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日本史についての雑文その323 日本三大悪人
ちなみに道鏡は戦前において平将門、足利尊氏と共に日本三大悪人の1人に数えられた人物で、現在においてもあまり評判の良い人物とはいえません。現在においてまでも評判が悪いのは称徳女帝との間に男女関係があったという俗説によるものなのですが、当時の僧侶の戒律は厳しくて、そのような俗説はまず事実ではないでしょう。
そういう俗説が唱えられるようになったのは僧侶の戒律が有名無実化した時代のことで、割と最近のことです。どうせ「悪人」だから戒律など守っていなかったのだろうという先入観による俗説であろうと思われます。尊氏や将門にはこうした下世話な俗説が無く、また戦後にイメージアップが図られたために、現在ではそんな悪いイメージは無いのですが、道鏡については相変わらずイメージは悪いようです。

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日本史についての雑文その322 恵美押勝と道鏡
聖武天皇は長屋王の怨霊におびえて仏教の法力で災いを取り除いて国家を安泰にしようとして大仏を造立したりしたのです。ところがその結果は惨憺たるもので、国家財政は破綻し、人民は疲弊し、逆に災いが増えてしまったのです。つまり仏教では国家を安泰にする力は足りないという認識となったわけで、何か別の国家原理が必要になってきます。そこでクローズアップされてきたのが儒教でした。
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日本史についての雑文その321 孝謙後嗣問題
749年に聖武天皇は48歳にして退位して、その娘で31歳になっていた阿倍内親王が即位して孝謙天皇となりました。既に聖武上皇は政務に意欲を失っており、政治的実権は藤原氏出身の光明皇后とその甥の藤原仲麻呂が握るようになりました。仲麻呂はこの時43歳でありました。既に玄は亡く、吉備真備は左遷され、橘諸兄政権の基盤は弱められていきました。
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日本史についての雑文その320 大仏造立
737年に天然痘の流行によって藤原四子政権が崩壊した後に成立した橘諸兄政権は藤原四子政権の政策を継承して律令体制の完成を目指し、財政政策の整備を行っていきました。また基本的には諸兄は聖武天皇や光明皇后に対してはイエスマンであったので彼らの望む仏教重視政策を進め、唐から多数の経典を持って帰ってきた玄を抜擢して、玄を頂点とした仏教統制体制を敷いて全国の僧侶や官寺を国家の下に管理して、国家鎮護のために法会を行わせました。
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日本史についての雑文その319 怨霊の発生
ただ、729年の長屋王の変の後しばらくは、藤原四子政権が長屋王政権の路線を受け継いで実務的な政策をこなしていくことになります。長屋王の変は差し当たり実際政治上はあまり大きな影響は及ぼさなかったといえます。まずこの時代の目だった出来事は外交関係の変化が挙げられます。
シナ大陸では705年に武則天が死去して周は一代限りで終わり、唐王朝が復興しました。ただ周時代に府兵制が骨抜きにされたために辺境を押さえる軍事力が不足するようになり、満州平原では渤海が興隆し、唐と渤海の間が緊張し、渤海への牽制のために唐は新羅との対立関係を緩和するようになっていました。日本が702年に遣唐使を復活させ、717年にも遣唐使を送るようになったのも、そうした唐の対外関係の緩和策に乗っかったものでした。

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日本史についての雑文その318 長屋王の変
724年に満を持して即位した聖武天皇の時代はその後、約四半世紀続くことになりますが、この律令国家文明確立期の後期にあたる時代は、聖武天皇本人や平城京に住む人々の心情はそうではなかったかもしれませんが、客観的に見て、日本型律令国家にとっては順調な発展の時代でありました。
聖武天皇即位後間もなくの頃は、723年に施行された「三世一身法」の効果が現れ始めた時期で、私有地欲しさに多くの人民が荒地を開墾して墾田を増やし、もちろんそれらの新たな墾田からも租は徴収されましたから諸国の官稲が増えて財源は豊かになり、これら諸国の官稲に対する中央政府の統制も不比等政権時代から徐々に強化されており、中央政府への貢進物である調や庸も実質的にはこの諸国の財源によって賄われていましたから、必然的に「三世一身法」は中央政府を潤わせる作用も及ぼしたのでした。

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日本史についての雑文その317 三世一身法
平城京の完成に目途がたった714年に13歳になって元服した首皇子は正式に皇太子となり、それを見届けた元明天皇は翌715年に55歳にして皇位を去りました。ところがこの時に元明から皇位を受け継いだのは14歳の皇太子である首皇子ではなく、その叔母にあたる36歳になっていた氷高内親王だったのです。首皇子の叔母ということは、つまり元明の娘であり、文武の同母姉であったということです。この氷高内親王が即位して元正天皇となります。
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日本史についての雑文その316 平城京遷都
大宝の遣唐使が様々な課題を抱えて帰国してきた704年の日本において朝廷の太政官の実権を握っていたのは藤原不比等でした。不比等は若い頃から持統天皇の側近として重用され、697年の持統の孫の文武天皇の即位に力を尽くし、その夫人として娘の宮子を入内させ、文武の後見役として政治の表舞台に出てくるようになり、また701年に完成した大宝律令の編纂に功績を上げ、同年に大納言に昇進し、また同年に娘の宮子が文武天皇との間に首皇子を産み、不比等は次代の天皇の最有力候補の皇子の外祖父ともなり、702年に文武天皇と共治体制をとっていた持統上皇が没した後は、44歳となった不比等が文武天皇を補佐して国政の中心に立つことになったのでした。
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日本史についての雑文その315 大宝の遣唐使
702年に33年ぶりの遣唐使が日本から唐に向けて出発しました。大宝の遣唐使です。33年前といえば669年であり、壬申の乱より前の近江朝廷の時代です。つまり672年に始まる天武持統朝においてはシナ大陸との交流を断って、ひたすら内に篭って律令国家を建設していたのであり、それが694年の藤原京遷都と701年の大宝律令の完成によってひとまず形が整ったので、唐の辺境政策の軟化の機会をとらえて、日本独自の律令国家の成立を誇示して、念願のシナとの対等外交関係の樹立を実現することを最重要の使命として大宝の遣唐使が送られることになったのでした。
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日本史についての雑文その314 日本語の成立
ところで、こうした在地の行政機関による統治と、中央政府による統治が二重に存在し、これらが密接に関与し合い、更に人民に対する統治が複雑かつシステマチックになっていったという政治体制の変化は、言語の変化ももたらすようになっていきました。何故なら、政治というものは言葉によって行われるものであり、政治の複雑化は言葉の複雑化、政治言語化に直結するからです。
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日本史についての雑文その313 租庸調
さて、一方この天武持統時代における地方統治はどのようになっていたのかですが、中央政府がかなりシナの制度を模倣したものになっていたのに対して、地方行政制度に関しては伝統的な在地豪族の支配体制に依存したものになっていました。
中央と地方においてそのような差異が生じた理由は、そもそも飛鳥の中央政府の起源となった大和王権は畿内の豪族の連合体で、天皇の起源となった大王も畿内の豪族連合の代表者であるに過ぎず、畿外の各地方はそれぞれの地方の在地の豪族が直接支配しており、大王はそれらの地方豪族と主従関係を結んで従属させることによって、それぞれの豪族の支配地に間接的な支配を及ぼしていたに過ぎないからです。

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