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日本史についての雑文その204 鉄器と青銅器
ところでヤマタノオロチ神話において、オロチの腹が血で真っ赤に滲んでいたとか、スサノヲがオロチをバラバラに斬り裂いたために斐伊川が血で真っ赤になったとか、「血」や「赤」に関連した描写が多いのは、オロチは水神で河川の象徴でもありますから、斐伊川など出雲地方の河川の中国山地の上流域で砂鉄が多く採集できたということを暗示しています。「出雲国」の語源も、「出鉄(いづもの)国」からきたという説もあるくらいです。
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日本史についての雑文その203 古代出雲
東南アジア系海洋民が対馬海流に乗ってきた場合、対馬海峡の次に海上から目印になる突き出した部分は島根半島です。この島根半島に多くの東南アジア系海洋民が漂着してきたと思われます。
島根半島は東南アジア系海洋民が断続的にやって来ていた縄文時代においては現在の宍道湖は島根半島の西岸にまで広がっており、島根半島の西で日本海に開いた大きな湾、古宍道湾でした。そのかわり、現在において東にある中海との間を結ぶ大橋川は存在しませんでした。この島根半島の西岸を大きくえぐる古宍道湾の西部には南から斐伊川と神戸川が注いでおり、次第にこの2本の川の運んでくる土砂で干潟が形成されていきました。

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日本史についての雑文その202 吉備国
吉備国というのは古代の山陽道に存在した文化先進地帯で、後に古墳時代には北九州や出雲、大和などと並んだ勢力を形成する地域で、その強大さを大和朝廷に警戒され、律令制施行後は備後、備中、備前、美作の諸国に分割されてしまいましたが、それ以前はそれらの地域を合わせた広大なエリアを占める大国でした。
ここは吉備氏という氏族が開拓した土地なのですが、吉備国を開拓したから吉備氏といわれたのであって、この地はもともと吉備といわれていました。それは単に黍がよく収穫できたから「黍の国」と呼んでいたということのようです。

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日本史についての雑文その201 鞆の浦
そこで日本書紀のイワレヒコの東征伝承の記述に戻りますと、イワレヒコは安芸の「埃の宮」で1ヶ月ほど滞留した後、吉備の国に移り行って「高島の宮」という仮の宮を作って1年半の間留まって船を整備したり兵員や兵糧を揃えたりしてから出発して、その後は一気に大阪湾に進攻していったということになっています。まぁ実際には滞留は3年というふうに日本書紀には記述されているのですが、ここは二倍暦を前提に修正して1年半とします。
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日本史についての雑文その200 安芸灘
防府を出発して更に瀬戸内海を東へ向かうと、周防灘を過ぎて、防予諸島の間をくぐり抜けると、次は安芸灘に入ります。安芸灘、そしてその更に北にある広島湾を含んだこの海域は、防府を上回る水軍の根拠地としての瀬戸内海エリアでは最高の条件を備えた海域でした。実際、この海域、特に広島湾は旧帝国海軍の一大根拠地でありましたし、現在でも横須賀、佐世保、舞鶴と並んで海上自衛隊の主要根拠地の1つとなっています。
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日本史についての雑文その199 関門海峡
地球上の海水は月の重力の影響を受けて毎日2回、干満を繰り返しますが、太平洋と瀬戸内海とではその海水の量が桁外れに太平洋のほうが多く、太平洋のほうが月の潮汐作用の影響を大きく受けますから、瀬戸内海の潮の干満は太平洋の潮の干満の支配下にあります。
瀬戸内海に太平洋の海水が出入りする場所は西の豊後水道と東の紀伊水道の2箇所ですから、満潮時には豊後水道と紀伊水道から太平洋の海水が瀬戸内海に流れ込み、逆に干潮時には豊後水道と紀伊水道から瀬戸内海の海水が太平洋に戻っていきます。

