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日本史についての雑文その289 首長霊の継承
2世紀後半の地球寒冷化の開始に伴う気候不順、そしてそれに起因する184年の黄巾の乱の勃発以降、朝鮮半島の平壌付近にあった楽浪郡におけるシナ帝国との交易がストップして、後漢帝国との特約関係を後ろ盾にした「倭国王」の権威が失墜し、北九州の西倭諸国が混乱し、いわゆる魏志倭人伝に言うところの「倭国大乱」の状況となりました。
そこにシナ大陸の戦乱から逃れてきた道教系の秘密結社ネットワークを有した華僑たちによって朝鮮半島にシナ大陸と繋がった交易ネットワークが構築されるようになり、そのネットワークと繋がった邪馬台国の女王卑弥呼を盟主として西倭諸国はまとまるようになりました。

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日本史についての雑文その288 倭人伝の国々
さて、では邪馬台国は何処にあったのかについて考えてみます。そもそも238年に魏が公孫氏政権から帯方郡を奪取した際に間髪入れずに邪馬台国から帯方郡の魏の役人へ使者が送られていることから考えて、もともと238年以前から公孫氏と邪馬台国との間で帯方郡を通して交易関係が存在したことは間違いないと見ていいでしょう。
そして邪馬台国の北にある伊都国に外交関係を統括する役所があったとされており、当時の倭国連合にとっての主要な外交や交易の相手は帯方郡であったと思われることから、帯方郡の役人は少なくとも伊都国までは頻繁にやって来ていたと思われ、上記のように実際には朝鮮半島の地理についても正確に把握していたように、伊都国までの地理は正確に把握していたのではないかと思われます。

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日本史についての雑文その287 魏志倭人伝
邪馬台国が最初に魏に朝貢したのは238年で、朝貢使節は翌239年に魏の都の洛陽に到着し、邪馬台国の女王の卑弥呼には「親魏倭王」の称号が与えられました。このプロデュースをしたのが司馬懿で、司馬懿はこの当時、魏王朝随一の実力者となったばかりで、共に新皇帝の後見人となった曹爽との権力闘争が始まったばかりの時期でした。
司馬懿のライバルの曹爽自身には大した功績があったわけではなく、曹爽の権力基盤は亡き父の曹真の名声に拠るものが大きかったのです。その曹真の功績の中で司馬懿には無い際立ったものは西域諸国の朝貢に関する功績でした。特に西方の巨大帝国であったクシャン帝国を朝貢させた功績は魏朝の歴史の中でも燦然と輝いていました。

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日本史についての雑文その286 邪馬台国
184年にシナ各地で勃発した太平道信者による黄巾の乱は最初は世直し運動のようなものでしたがすぐに暴徒化して「黄巾賊」と呼ばれるようになり収拾がつかなくなり、後漢帝国を牛耳っていた宦官勢力はそれに対して為すすべがありませんでした。そこで各地の地方豪族に命じて黄巾賊を討伐させたのですが、これによって地方豪族が各地で勢力を有することとなり群雄割拠の状態となり、しかも地方豪族たちは宦官勢力を恨んでいたため、189年に地方豪族の1人である袁紹によって宦官勢力は皆殺しにされ、これによって後漢の中央政府はその機能を停止して事実上滅びてしまいました。
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日本史についての雑文その285 大乗仏教
後漢帝国は4代皇帝の和帝以後は外戚や宦官に政治を壟断されるようになり賄賂が横行して政治腐敗を極めるようになりますが、それでもこの時代はまだ基本的に太陽黒点のローマ最大期で地球温暖化時代で豊かな生産性を維持していた時代であったので、それなりに社会は発展し続け、人口も後漢初期には王莽の乱などの影響で2000万人ぐらいまで減っていたのが、11代皇帝の桓帝の時代の157年の統計では5600万人にまで回復しました。
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日本史についての雑文その284 「倭国王」の出現
後漢時代の初期、1世紀中頃に楽浪郡において西倭諸国の代表者は「王」に封ぜられて北九州から朝鮮半島西部を通って平壌に至る交易路の安全保障を肩代わりさせられることとなりました。これは言うなれば郡県制における郡の太守の役割を代わりに務めるということであり、漢帝国初期の郡国制の時期の朝鮮王国の国王の役割と同じことでした。
漢時代の初期には漢の版図は朝鮮半島の西であったので、その東の交易路の安全保障を朝鮮王国が担当したのですが、この後漢時代初期にはその朝鮮王国の故地である朝鮮半島北西部には後漢の直轄地である楽浪郡がありましたから、その南の交易路の安全保障は、南方にある交易相手国であった西倭諸国の担当ということになったのです。

