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日本史についての雑文その312 律令国家の建設
天武天皇は天智天皇の同父同母の兄弟ではなく比較的身分が低い皇族であり、おそらくは天智の異父兄の女系皇族であったのであり、壬申の乱以前の天武、すなわち大海人皇子は改新政府内の随一の実力者であることに加えて、天智天皇の娘婿であるという点で権威を保っていたのでしょう。天智天皇は決して一般には評判の良い君主ではありませんでしたが、改新政治の創始者であり大王家の正統に繋がる血筋でもあることから改新政府内部においては唯一の求心力であったのであり、大海人皇子が改新政府内部で中心的な役割を果たすためには天智との縁戚関係は欠かすことの出来ないものでした。
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日本史についての雑文その311 天武持統朝
つまり、672年に大海人皇子が親唐派の近江朝廷を武力で倒して新羅との同盟を選択し、翌673年に天武天皇として即位してから、699年に新羅と唐の国交が回復し、702年に日本が遣唐使を復活させるまでの期間は、日本は新羅と同盟して当時の世界最大の超大国であった唐と軍事的に緊張関係で対峙していたことになります。
687年に亡くなった天武天皇の後を継いだその妻の持統天皇は697年に孫の文武天皇に譲位して702年に没していますから、この期間は天武天皇と持統天皇の時代ということになり、そしてまたこの時代は律令国家文明の形成期後期に相当します。基本的には壬申の乱という古代最大の内乱の終結と唐と対峙する戦時体制の継続という一種の非常事態を背景として、古代天皇制と律令制を中心に据えた中央集権国家体制を構築していった時代であったといえるでしょう。

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日本史についての雑文その310 壬申の乱
さてこのように668年に倭国が「日本」という新たな国家に生まれ変わった頃、朝鮮半島ではとうとう唐が百済に引き続いて高句麗も滅ぼして満州平原から朝鮮半島にかけて支配下に収めました。これはシナお得意の外交戦略である「遠交近攻策」を実行した結果でした。すなわち、唐は新羅と同盟して、新羅を走狗として百済と高句麗を滅ぼしたのです。しかし、この「遠交近攻策」の場合、最終的には走狗となった新羅も滅ぼして完了となるのです。新羅も唐がそのように企んでいることは承知した上で、それでも自らが生き残るためにあえて唐に利用されているわけです。
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日本史についての雑文その309 日本国誕生
663年の白村江の惨敗とそれに先立つイカシタラシヒメ大王の死によって倭国で進められていた王権の権威の上昇のための諸々の施策はどこかへ吹き飛んでしまい、朝鮮半島南端まで唐の勢力が達したことを受けて中大兄王子はまずは日本列島の防衛体制の強化に急いで取り掛かることになりました。664年には対馬、壱岐、筑紫に国境警備隊である防人や狼煙による連絡網を置き、筑紫には水をたたえた防御施設である水城を築き、665年から667年にかけて西日本の各地には防御用の城砦を築きました。
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日本史についての雑文その308 白村江の戦い
中大兄王子や中臣鎌足らは649年にはかつて乙巳のクーデターの同志であった蘇我石川麻呂を無実の罪で死に追いやり、653年には自らが担ぎ上げたヨロズトヨヒ大王を遷都に反対したという理由だけで難波宮に追放同然に置き去りにしてしまいました。これらはあまりにも酷薄であるように思えます。いや、実際彼らは冷酷な面を持っていたのでしょうけれど、これらは彼らの余裕の無さの表れでもあります。彼らはいちいち石川麻呂や大王と議論を積み上げていく時間も惜しかったのでしょう。それだけ当時の倭国をとりまく情勢は緊迫の度を増していたのです。
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日本史についての雑文その307 大化の改新
7世紀前半は王権国家文明の爛熟期であり、王権国家文明、つまり大和朝廷は成長が極大に達して最高の繁栄を示し、その成果が社会の表面に現れてくることになります。そして同時に社会から求心力が失われて、社会矛盾が表面化してくるようにもなり、混乱状態も生じてきます。特にそうした傾向が強まって王権国家文明が行き詰ってくるのはこの爛熟期の後期である625年以降、だいたい厩戸王子やカシキヤヒメ大王らが亡くなった頃ぐらいからでした。具体的にそれがどのような行き詰まりであったのかというと、部民制といわれる社会システムの拡大とその限界や矛盾点の露呈によるものでした。
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日本史についての雑文その306 聖徳太子
この隋との外交が展開された時期に倭国の国政の舵取りをしていたのが厩戸王子や蘇我馬子でした。593年に19歳で摂政となった厩戸王子は、21歳にして仏教の師であり外交顧問である恵慈と出会い、26歳の時に最初の遣隋使を派遣し、その後、44歳の時に隋が滅びるまで対隋外交と内政改革を指導しました。その4年後、622年に48歳にして厩戸王子は亡くなりますが、次代の大王候補として期待されていた厩戸王子が即位しなかったのは、単に「つなぎの女王」であったはずの叔母のカシキヤヒメ大王が予想外に長生きして、太子であった厩戸王子のほうが先に死んでしまったからでしょう。この頃は譲位の慣習は無く、大王は終身職であったので、先代大王が死なない限り、太子が即位することは出来なかったのです。
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日本史についての雑文その305 遣隋使
朝鮮半島では550年代から高句麗・百済・新羅の三つ巴の戦いの様相となっており、6世紀後半にはこの三国ともにそれぞれシナの北朝と南朝の両方ともに朝貢するようになりました。この間、シナでは北朝の北周や北斉が華北で律令制を発展させて強大化するようになり、これと隣接する高句麗は次第に脅威を感じるようになってきました。高句麗は西からはシナ北朝の脅威を受け、南からは新羅や百済の攻撃を受けるようになったのです。
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