草創期前期(+)/B文明の爛熟期前期(?)

この時代においてはC文明が社会への影響力を増しつつ成長していくことになります。ただ、まだこれが一気に大きな流れになって新文明の時代を築き上げるまでにはC文明の力が蓄積されていないので、この時代においてはC文明自体の成長が前の時代よりも更に外来の刺激を強める作用を及ぼし、その強まった外来の刺激を受けつつ様々な形に変化していき、社会の各方面にバラバラに働きかけるようになり、社会に複雑な作用を及ぼすようになります。

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日本史についての雑文その128 文明の胎動期
3、050年?075年 C文明の胎動期前期(+)/B文明の変質期前期(+)

この時代においてはC文明の時代精神は社会の水面下で広がっていきます。C文明にとっては前の時代の先覚者の時代から組織者の時代への代替わりの時代であり、閉じられた個人サークルを超えて社会に裾野を広げていく時代になります。
ただそれは単に自らの新たな時代精神を世に知らしめたいというだけの欲求であり、まだ社会に積極的に働きかけようというほどのものではありません。よって、まだ新しいC文明は社会に大きな影響は及ぼしておらず、ただ水面下で密かに広がっていっているという時代であったのです。よって、C文明に影響を与える外来の刺激も、この時代はそれほど劇的展開は見せず、前の時代と似たような感じです。

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日本史についての雑文その127 文明の黎明期
では先ほどの例にあった「・・・A衰退期/B形成期→A解消期/B確立期→A残滓期/B修正期→B改革期/C黎明期→B変質期/C胎動期→B爛熟期/C草創期→B衰退期/C形成期→B解消期/C確立期→B残滓期/C修正期→C改革期/D黎明期→C変質期/D胎動期→C爛熟期/D草創期→C衰退期/D形成期→C解消期/D確立期→C残滓期/D修正期→D改革期/E黎明期→D変質期/E胎動期→D爛熟期/E草創期・・・」というA→B→C→D→Eという5つの文明の連続モデルの場合のC文明の黎明期から残滓期までの時期を例にとって、それらの時代区分を更に前期後期に分けて、C文明を中心とした視点で各時代区分の特性について、下記の順番で改めて説明していきます。
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日本史についての雑文その126 時代区分
過去の歴史から現在に活かせる教訓や道徳を見出そうとする場合、現在に生きる我々のような生身の人間が歴史を参考にするためには、それを神やロボットの歴史ではなく、生身の人間の織り成す歴史として観察しなければいけません。
神やロボットの行動を我々人間が参考にすることは困難だからです。やはり人間は人間の行動を参考にするのが最も適しているのであって、過去の歴史も、我々と同じように感情も欲望もあり、我々と同じような寿命を持ち成長し死んでいく、生命ある人間が代々受け継いできた歴史物語として理解したほうが、我々生身の人間が応用しやすいものとして把握できるのです。

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日本史についての雑文その125 文明サイクル
過去の歴史から教訓や道徳を見出して現在や未来へ活かしていくためには、歴史の変化の傾向や趨勢、人間の行動パターンを読み取り、未来の展開をより良きものに改善していく智恵や叡智を伝統的価値観から発見していくことが大事です。
それが伝統的価値観を継承していくということであり、常に変化変転している現在の局面の中でいかにして伝統的価値観を継承していくのか、そのヒントとして、過去において伝統的価値観がどのように受け継がれてきたのか、つまり文明の連綿と受け継がれてきた一定のサイクルを観察するのが有効ということになります。