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日本史についての雑文その283 漢委奴国王
その楽浪郡には相変わらず北九州の西倭諸国の通商使節が頻繁にやって来ており、漢書地理誌には紀元前20年代の描写として「楽浪の海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時をもって来たりて献見す」と記されています。
これは北九州の西倭地域に百余りの交易市場があるということです。シナ語における「国(コク)」というのは都市国家、つまり交易市場のことで、日本語における「国(くに)」は「郷」や「里」の意味で、一定の支配地を有した領域国家ですから、そのニュアンスの違いというものはあります。1つの国の中には複数の市場があったと思われ、楽浪郡へは市場ごとに通商使節がやって来ていたと推定されることから、実際にはこの頃の北九州における国の数は20?30ぐらいであったのではないかと思われます。

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日本史についての雑文その282 瀬戸内海防御網
紀元前74年に奈良盆地東南部の一角、橿原のあたりの支配権を得たイワレヒコでしたが、日本書紀にはその後の統治に関しての記述はありません。実際、統治というほどのものは無かったのでしょう。
何故なら、イワレヒコはそもそも奈良盆地の奥地の一角を耕すためにはるばる九州から大船団を仕立てて東進してきたわけではないからです。イワレヒコの目的は瀬戸内海交易路の確立と、その上での瀬戸内海防衛網の構築でした。だからあくまでイワレヒコは海で活動を続けたのだと思われます。

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日本史についての雑文その281 西倭と東倭
紀元前82年の真番郡の廃止によって、真番郡に属していた県、つまり交易都市は全て楽浪郡によって統括されることとなりました。つまり対倭人貿易は楽浪郡で統括されることになったのです。
楽浪郡の本部は現在の平壌付近にあり、真番郡の本部のあった釜山から比べれば、北九州からは遠く離れてしまいました。郡の仕事は交易路の安全保障ですから、郡のカバーする範囲が広く薄くなり、しかもその本部が北へ移動してしまったのですから、どうしても朝鮮半島南部の治安維持は手薄になります。つまり商人は安心して商売が出来ないわけで、どうしても商いの場を楽浪郡の本部のある平壌の近くに据える者が多くなります。

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日本史についての雑文その280 倭人勢力の分裂
しかし、そういった北九州の状況に危機感や不満を抱いたグループも存在しました。それがもともと紀元前108年以前から北九州の小国家内にいた亡命シナ人、つまり華僑を中心としたグループでした。
まず第一に、この新しい形の倭人国家とシナ帝国との交易は倭人の王と真番郡との間の管理貿易であり、かつて華僑たちが倭人王の代理人として保有していた自由な裁量というものが大きく削られて、特に朝鮮半島における商取引においては真番郡を通してシナ皇帝によってかなりの搾取を受けることになった点が不満でした。

