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日本史についての雑文その235 蝦夷
さて、ここまで、九州から畿内の古代における状況について考察して、「○○の地域が××系海洋民の氏族の支配下にあった」などという表現をやたらと使ってきましたが、これは多分に文脈を分かり易くするための便宜的表現であり、全くの異民族国家や海洋民国家が日本列島のあちこちに存在したという意味ではありません。
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日本史についての雑文その234 越の国
いわゆる越前、加賀、能登、越中、越後の諸国というのは古代においては一括して「越の国」という大和王権から独立した地方勢力として扱われていました。それが大和王権の支配下に入ってから7世紀末以降に上記諸国に分割されたというわけです。
ただ、これは律令時代の令制国から逆算した考え方であり、実際は3世紀以前の畿内人の感覚としては、琵琶湖北岸に注ぐ何本かの河川を遡っていった先にある国境の峠を越した先にある未知の領域を一括して「越の国」と呼称していたのだと思います。

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日本史についての雑文その233 日本海航路
こうして見てみると、太平洋側の海洋民が濃尾平野の干潟地帯から内陸水路を通って東へ進出していこうとした場合、木曽川の支流の飛騨川流域より東は、東へ進もうとする進路を飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈、富士山、箱根山系、関東山地というそれぞれ南北に連なる巨大な山塊が順々に塞ぎ、これらの山塊が非常に東西に密集して順々に屹立しているために、それらの間を流れる河川がそれらの山塊間の狭い急峻な谷間を流れる一本の河川に集約され大河となりがちであり、その下流では暴れ川となり東西間の渡河が困難となり、上流へ遡ろうにもあまりに急流なので溯上そのものが困難であり、遡ったとしても延々と両側を二千?三千メートル級の山塊が塞ぎ、他の河川に乗り換えることは相当上流まで遡らなければ困難です。
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日本史についての雑文その232 フォッサマグナ
さて、ここから先は中部地方、つまり鈴鹿関、不破関、愛発関という古代三関よりも東という意味での「関東」、古代における東国に入っていきます。
この古代における西国と東国とでは天然自然の条件が大きく異なっています。それは日本列島の成り立ちの経緯に大いに関係のあることなのですが、まず山地山脈の向きが違うということです。

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日本史についての雑文その231 ヤマトタケル伝承
そしてその出雲系氏族の進出ルートというのは、そのまま大和王権時代には奈良盆地や吉野方面から津や松坂を経て伊勢湾海上へ出て東へ進み二見浦の海の上から夫婦岩の彼方に見える富士山を目標にして伊勢湾を出て遠州灘へ漕ぎ出していく海路に繋がる道でもあったのです。そしてそれはオオタラシヒコ大王の時代にヤマトタケルが東国へ向かう際に通ったであろう道でもあるのです。
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日本史についての雑文その230 豊受大神宮
このように、3世紀に伊勢神宮は大和王権の公認の太陽神信仰であるアマテラス信仰の場として、そして大和王権の東方進出の根拠地として立ち現れてくることになるのですが、元来は南洋系海洋民による猿田彦という海洋的な太陽神祭祀の中心地であったのです。
ただアマテラス信仰というのは伊勢神宮の内宮、つまり現在の正式名称を皇大神宮という神社における祭祀のことを言うのであって、伊勢神宮の外宮、すなわち豊受大神宮における祭祀となると全く別の祭祀となります。

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日本史についての雑文その229 丹生津比売
そもそも日本列島というものは内帯と外帯に分けられ、中央構造線というのはその内帯と外帯の境界線なのです。中央構造線の北側が内帯、南側が外帯です。ごく簡単に言えば、内帯はもともとはユーラシア大陸の東端にくっついていた陸塊で、外帯は南洋で生まれた陸塊なのであり、約7000万年前の白亜紀後半に外帯が南洋から北上してきてユーラシア大陸東端にあった内帯に激突して合体したことによって日本列島の原型が出来たといわれます。この時に形成された内帯と外帯のつなぎ目が中央構造線だといわれます。
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日本史についての雑文その228 神秘の大鏡
鏡を作ったのは石凝姥であったのですが、その出来上がった鏡を使って神事を行ったのは別の者でした。古事記や日本書紀の本文、上記のアマノヌカトのでてくる一書などでは鏡は常緑樹の枝に架けられるという描写が展開されます。
ただ伊勢神宮の伝承と思しき一書においては枝に架けられる描写は無く、太陽神を岩戸の外に出した後に入れ替わりに鏡を岩戸の中に入れる描写が出てきます。ある種の「身代わり」のようなものであり、鏡を太陽そっくりに作るというのもこのように最終的には身代わりとして使うためであったのかもしれませんし、実際にそういう用途に供される場合もあったのではないかと思われます。ただそれはあくまで最終的な用途としてであり、太陽神復活神事における鏡の本質的な用途はやはり「太陽神をお招きするための依り代」であろうと思います。