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日本史についての雑文その124 健全な歴史感覚
このように、1842年のアヘン戦争後の対外的危機の深まりの中で、皇国意識を高めて西洋文明の研究を行う、新たな「国民」という存在が立ち現れてきたところで幕藩国家の爛熟期は終了し、1853年のペリー来航事件から、国民国家の形成期が始まり、幕藩国家の成果でもある伝統的価値観と西洋社会システムを習合させて、それらを「国民」が駆使して新たな国造りに取り組んでいくことになります。
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日本史についての雑文その123 皇国意識
幕藩国家の生み出した成果は大衆社会や商業資本、国内市場など、そして、武士道や勤勉哲学などのような伝統的価値観です。それらが爛熟期の後期にはだいたい出揃い、そして、それらの幕藩国家の成果を駆使して新しい国民国家を建設していく新興勢力である「国民」という存在が、幕藩国家爛熟期の最後の10年ぐらいから少数派ながらもその先駆者たち、例えば佐久間象山や島津斉彬などが明らかな姿を現して活動し始めるのです。
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日本史についての雑文その122 国民の登場
1840年代のナショナリズムの勃興の要因としては、内的要因と外的要因があり、それらの要素が相互に作用し合ってナショナリズムを刺激していきました。
内的要因としては、1843年に天保の改革が失敗に終わった後、再び大衆社会が活気を取り戻し、それにつれて工場制手工業は更に発展し普及が進み、その原料供給源も労働者市場も商品市場も、各藩の垣根の中には収まりきれなくなってきて、ボーダーレス化を求める社会的欲求が高まり、それは日本全国を完全に単一の市場とするように求めるようになってきました。それは各藩の為政者の意識において「藩」より「日本」というものを強く意識させる作用を生じたのです。

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日本史についての雑文その121 雄藩の改革
さて、天保の改革が失敗に終わり、幕府が武士階級を救済できないということが確定したことによって、これで武士階級は自力救済していくしかなくなったのであり、つまり「武士が土着し生産活動に従事すべき」という傾向に更に拍車がかかっていくことになったのです。
武士が土着化して生産活動に従事するという方向性を藩政レベルで実践してきたのが国産品の専売制であり、それをベースにして1830年代から各藩において始まった藩政改革の流れは、こうした新文明の時代の流れに沿った改革でした。

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日本史についての雑文その120 幕藩国家の成果
そして、丁度このあたり、天保の改革が失敗に終わってから、爛熟期末期の10年ぐらい、言い換えれば新文明の草創期末期の10年間ぐらいから、新文明の形成期の初期に活躍する人物や勢力などが姿を現して活発に活動を始めます。あるいは、新文明の形成期の準備的な動きが起きてくるのです。
それはどのような勢力なのか、そもそも新文明とはどのような性格のものなのかについて考えるためには、その新旧両文明のせめぎ合いのそもそもの原点、スタート地点に戻って考えてみるのがいいでしょう。

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日本史についての雑文その119 幕藩体制の終焉
以上のような天保の改革の挫折の経緯から読み取れることは、まずこの改革が結局は保守派の主導で終息させられたことによって、この後の幕府内では保守派が主流派となり、思い切った改革が困難になったということです。
幕末においてもそれなりに幕政の改革を図る動きもあるのですが、大勢を占める保守派の抵抗によって根本的な改革の実をあげることが出来ず、西南雄藩にどうしても一歩遅れをとり、結局ズルズルと幕府の終焉を迎えることになってしまうのですが、それはこの天保の改革の失敗に遠因があるのではないかと思います。

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日本史についての雑文その118 改革の挫折
こうして天保の改革が行き詰っていく中、1841年も1842年も、隣の清国からはアヘン戦争の憂慮すべき情報が続々と幕府にもたらされ、老中の水野忠邦はそれへの対応にも追われ、江川英龍や高島秋帆に命じて洋式軍備を導入させ、また薪水給与令を出して海防政策を改めたりしました。
しかしアヘン戦争情報において最も忠邦を戦慄させたのは、イギリス東洋艦隊による清国の西南沿岸の諸都市への砲撃の被害の甚大さでした。

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日本史についての雑文その117 天保の改革
1841年に大御所の徳川家斉が死去した後、老中首座の水野忠邦が天保の改革において、まず着手したことは、幕閣の人事刷新でした。要するに、家斉時代の側近勢力を一掃して、自分の息のかかった者達で固めたのです。こうしてまずは忠邦が自由に改革の腕を振るえる環境を作ったのです。
そして、弛緩しきって信頼が地に堕ちていた幕政への信頼感を取り戻すために、家斉側近勢力やそれにへつらっていた者達を追放する際に、単に追放するだけではなく、多くの者の処分を与え、風紀の引き締めに厳しい姿勢を示しました。

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日本史についての雑文その116 水野忠邦
こうしたアヘン戦争の緒戦の情報に幕府が揺れている最中、1841年1月に大御所の徳川家斉が死去いたしました。家斉は1817年から寛政の遺老を排除して側近政治を始め、その後、1837年に将軍職を退いてからも大御所として実権を握り続け、その死までの延べ24年間、家斉とその側近たちによってインフレ政策が継続されたのでした。
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