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日本史についての雑文その304 律令制の成立
2世紀末に始まる後漢末期の大動乱と地球寒冷化の開始の結果、シナ世界の人口は約10分の1に激減し、華北はほぼ無人地帯となってしまいました。後漢滅亡後にその華北を治めたのが魏でしたが、魏は国力の乏しい状態で呉や蜀と競合していかねばならず、その解決のために北方異民族を領内に大量移住させて労働力や兵力としました。その魏から王権を簒奪した司馬氏が3世紀中頃に晋を建国し、晋がシナ全土を統一しましたが、すぐに4世紀初頭に華北で北方異民族の各部族が蜂起して晋は滅び、晋王朝は江南に亡命して、華北は五胡と呼ばれる匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の各部族の諸勢力が相争う戦乱の場となりました。ここから五胡十六国時代となります。
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日本史についての雑文その303 蘇我・物部の争い
572年のフトタマシキ大王即位後の時代というのは、こうした時代の後を承けた王権国家文明変質期後期の時代であり、この時代においては引き続き王権国家文明が成熟していきますが、新しい文明の要素が外来刺激と社会変化の増大を受けていよいよ自律的に動くようになり、社会の表面に現れるようになり、この時代の終盤には社会を動かす影響力を獲得するようになってきます。
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日本史についての雑文その302 崇仏論争
仏教が日本社会に与えた影響は数多くありますが、この6世紀半ばの仏教伝来は極めて政治的な動機の強いものであり、この仏教導入時の時点においては仏教導入派によって仏教に期待された役割は純粋に政治力学上の作用でありました。
ただ政治力学といっても、この当時の政治とは政務と祭祀が表裏一体となっての「まつりごと」であったのであり、仏教に期待されたのはこの祭祀の部分における力学上の変化を及ぼすことであったので、多分に宗教的側面はあったのですが、それは信仰というよりはやはり政治の世界の出来事であったと見るべきでしょう。

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日本史についての雑文その301 仏教伝来
宗教というものは現代においては各自の心の拠り所のようなものになっていますが、古代においては世界認識の手段でした。昔の人は宗教を通して世界の成り立ちを把握し、宗教を通して世界への働きかけを行っていました。
人間にとって認識された世界とは「動きのある世界」でした。川は流れ、海は波を寄せ返し、風は草花をそよがせ、草木は生育し、動物は駆け回り、雲は流れ、太陽や月は昇り沈む、このようにあらゆる物に動きがある世界でした。動くということは、そこに何らかの意思や心、生命が存在しているからであると古代人は考えました。ここから汎神論、精霊信仰が起こるのです。

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日本史についての雑文その300 任那日本府
5世紀の終盤に倭国が南朝の宋への朝貢を取りやめてシナ冊封体制から脱した頃、朝鮮半島の情勢は変動していきつつありました。長らく高句麗に従属していた新羅は5世紀半ばから高句麗の支配から脱して百済と同盟するようになり、百済・新羅の同盟が高句麗に対抗するような構図となりました。また、倭国は加羅諸国との強固な同盟をもって朝鮮半島に足場を築き、百済と同盟し高句麗と対抗し、そして新羅ともしばしば争っていました。
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日本史についての雑文その299 大和朝廷の成立
506年にオハツセノワカサザキ大王が跡継ぎの無いまま没した後、群臣は協議して越前の開拓を行っていた越前王で、ホムタの5世孫のオオドを後継として迎え入れることにして、オケ大王の娘であるタシラカ王女の婿として直系大王家に取り込みました。
オオドの越前勢力は大和の豪族勢力に比べて弱小であったので、あくまで主導権は大和側にあり、その大和勢力の中でも有力な外戚であった平群氏はオハツセノワカサザキが滅ぼしていたので、さしあたり大王家に迎え入れたオオドを大和の豪族達が結束して支えるという形になり、その筆頭としてオオド大王を補佐したのが大連の大伴金村でした。

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日本史についての雑文その298 治天下大王
480年にオアサヅマワクゴノスクネ大王が没し、その後を息子のアナホ(倭王興)が継ぎましたが、その王位継承の際にも兄弟間で跡目争いが起きており、しかもそうやって即位したアナホ大王も482年には王族間の争いで暗殺され、大王暗殺後の混乱の中で外戚の葛城氏やその系列の他の王族を次々と滅ぼして大王の位を継いだのがアナホの弟のオオハツセノワカタケ(倭王武)でした。
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日本史についての雑文その297 倭の五王
391年から407年まで続いた朝鮮半島における広開土王との戦いの結果、倭国は朝鮮半島北部における高句麗の勢力を破ることの困難を認識することになり、当面は朝鮮半島南部の加羅・百済・新羅に対する影響力を保持しつつ、高句麗とも交易関係を結びつつ、大陸から文物を得るために百済を窓口として東晋との交易も進めました。
その東晋では門閥貴族の打倒や民衆反乱の鎮圧などで勢力を拡大した軍人の桓玄が国政の実権を握るようになり、403年に東晋の皇帝から帝位を簒奪して楚という国を建てましたが、翌404年に劉裕という軍人が桓玄打倒のクーデターを起こして挙兵し、桓玄を殺して東晋の皇帝を復位させて国政の実権を握りました。