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日本史についての雑文その279 真番郡との交易
日本列島においてこのように氏族共同体を積み重ねた中間組織の強い国家形成への道がスタートを切った頃、シナ大陸ではそれと全く逆方向の皇帝専制体制がいよいよ完成しようとしていました。紀元前141年に即位した漢帝国の7代皇帝の武帝は儒教を国教として皇帝の世界支配の正当性を手にして、諸国王の権力基盤を解体してシナ全土に中央集権制を敷いたのです。
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日本史についての雑文その278 倭人共同体の成長
そして紀元前771年に周王室が西戎の攻撃を受けて王都を洛陽に移して以降は天子の権限は形骸化して、中原内の各地の諸侯がそれぞれ勝手に新たに農地を開拓して勢力範囲を拡大していくようになりました。特に紀元前700年ぐらいには地球気温がまた最低値のピークを迎えて小氷期となり、飢饉によって離散した氏族共同体から農民を吸収した諸侯はそれらの直轄民を使って辺境の開拓を進めていき、夷エリアと軋轢を起こしつつ、夷の王国や共同体との関係を濃密なものにしていったのでした。
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日本史についての雑文その277 古代の東亜諸部族
10万年前にアフリカ中南部において出現した現生人類はその数を増やして、7万年前に北方に分布していた原人や旧人などの先行人類が氷河期に適応できずに滅びた後、6万年前に現生人類の一部はアフリカ大陸から他の大陸へ移動を開始しました。これらのうち北へ向かった集団は4万年前までに北アフリカ、中東、ヨーロッパ、コーカサス、中央アジアなどに広がり、後に乾燥地適応してコーカソイド(白色人種)となり、アフリカ中南部に残った集団は後に熱帯適応してネグロイド(黒色人種)となりました。
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日本史についての雑文その276 台湾と朝鮮
これが台湾の場合は、ヴュルム氷期においては琉球古陸に含まれていたので西南日本や琉球と共通した種族の新モンゴロイド狩猟民もやって来ていたと思われ、またヴュルム氷期終結以降には琉球と同様、スンダランド起源の旧モンゴロイドの南洋系海洋民や東南アジア系海洋民もやって来たとも思われ、それらだけであれば西南日本や琉球と極めて似た種族構成であったといえます。縄文時代あたりはかなり共通した文化を持っていた可能性もあります。
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日本史についての雑文その275 蝦夷地と琉球
これで本州の北端まで見てきたことになりますが、続いて蝦夷地、つまり北海道についても少し触れることにします。「蝦夷地」という呼び名は「蝦夷の住む地」という意味であり、日本国の中央政府の人間はこの地に蝦夷が住んでいると認識していたということになります。律令政府にとっての「蝦夷の住む土地」というのは青森県地方であったのであり、北海道地方はその延長線上の地であり、青森県地方に住んでいるのと同じ蝦夷族の住む地であるという認識であったのでしょう。
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日本史についての雑文その274 奥六郡と津軽
その岩木山の北に広がる津軽平野の北端にある十三湖の湖畔には鎌倉時代から室町時代にかけて非常に栄えた十三湊という港湾があり、盛時には北海道や渤海国、朝鮮半島やシナ大陸とも盛んに交易を行っており、日本国の北の玄関口と認識されていたといいます。室町時代の後期以降、この十三湊は岩木川などの河川の運んでくる土砂の堆積によって十三湖が浅くなったことによって次第に港湾として機能しなくなり衰微していったといわれます。現在の十三湖の水深は平均1.5m.です。
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日本史についての雑文その273 東北地方北部
庄内平野から日本海航路を北に向かうと、海岸線には最初は鳥海山が巨大な山容を見せ、その北に子吉川の河口があり、その周囲に小さめの沖積平野である本荘平野があり、笹森丘陵を挟んで北に秋田平野が広がります。
秋田平野は南東から流れ込む雄物川の下流域に形成された沖積平野で、古代においては雄物川は現在の秋田港に注ぐ旧雄物川の河口に流れており、その南の大森山あたりまでを開口部とした湾が雄物川流域に沿って広がり、湾内は干潟となっていたと思われますが、平野の東部の現在の秋田市街地は陸地であったと思われ、もともと出雲系氏族が開拓して稲作が盛んに行われていたようです。