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日本史についての雑文その198 国東半島
紀元前250年の時点で海人氏が本拠地を宇佐へと北上させてきていたというのは十分あり得る話で、そもそも漁労民でもある南洋系海洋民の海人氏にとっては好漁場である瀬戸内海への進出は当然のことでもあったでしょう。
海人氏が日向灘を延岡まで北上してきていたことについては先ほども触れましたが、日向灘は黒潮の影響が強くて航海に危険も伴いますし、海水も貧栄養で漁獲量もそれほど多くはありません。やはり穏やかで富栄養な瀬戸内海を目指して北上し、出来ればその瀬戸内海に面した海岸に根拠地を構えたいと思うのが当然というものです。

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日本史についての雑文その197 宇佐八幡宮
さて、博多湾に注ぐ河川のうち、御笠川と宇美川の上流は大宰府市の大宰府天満宮の北で宝満川の上流に乗り換えて南下していき、久留米で筑後川下流の作る低湿地帯、そして有明海に至ることが出来ます。宝満川こそは玄界灘エリアと有明海エリアを結ぶ大動脈であり、大宰府はその基点であったのです。
大宰府天満宮そのものは平安時代初期に非業の死を遂げた菅原道真の怨霊を慰めるために建てられたもので、大宰府という地名も律令官制に由来するものなので弥生時代には存在しなかったわけですが、これほどの水上交通の要衝ですから古代から重要拠点であったはずであり、実際、太宰府天満宮のごく近くの宝満川と御笠川の水源のある連結地点には竈門神社があり、古来から航海の神として崇拝されてきました。

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日本史についての雑文その196 宗像三女神
さて東南アジア系海洋民の活動領域である有明海に注ぐ河川としては、南から緑川、白川と続き、更に北にいくと菊池川の河口が玉名市において開いています。この菊池川の上流域の「山都」に相当するのは菊池温泉のあたりで、ここも古くから名族である菊池氏によって栄えた場所です。
この菊池川の最上流は熊本と大分の県境の兵戸峠の徒歩行程を挟んで川原川に乗り換えて、北向きに下っていくうちに大山川に名を変えて、日田市から筑後川となって西へ向かい、久留米市などを通過して有明海の最北部に注ぐことになります。

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日本史についての雑文その195 やまと
そうした日向神話関連のエリアは更に西に拡大します。都城から大淀川の支流の庄内川を遡っていくルートは真っ直ぐ高千穂峰に向かう水路です。この高千穂峰の山中にはもともと霧島神宮があり高千穂峰そのものへの山岳信仰が行われていましたが、噴火によって消失して霧島連峰の南麓に遷され、今ではニニギ以下日向神話に登場する神々が祭祀されています。
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日本史についての雑文その194 高千穂峰
では古代の日本列島のイメージをより明確なものにしていくためにこうした海と川の物流路、重要拠点、そして古代に起源を持つと思われる神社などをなぞりながら古代の日本列島を南から北へ眺めていきたいと思います。
まず九州南端ですが、黒潮に乗ってきた南洋系の海洋民は屋久島や種子島を経由して大隅半島の南端の佐多岬、薩摩半島の南端の開聞岳に辿り着きます。開聞岳の北側のふもとには薩摩国一宮の枚聞神社があり、もともとは開聞岳に対する山岳信仰で開聞岳そのものがご神体で、開聞岳の頂上に祭祀場があったのでしょう。開聞岳の頂上に立つと南に太平洋が広がっているのであり、太平洋の航海安全を祈願する神社でもあったのでしょう。

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日本史についての雑文その193 干潟
そのようにして長い年月、河川と海の交易ルートを使っていくうちに、河口の様子が変化してくるようになりました。もともとは河口は岸壁を削って出来た谷合いの地形から海に注ぐものだったのですが、そこに土砂が溜まる場所が出てくるようになったのです。
日本列島は険しい山岳地帯で形成されていましたから、そこに大量の雨や雪が降るようになれば膨大な量の水が急流になって海へと流れていきます。その水の力は凄まじく、水の流れる谷間の土砂をどんどん削り取って谷間をどんどん深いものにしていったのですが、その削り取った土砂は川の流れに乗って河口へ運ばれていきました。