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日本史についての雑文その227 太陽神復活神事
そして鏡に関しては、おそらくイクメイリヒコの時代に太陽神信仰と鏡信仰が習合して、大和王権勢力下の代表的な太陽神(猿田彦)信仰の聖地であった伊勢神宮や日前宮に新たに鏡信仰の要素が加わり、それによってアマテラス信仰としてのリニューアルが施され、神社の場所自体がやや内陸部に移されて大規模化され、この時点でご神体が鏡になったのだと思われます。
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日本史についての雑文その226 首長霊祭祀
このアマテラスの原型である猿田彦が阿波国の大麻比古神社でも祀られており、この南洋系海洋民による同一の太陽神の信仰が四国にも及んでいたことを示しています。阿波は大王家が開拓に熱心であった土地ですが、その開拓の中心となっていたのは忌部氏であり、そのため大麻比古神社の主祭神は阿波忌部氏の祖霊であり、猿田彦は後に合祀されたもので、もともとは鳴門海峡を見下ろす大麻山で祀られていたものでした。
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日本史についての雑文その225 伊勢神宮
熊野川流域の鴨県主一族や紀ノ川河口部の玉津島の雑賀衆は「八咫烏」を太陽神のシンボルとして崇めていたのでしたが、これが1世紀半ば以降に鏡が太陽神のシンボルとされるようになると、その鏡は伊勢神宮では「八咫鏡」と呼ばれるようになります。
「咫」というのは古代における長さの単位で、一咫が約18cm.なので八咫は約150cm.ということになりますが、実際に鏡や烏が150cm.あったというわけではなく、これは意味としては単に「大きい」という程度のものです。

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日本史についての雑文その224 皇紀元年
これらの大阪から名古屋に至る海岸線の南洋系海洋民たちが同一の太陽神を信仰していたわけで、そこに瀬戸内海西部を根拠地とした海洋民であった海人氏のイワレヒコが紀元前75年に船団を率いてやって来たのです。その目的は、シナ帝国と北九州「火の国」勢力の連合による西日本侵略という最悪の事態に備えるために瀬戸内海における海上防衛網を構築することで、その防衛網維持のための瀬戸内海一体型の交易圏の形成も視野に入れたものでした。
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日本史についての雑文その223 日前宮
また、玉津島と向かい合う紀ノ川河口部の大きな湾の南端に位置する毛見崎の北岸、つまり紀ノ川河口部の干潟地帯への橋頭堡というべき地には現在は浜宮神社がありますが、もともとはこの地に紀伊国一宮の日前宮があったと伝えられています。
日前宮は日前神宮と國懸神宮という2つの神社の総称ですが、主祭神はそれぞれ日前大神、國懸大神といいまして、正体はイマイチ不明なのですが、この両神宮は朝廷が神階を贈らない神社として知られており、全国でもそんな神社は他には伊勢神宮だけという特別扱いの神社です。

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日本史についての雑文その222 八咫烏
紀伊半島の海岸線は太平洋の荒波の波当たりが激しく河口部の土砂の堆積がなされないので全体的にリアス式海岸が連続し、ほぼ全域が天然の良港を形成しますので水軍の根拠地となりやすいといえます。そうしたリアス式海岸を紀伊国最南端の潮岬から熊野灘沿岸伝いに北東へ進んだ場合ほどなく熊野川河口に行き着きますが、潮岬から北西に太平洋沿岸を進んだ場合は、潮岬からの距離感において熊野川河口とほぼ同じほどの位置にあるのが白浜温泉ということになります。
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日本史についての雑文その221 熊野三山
天ノ川はこの山岳地帯を南西に下っていって大和国と紀伊国の境あたりの峡谷で十津川となり、そこから大和国南部の山岳地帯を蛇行しながら縦断していき、紀伊国に入ると熊野川と名を変えて南東に流れ下り、新宮において熊野灘へ注ぎます。
この十津川の最上流部から徒歩で北西に進んで出屋敷峠を越えると丹生川という河川の最上流部に連絡します。このルートは先述の山岳越えルートよりはよほど安全で、だいたい一般的には十津川へのアクセスはこちらということになります。この丹生川というのは先述の丹生川上神社の下社のあった丹生川とは名前は一緒ですが全く別の河川で紛らわしいのですが、こちらは紀伊国を流れるほうの丹生川ということで、九度山町で紀ノ川に合流します。

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日本史についての雑文その220 吉野地方
そのイワレヒコの東征に助力した人達というのは、それ以前から「木の国」に住むようになっていた出雲系氏族や南洋系氏族であったと思われます。そしてイワレヒコによって「木の国」における彼らのパワーは大和王権成立に向けて本格的に行使される道筋がつけられるようになったのだといえるでしょう。
イワレヒコの東征に先立つ古い時代から、出雲系の人達はおそらく奈良盆地の南端から森林資源を求めて峠を越えて南下して吉野川方面へ進出してきたと思われます。