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日本史についての雑文その296 河内王朝
390年に倭国でオキナガタラシヒメが没して息子のホムタが正式に大王として即位した頃は朝鮮半島においては高句麗との戦いを倭国の支援を受けた百済が有利に進めており、百済軍は平壌の南まで攻め込み高句麗は劣勢に追い込まれていました。
そうした中、391年に高句麗では広開土王が即位して、劣勢を跳ね返すべく拡大政策に転換します。これによって百済軍は敗戦を重ねて南へと押し戻されるようになってきました。それに対して倭国も朝鮮半島へのテコ入れを強めて、倭国軍を増派して百済への軍事指導を強め、百済の内政にも介入するようになっていきました。また、新羅への圧迫も強めて高句麗との連携を強く牽制するようになりました。

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日本史についての雑文その295 倭国と高句麗
355年の「三韓征伐」以降、日本列島においてはオキナガタラシヒメによって大和王権の首長霊の組み換えという宗教改革が遂行され、それは土着の地域氏族共同体の連合であった「大和王権」から、それらを束ねる強大な王権を中心に据えた「倭国」への脱皮という政治改革も伴ったものでした。
この時代は部族国家文明の衰退期にあたり、王権国家文明の形成期にもあたりました。部族国家文明というのはシナ帝国との接触が親密になったことによって日本列島において生じた天子たるシナ皇帝が中心に君臨する華夷秩序の辺縁における氏族共同体の連合によって形成された文明形態であったのです。

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日本史についての雑文その294 宗教改革
355年に東国重視派のカゴサカ王やオシクマ王を排除したオキナガタラシヒメですが、タラシナカツヒコ亡き後の大和王権の大王位を実質的に継ぐことになります。日本書紀ではオキナガタラシヒメは摂政であったという扱いになっていますが、摂政というものは幼君など統治能力の不足した君主を補佐する役目であり、オキナガタラシヒメの場合、390年に彼女が没した後に息子のホムタが即位していますから彼女の存命中の45年間も大王位は空位ということになり、これは通常の摂政とは違うといえます。
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日本史についての雑文その293 三韓征伐
西暦300年以前の朝鮮半島の状況というものを概観しますと、まず平壌付近に楽浪郡があり、ここが晋帝国の朝鮮半島支配の中枢となります。晋帝国が朝鮮半島を支配している理由は更なる遠方との交易の通路として意味があるからなのであり、楽浪郡は交易路の安全確保のために郡兵を運営するための機関であり、楽浪郡の管轄下に朝鮮半島の各地には多くの県城がありました。
その楽浪郡からは北方と南方に交易路が伸びており、北方には満州平原があり、南方には帯方郡、そして三韓地域、そしてその南に日本列島がありました。

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日本史についての雑文その292 シナ帝国の滅亡
ここでシナ大陸のほうに目を転じてみますと、280年に呉を滅ぼしてシナ世界を再統一した晋帝国がいきなり衰退し始めるという現象が起きています。
184年に勃発した黄巾の乱以降、後漢末の混乱でシナの人口は激減し5600万人から一気に500万人弱にまで落ち込み、そうした中で成立した魏・呉・蜀の三勢力は兵力不足を解消するために周辺異民族を自領に大量に移住させて兵力として活用しました。

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日本史についての雑文その291 大和王権の伸張
241年に大和王権の初代大王であったミマキイリヒコが没して、おそらく纏向にある前方後円墳において首長霊の継承儀式が行われて新たに大王として即位したのが次男のイクメイリヒコでした。長男のトヨキイリヒコは関東方面の開拓のために移住していっていました。おそらく冒険を好む商人的性格であったのでしょう。
そうしたトヨキイリヒコのような多くの人材が3世紀の後半には各地で盛んに交易を行い、大和王権の王都である纏向へ物資や人材を送り、纏向は最盛期を迎えることになり、この時代に纏向最大の箸墓古墳も作られています。そうした大和王権の勢力の拡大に対応して王都纏向においては大王のイクメイリヒコを中心に首長霊祭祀の様式が更に整備されて完成されていきました。

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日本史についての雑文その290 初代大王
3世紀初頭、シナ大陸では三国鼎立の状況が固まろうとし、朝鮮半島では公孫氏政権と邪馬台国との特約関係が進んでいた頃、日本列島の畿内、奈良盆地東南部の大和川東岸地域である纏向周辺一帯に巨大な都市が出現しました。
2世紀の終わり頃にはイワレヒコの子であるカンヌナカワミミの末裔である海人氏の勢力が奈良盆地全体に及ぶようになっていましたが、海人氏は瀬戸内海交易路において大きな力を有しており、また2世紀終わり頃の海人氏のワカヤマトネコヒコオオヒヒ王が奈良盆地北部に進出したのは木津川から琵琶湖を経由して日本海交易路にも進出しようとしたからであろうと思われます。

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