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日本史についての雑文その192 水路交通
日本列島は当初から険しい山岳地帯を有した列島であったのですが、それがヴュルム氷期の後の海水面の上昇によって平野部分が水没して山岳地帯の切り立った斜面がそのまま海水面に接するようになり、つまり海岸線は全部が断崖絶壁という状態になりました。そうなると波の浸食を受けて断崖に入り江が作られてくるようになり、それはそれぞれの海岸ごとの波の強弱や地質構造の差などによって千差万別ということになり、大小さまざまな形の入り江が作られていくことになりました。
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日本史についての雑文その191 対馬海流
では日本海側はどうであったのかというと、これは少し違った状況で、黒潮に乗って太平洋岸にやってきた太平洋の島々起源の海洋民とはまた別ルートの海洋民がやって来ていたのです。つまり、東シナ海方面から対馬海流に乗って日本海側に辿り着いた海洋民がいるのです。
対馬海流は黒潮の支流である暖流で、台湾と先島諸島の間を抜けて北上してきた黒潮が九州の南西沖海上で東へ急旋回していった時に曲がりきれなかった黒潮起源の暖かい水塊が南シナ海から東シナ海のユーラシア大陸沿岸沿いをゆっくり北上してきた水塊と合体して九州西岸を北上し、対馬海峡を通過して日本海側の日本列島沿岸近くを北東方向に進み、最後は津軽海峡から太平洋側へ抜ける流れと、宗谷海峡からオホーツク海へ抜ける流れに分かれます。

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日本史についての雑文その190 黒潮
北赤道海流は赤道のすぐ北側、つまりポリネシアやミクロネシアの島嶼群のある海域を西へ進み、フィリピン諸島の東側海域で大きく北へ進路を変えて黒潮となり、そのまま台湾と先島諸島の間を抜けて北上し東シナ海に入りますが、九州西南方の海上でまた大きく右旋回して今度は針路を東へとり、奄美大島と屋久島の間のトカラ海峡を通って日本列島の南岸を東進していきます。
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日本史についての雑文その189 ダブル・カヌー
日本列島は今から約2万年前のヴュルム氷期の最盛期には間宮海峡と宗谷海峡、津軽海峡、そして対馬海峡はユーラシア大陸と陸続きになり、氷期最盛期においても植物が繁茂していた日本列島には北方の氷結地帯から歩いて多くの動物が南下してきました。そしてそれを追ってシベリア方面から新モンゴロイドの狩猟民が歩いて日本列島に移動してきました。
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日本史についての雑文その188 記紀編纂史
日本書紀を作ろうという計画が持ち上がったのは、おそらく663年の白村江の敗戦後にシナ大陸から軍事的に完全に撤退して、シナの律令制度を本格的に導入して新たな統一国家を作る事業が始まり、大津京への遷都準備と並行して近江律令の制定作業が進められ、その中で国号を「日本」とすること、君主号を「天皇」とすることが決められ、667年に大津京への遷都の後、668年に天智天皇が実質的な「初代天皇」として即位して日本が建国された時点なのだろうと推測されます。それは新しく作られた「日本」という国がシナ帝国の華夷秩序からは独立した独自の華夷秩序を持った「もう1つの中華」であり、その「天子」である「天皇」が「日本」を天命を受けて統治する正統性を有していることを唐をはじめとした近隣諸外国にアピールするためでした。
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日本史についての雑文その187 記紀の史料的価値
例えば、初期の天皇の異様な長寿に関する問題についても、継体天皇以前の天皇の部分の年代計算が1年を2年にカウントする農耕暦を使用した結果のことで、寿命や統治期間の異様な長さについては日本書紀に掲載してある数値を半分に換算すれば、だいたい考古学的な知見や外国史料から窺える日本列島の状況などとの整合性もとれるのであり、この「二倍暦説」をとれば天皇の実在を否定したり系図を否定したりするような根拠にはならないはずなのです。
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日本史についての雑文その186 皇国思想の変遷
「万世一系」の事実というハンデをカバーするために日本書紀において創作された「日本神話」では2つの大きな虚構が提示されました。1つは「天神による易姓革命」、もう1つは「天孫思想」です。このうち前者の「天神による易姓革命」は全く空想上で完結している話であるし、そもそもシナ人向けの虚構ですので、その後の日本人にはあまり影響は与えませんでした。
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日本史についての雑文その185 創生神話
そして更に日本書紀作者は、この時点での日本神話ストーリーの冒頭に来ていた「天岩戸神話」の更に前に、天神や悪神などもひっくるめた日本全体の創生神話を挿入することにしたのです。
これは当時の唐代のシナの歴史観を意識した構成で、司馬遷の「史記」においては黄帝から始まる「五帝」という5人の聖人の列伝である「五帝本紀」が全体の冒頭に掲げられていましたが、3世紀ぐらいからこの「五帝」に先行する存在として「三皇」と呼ばれる3人の神が存在したと考えられるようになっており、唐代に入って司馬貞が「史記」の注釈書を著した際には「五帝本紀」の前に「三皇本紀」を付け加えるようになっていました。