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日本史についての雑文その219 木の国
このように、古代において神戸から阪神地方、つまり大阪湾の北岸方面には東南アジア系海洋民だけではなく、南洋系海洋民も多く居住していたようであり、言ってみれば吉備や播磨と同じような両海洋民の混在状態であったといえます。
そうした傾向は上町台地の半島の東の河内湾方面や、そこから淀川を遡った北摂や京都、木津川水系、近江方面などでも似たようなものであり、そして河内湾から大和川を遡った奈良盆地においても同じようなものでした。

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日本史についての雑文その218 六甲山地
つまり、この長田の地や生田の地は神戸防衛のための軍事的な要衝なのであり、湊川の合戦にしても一の谷の合戦にしても、究極的には大阪湾から淀川を遡っての京都争奪戦の前哨戦という位置づけであったのですから、4世紀の三韓征伐からの帰路においてオキナガタラシヒメの軍勢が難波の反乱軍と決戦する前に生田神社や長田神社の地に進出して根拠地としたというのは、軍事的理由によるものであったと思われます。
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日本史についての雑文その217 エビス信仰
廣田神社というのは西宮市にある天照大神を祀る神社で、この神社が京の西にある重要な神社であるということで「西ノ宮」として崇敬され、それが西宮という地名の語源となったという重要な神社で、現在は平野部にありますが元来は六甲山地の東端にある甲山の南山麓にあり、当時は西宮から尼崎にかけての平野部は武庫川と猪名川の下流によって形成された干潟地帯でしたから、この廣田神社はその干潟地帯を北西から見下ろす位置にあったということになります。
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日本史についての雑文その216 津の国
こうして斑鳩で1本にまとまった大和川は西へ向かい、更に最後に王寺町で南の香芝市や上牧町からの葛下川の合流を受け、龍田大社を北に眺めてから信貴山の南を通って奈良盆地を後にして河内平野に出てきて、柏原市にて石川の合流を受けて北へ向きを転じて河内湾の南の干潟地帯に注ぐのです。
そして河内湾の西岸を伝って北上していくと上町台地によって形成された岬の北端が現在の大坂城の地点にあたります。この大坂城地点の北が幅5km.ほどの狭い海峡になっていて、この海峡を河内湾から西へ通過していくと大阪湾に出ることが出来ます。上町台地によって形成された半島によって河内湾と大阪湾が東西に分けられ、半島の北の海峡で繋がっていたからです。

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日本史についての雑文その215 葛城地区
さて、曽我川が大和川に注ぐ直前の広陵町北端で南から曽我川に合流してくるのが葛城川です。葛城川は奈良盆地の南西端にある金剛山の東山麓に発する流れですが、その最上流部は金剛山南方の風の森峠を越えて宇智川に乗り換えて五條で吉野川に注ぎます。
このように奈良盆地からは飛鳥川、曽我川、葛城川が紀ノ川の上流部である吉野川に連絡することが出来るのです。また、宇陀川を経由して大和川も吉野川の上流部に連絡可能です。吉野川は吉野地区、つまり「木の国」への入り口であり、これらのルートによって大和国は木の国に繋がることが可能なのです。

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日本史についての雑文その214 飛鳥地区
この石上神宮の北を流れた布留川は南西に向かって流れ、天理市西端の吉田町で大和川に注ぎます。
布留川の合流を受けた後、大和川は北西に向けて流れていき、川西町の北部で佐保川の合流を北から受けます。ここから佐保川を遡っていくと大和郡山市内を北上していき、奈良市との市境地点が平城京の中央を南北に貫く朱雀大路の南端である羅生門跡になります。つまり真っ直ぐ北へ遡る佐保川の流れの延長線上に朱雀大路が伸びており大内裏があったということになるのです。そして、この羅生門跡のすぐ北で佐保川は西から秋篠川の合流を受け、そのまた少し北で今度は東から岩井川の合流を受けます。

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日本史についての雑文その213 纏向地区
そうした、おそらく3世紀初頭と推測される大和王権の誕生に先立つ遥か前、紀元前70年頃のイワレヒコの東征よりも更にだいぶ前の奈良盆地には北から淀川水系から河内湾、そして大和川を通ってまずは出雲系氏族がやって来たと思われます。
最初に大和川が奈良盆地に入ってきた地点にあったのが龍田大社で、龍田大社から更に大和川を東に遡ってすぐに、王寺町の中心でさっそく南へ向けて1本の支流を出します。いや、正確にはこの地点が大和川にとっては奈良盆地内で最後に支流の合流を受ける地点ということになるのですが、この支流が葛下川で、香芝市や上牧町を流れて王寺町で南から大和川に合流するのです。