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日本史についての雑文その272 東北地方南部
古代において新潟平野は大きな入り江の新潟湾だったわけですが、その東端に注いでいた阿賀野川を遡ると越後山脈の北を東へ向かい、福島県に入ると阿賀川と名を変えます。阿賀川を更に遡ると会津盆地に入り、喜多方市の山都町で南から只見川が注いできます。この只見川を遡っていくと会津地方の西端を通って最後は尾瀬湿原にまで至り、そこで利根川の支流の片品川に乗り換えるのですが、途中の会津川口のあたりで御神楽岳の南を通ります。
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日本史についての雑文その271 陸奥と出羽
そのヤマトタケルの遠征後、4世紀初頭のシナ帝国消滅後に朝鮮半島に混乱が生じて、半島での既得権確保のために4世紀中頃に西日本勢力が朝鮮半島への進出を開始し、大和王権もそれに乗っかって西方志向を強めたために、その後は大和王権と東北の蝦夷勢力との間は比較的良好な交易関係が維持されたようです。
ところが6世紀後半に大和王権が朝鮮半島での勢力を大きく後退させ、シナ大陸においては6世紀末に隋が成立、7世紀初頭には唐が成立して、シナ帝国が復活して倭国にも大きな圧力となってくるようになると、大和王権は次第に東方志向に回帰するようになりました。

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日本史についての雑文その270 みちのく
ではここから「みちのく」、つまり東北地方を見ていきます。まず東北地方は非常に広大です。本州全体の3割の面積を占めます。南北に細長く、最南端の白河関から最北端の大間まで630km.あり、東京と大阪の間や、大阪と福岡の間の距離より遥かに長く、横幅だって決して狭くはないので広大な地方なのです。
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日本史についての雑文その269 常陸国
この鹿島神宮と香取神宮を鹿島灘に開いた狭い東端の開口部に配した閉鎖海域である古鬼怒湾は常陸国の南部に広がっており、その北端部に那珂川が注ぎ、西端部に毛野川が注いでいました。いや、正確に言えば、古鬼怒湾を挟んでその北が常陸国で、古鬼怒湾およびそれに注ぐ毛野川より南および西が下総国ということになります。
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日本史についての雑文その268 タケミカヅチ
上総国一宮の玉前神社から九十九里浜沿いに北上していくと犬吠埼に至り、その北岸に銚子漁港があり、今はその西に利根川の河口が存在しますが、古代においては常陸国南部の大部分と下総国の北中部を占めていた古鬼怒湾が鹿島灘に向けて口を開けていました。
古鬼怒湾には那珂川と毛野川が注いでおり、また西の江戸湾ともその間にある低湿地帯の細かな水路で連絡は可能で、その低湿地帯を通って江戸湾に注ぐ太日川、利根川、荒川、そして多摩川などを通って毛野国や武蔵国などの蝦夷の多く居住する土地と行き来することが出来ました。

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日本史についての雑文その267 総の国
現在の房総半島は古代においては本州からは切り離された島で、「房総島」とでも呼ぶべき存在でした。現在でも千葉県のことを「千葉島」と呼んだりしますが、これは県境が太平洋、江戸湾、利根川、江戸川というふうに全て海や川で構成されているゆえの異名です。古代においてはこの利根川や江戸川の部分が南関東海峡であったわけで、周囲を海に囲まれた名実ともに島であったわけです。
ただ南関東海峡は水深が浅く、特に房総島の北西端部の柏や流山の北の部分は毛野川や太日川、利根川の運んできた土砂が堆積して低湿地帯となり陸地化し、房総島は狭い低湿地帯で本州と繋がった房総半島になりました。

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日本史についての雑文その266 東海道
大和王権の関東地方における目線は、今まで見てきた毛野国や武蔵国では東から西を見て、西へ向かって進出していく目線でした。それがこの相模国においては、その国名の命名法自体が「箱根の坂から東を見る」というように、東を見て東へ進んでいく目線となっています。
これはどういうわけなのかというと、大和王権の関東への進出経路というものが、まず駿河国方面から海路で相模、上総、下総、常陸の南関東の海沿いに海岸線を東へ進出していき、下総国の香取と常陸国の鹿島にまで至り、そこを拠点として反転して、今度はそこから西へ向かい、下野や上野、武蔵などの北関東の内陸部へ進出していったからなのです。

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