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日本史についての雑文その184 出雲神話
そして、その「天孫思想」という嘘と連動して機能させるために作られた嘘話が、「天神による易姓革命」という神話なのです。それが「天孫降臨神話」の直前に挿入された「国譲り神話」なのです。「天孫降臨神話」においては、天照大神(天神)からニニギに向けて「有徳性」と「天命」が継承されたのですが、その天神自身が「有徳性」や「天命」を得るためには、「天孫降臨神話」に先立って、天神が易姓革命によって悪神による日本の統治を打ち倒し、それによって「有徳性」を示して、日本を統治する「天命」を受けなければならないのです。
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日本史についての雑文その183 天孫思想
その「天孫降臨神話」で主人公のニニギは「天神」たる天照大神の「天命」を受け、首長霊を受け継ぐ儀式を行う必要があるのであり、「天孫降臨神話」に描かれた儀式は日本書紀編纂時に実際に天皇家で行われていた首長霊継承儀式、つまり現代で言う「大嘗祭」の原型となったような儀式をモチーフにしたものだったのでしょう。そしてそれは実際に、現代の「大嘗祭」もそうであるように、農耕儀礼と祖霊信仰の要素が強いものであったのでしょう。
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日本史についての雑文その182 王権の正統性
さて、このように「天岩戸神話」で「天」を象徴する存在として認知された天照大神が次は天皇家に対して「日本を統治するように」という「天命」を降せば、それで日本書紀の当初の編纂目的は達成されます。ならばさっさと初代天皇の神武天皇に天照大神が天命を降せばいいのですが、天命というものは理由もなくいきなり降すようなものではないのです。
ここでシナの史書ならば易姓革命が起こって、悪逆非道の行いをして徳を失った前王朝を倒した者に「天命」が降って目出度し目出度しとなるのですが、日本の場合は天皇家の王朝が最初の王朝ですので、なかなかそういうわけにもいきません。

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日本史についての雑文その181 天岩戸神話
とにかくこのように、シナ人の考える「天から天命を受けて地上世界の統治を委任された君主」と、日本人の考える「主要な祖霊・農耕霊・自然霊である首長霊の体現者である君主」というそれぞれ異質な君主像の間の相違は、これはもう文化の優劣の問題ではなく、基本的に拠って立つ文明の種類が違うことに起因する決定的な差異なのであって、この溝は埋まることは無いのだといえるでしょう。
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日本史についての雑文その180 アマテラス
さて、これで初期の皇統に関する記述部分の嘘つき疑惑は晴れたわけですが、だからといって日本書紀にかけられた嘘つき疑惑が全部晴れたわけではありません。司馬遷型の歴史記述というものは体制正当化のために絶対に嘘をつくのが宿命なのであって、嘘が無いなどということはあり得ないのです。
日本書紀の使命は、天皇家の日本統治の正統性をシナ人に納得させることだったのですが、「万世一系思想」はこの時代には存在せず、「易姓革命」は王朝交替の実体さえ無かったのででっち上げ不可能でした。「易姓革命」が使えれば一番手っ取り早く天皇家の有徳性をアピール出来たのですが、それが使えなかった場合は、まずはもっと地道に少しずつ有徳性をアピールしていくしかないでしょう。