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日本史についての雑文その212 河内と大和
弥生時代の大阪湾の海岸線は現在よりもずっと内陸側に入り込んでいて、現在の大阪市はほとんどが海の底でした。現在の大阪湾の海岸線と弥生時代の海岸線がほぼ一致するのは南は泉大津市の北端あたりで、弥生時代の海岸線はそこから内陸に徐々に湾入していきます。
そこから南から北へ弥生時代の海岸線を辿っていくと、堺市の鳳、そして仁徳天皇稜や履仲天皇稜のある百舌鳥古墳群、大阪市住吉区の住吉大社、西成区の玉出、岸里、浪速区の今宮戎神社、中央区の高津、長堀、天満橋に至って、そこで現在の大坂城の地点を頂点にして海岸線は南へ向かい、東成区の玉津、生野区の御勝山、東住吉区の桑津と繋がります。

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日本史についての雑文その211 淀川水系
さて石清水八幡宮を西に見て「古椋の池」から南西方向に流れ出すのが淀川であり、淀川水系も幾つか支流が合流します。まず大阪府に入ってから枚方で淀川に南から注ぐのが天野川で、これは奈良県北部の生駒山に発し、交野、枚方を通ります。天野川の最上流部は生駒山の北東で奈良盆地に流れていく富雄川の最上流部と連絡します。
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日本史についての雑文その210 石清水八幡宮
桂川水系については一通り説明しましたから次は宇治川水系ですが、これは琵琶湖を中心とした水系です。琵琶湖には多くの河川が流入しますが、琵琶湖から流出する河川は瀬田川の1本だけです。この瀬田川というのは近江国を流れる上流部分の名称で、これが山城国に入り中流域になると宇治川と名前を変えるわけです。
そうなると宇治川の水源は琵琶湖ということになるかと思いがちですが、実際は琵琶湖に流入する全ての河川が宇治川の源流となり宇治川水系に含まれるのです。それは結局、近江国全域を網羅することになります。

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日本史についての雑文その209 丹塗矢伝承
この鴨川を遡って京都盆地の東端を北上していくと、その中ほど、現在の四条河原町付近の東に八坂神社があります。八坂神社も含めて京都には数多くの神社がありますが、大部分は起源が新しく、信仰が弥生時代まで遡れないものが多く、この八坂神社も神社の起源自体は平安時代初期と新しいのですが、ここの主祭神はスサノヲで、出雲神話の主宰神なのです。あるいはこの地に古来からスサノヲ信仰があり、それゆえに後に八坂神社が創建されたのかもしれません。
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日本史についての雑文その208 小浜と敦賀
このように、播磨平野に注ぐ揖保川、夢前川、市川、加古川の水系においては南洋系海洋民と東南アジア系海洋民の混交状態となっていき、そうした播磨地域と日本海側の丹波地域が交流するという形になっていったと思われ、丹波地域のほうは南洋系海洋民は進出していかなかったでしょうから、出雲文化に近い東南アジア系海洋民の世界がそのまま維持されていったと思われます。
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日本史についての雑文その207 丹波と播磨
このような出雲と吉備の関係性と類似していたと思われるのが丹波と播磨の関係性です。日本海沿岸を東へ流れる対馬海流に乗った東南アジア系海洋民から見て、島根半島の次に海流離脱の目印になる地点は丹後半島先端の経ヶ岬です。ここに辿り着いた東南アジア系海洋民は島根半島に辿り着いた部族と似通った文化を持っていたと思われます。
この丹後半島に辿り着いた海洋民は内陸水路を通って現在の兵庫県北部と京都府北部を合わせた地域、つまり但馬国、丹後国、丹波国といわれた地域に広まっていったのですが、これら地域はもともとはまとめて「丹波国」といわれていた地域で、吉備国と同じような大和朝廷に対して独立性の強い大国として後世に知られることになります。その原型が既に弥生時代には形成されていたと思われます。

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日本史についての雑文その206 勾玉信仰
そうした出雲由来の祭祀関連の技術者集団の原型は、勾玉製作の技術者集団である玉作氏であったろうと思われます。玉作氏の根拠地は宍道湖の南東端に注ぐ玉湯川沿いで、玉湯川の下流部にはスクナビコナが発見したとされて神の湯として古代から信仰の対象ともなってきた玉造温泉があります。
玉造温泉の東にある花仙山という標高200m.ほどの低い山から良質の青瑪瑙が採取できたため、それを材料としてこのあたりの住人が勾玉を作っていたので玉作氏と呼ばれるようになり、この地も玉作と呼ばれ、温泉も玉造温泉と呼ばれるようになったのです。

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