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日本史についての雑文その179 万世一系
このあたり、戦後の歴史学者は勘違いしているのです。江戸時代に発生した「万世一系」の思想は幕末を経て「皇国史観」となって明治維新の原動力となり、そして近代日本の国家理念となったのですが、それは明治時代においては「皇室は神武天皇以来ずっと変わることなく日本を統治している尊いものである」という考え方でした。これはあくまで皇室の統治の一貫性を強調する考え方で、神がかったものはありません。もちろん日本書紀において神武天皇の先祖が天照大神などの神様であると記述されていることは認識されていましたが、明治期はそれを特に強調するような風潮はありませんでした。
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日本史についての雑文その178 記紀編纂の目的
記紀の作者が嘘をついてまで強調したかったであろう部分を知るためには、記紀が編纂された目的を考えてみればいいのです。いや、この場合、記紀のうち古事記は日本書紀の編纂作業の途中で生れ落ちた副産物のようなものなので、日本書紀の編纂の目的が何であったのかについてだけ考えればいいと思います。
手っ取り早く結論を申し上げると、日本書紀の編纂の目的は、7世紀後半に新たに建国した日本という国家がシナ帝国を中心とした華夷秩序から独立した「シナとは別の中華」であり、天皇家もまたシナ皇帝と同様に天命を受けて日本を統治しているという正統性についてシナをはじめとした東アジアの諸外国に知らしめることでした。

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日本史についての雑文その177 歴史偽造の手法
記紀以降の日本の史書は、「続日本紀」、「日本後紀」、「続日本後紀」、「日本文徳天皇実録」、「日本三代実録」まで、「日本書紀」の系統を引く官製の国史が編纂されましたが、これ以降は官製の史書は作られませんでした。最後の「日本三代実録」は901年の完成で、887年までの歴史を記述してあります。
この時代はまさに律令国家が再編成されて中央集権体制が崩壊していく時代であり、つまり、この「日本三代実録」以降は、中央集権体制と一体化した司馬遷型の歴史記述は不要のものとなっていったのです。

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日本史についての雑文その176 歴史記述
まず、現在の日本の歴史学界では、日本書紀や古事記に記述してあることは事実ではないという考え方が一般的ですが、これは非常に偏った考え方であろうと思います。記紀が書かれたのが7世紀末から8世紀初めにかけての時期で、その内容はその当時において宮中や豪族、民間において伝えられていた伝承や、当時はまだ当事者や当事者の子孫が多く生き残っていた出来事の記録などだったのであり、しかも編纂者は正体不明の民間学者というわけでなく天皇を責任者としたれっきとした貴族や官僚たちのグループであり、彼らは決してペテン師の類ではありません。
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日本史についての雑文その175 神武東征
以上、ここまで多分に想像を交えて書きましたが、要するにこれは神武東征のイントロ部分ということになります。細部については相当部分は妄想というか、史料の空白を想像で補っています。
ただ、もともとシナ大陸の戦乱や圧制を嫌った難民が日本列島へも渡来してきていたのはおそらく間違いないことで、彼らが紀元前100年ぐらいまでは主に北九州に集中していたのも、その時代の出土品や社会の発展段階の地域差を見る限り、ほぼ間違いないでしょう。そして彼らが難民になった原因を作ったのはシナ大陸における皇帝専制体制であったことを考えると、彼らが皇帝専制体制を嫌っていた可能性も高いといえるでしょう。

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