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日本史についての雑文その343 御霊信仰
このように藤原良房などは天皇が国家鎮護の祭祀を行う「生き神」として機能する国家を志向したのですが、この時代において最も重要な国家鎮護の祭祀とは怨霊鎮魂のことでした。これを835年までは空海がその圧倒的な密教祭儀と法力でこなしていたわけですが、それはあくまで空海が稀にしか存在しない個人的天才であったからであり、空海という存在は孤立した存在で、その祭儀マニュアルを引き継ぐことは出来てもその天才性まで受け継ぐことは出来ないので、空海の天才性を補う新たな論理体系が必要ということになります。
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日本史についての雑文その342 摂関制度の起源
このように多くの恨みや反発を招いてまでも藤原良房が0歳児の惟仁親王の立太子を行い、そして8歳の幼帝である清和天皇を即位させたのは、それは確固とした信念、国家観というものがあったからでしょう。そもそも文徳と良房の後継問題に関する意見の相違というのはこの国家観の相違に起因しているのであり、根深いものであったゆえに最後まで意見の一致を見ることが無かったのでありましょう。またこの時代においては良房の抱いたであろう国家観は極めて先進的なものであり、まだ文徳の抱いていた国家観のほうが保守的な朝廷においては共感する人が多かったのであり、それゆえ良房は朝廷の多くの人々から反発を受けることになったのでした。
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日本史についての雑文その341 文徳天皇と六歌仙
823年の嵯峨天皇の譲位以降、嵯峨系と淳和系に分裂していた皇統を842年の承和の変で一本化したのは嵯峨天皇の息子であった仁明天皇でした。仁明天皇はその治世において強いリーダーシップを発揮しましたが、850年3月に40歳で亡くなり、同じ年に仁明の母で皇室の最長老であった檀林皇太后も亡くなり、23歳で即位した皇太子の道康親王、すなわち仁明の子の文徳天皇が朝廷を率いていく時代となりました。
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日本史についての雑文その340 群盗海賊
822年6月に55歳で最澄が死去した7日後に比叡山に大乗戒壇の設立を許可する勅許が嵯峨天皇から下されましたが、その勅許の宣下に尽力したのが47歳の右大臣の藤原冬嗣でした。最澄の大乗戒壇設立のコンセプトは「小乗戒」という既存の仏教界の権威に抗ってでも「国の宝」とも言うべき仏教指導者の育成を図るということにあったのであり、この2年後の824年に、たとえ既存の根本法である律令に反してでも国司の人材を精選して地方税収のアップを図ろうというコンセプトの「反経制宜」の意見書を奏上した藤原冬嗣には、律令国家文明修正期末期と改革期初期という行き詰まりの時代に共に青壮年期を送った同士として「人材育成」という部分で何らか最澄と気持ちの通じる部分があったのかもしれません。
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日本史についての雑文その339 最澄と空海
空海は讃岐国の佐伯氏という地方豪族の子として生まれ、もともとは官僚になるために都の大学寮で学んでいたのですが、19歳の時に学校を飛び出して山林での修行生活に入ったといわれます。山林での修行ということは修験道ということになりますが、その中で雑密の呪法も修めていったようです。また、それだけではなく幅広く仏教思想を学んだようで、密教の根本経典である「大日経」もこの修行時代に読み、その時に悟りを開いたともいわれています。また、室戸岬の洞窟で修行している時に口の中に明星が飛び込んできて悟りを開いたともいわれています。
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日本史についての雑文その338 天台法華円宗
さて、この律令国家文明の改革期の時代、言い換えると王朝国家文明の黎明期の時代に加わってきた新たな要素の代表格といえるのが平安二宗、つまり仏教における天台宗と真言宗でしょう。日本における天台宗の開祖は最澄、真言宗の開祖は空海で、共に804年に出発した延暦の遣唐使に加わって唐に渡り、新しい仏教思想を日本にもたらしたのでした。ここで少し時代は遡りますが、804年の最澄と空海による入唐体験から平安二宗の日本における受容の経過を書いていってみます。そして、インドやシナにおける密教の歴史については既に簡単に説明しましたので、ここではまずは古代インドにおける法華経の成立から振り返っていかねばならないことになります。
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日本史についての雑文その337 漢詩と和歌
9世紀前半の時代というのは基本的に天皇親政の時代であり、天皇が指導力を発揮して政治が行われ、藤原氏をはじめとした貴族たちは天皇の政治を補佐する立場でありました。8世紀末に日本は「東夷の小帝国」であることをやめて、天皇はシナ皇帝のような「帝王」的な存在であることをやめていくのですが、その変化は急激なものではなかったので9世紀前半ぐらいまでは天皇の「帝王」的側面の名残はまだ残っていたのでしょう。
それに加えて、薬子の変の教訓を受けて嵯峨天皇の時代に朝廷内における権力関係が整理されて天皇の権限が強化され、更に天皇の清浄性を強調することで天皇の神格化の傾向が強まり始めたので、嵯峨、淳和、仁明のあたりの時代は総合的な意味で「天皇」という存在の権力は最高点に達していたのではないかと思います。

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日本史についての雑文その336 承和の変
809年に23歳で即位した嵯峨天皇は、実兄である平城上皇と争って翌810年の薬子の変でこれを排斥し、皇太子としていた平城の子の高岳親王を廃太子して、代わりに自分と同い年の異母弟である大伴親王を皇太子としました。ところがその年のうちに嵯峨天皇に皇子が二人産まれました。第一皇子は広井氏の娘から産まれ、この子は母親の身分が更衣クラスであり皇位継承候補にはなり得なかったので、4歳の時に臣籍に降下されて源氏の姓を賜いました。この子が嵯峨源氏の始祖で後に初代の源氏長者となる源信(みなもとのまこと)でした。
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日本史についての雑文その335 反経制宜
とにかく、こうして嵯峨朝において「顕幽相生体制」の第一歩が踏み出され、慣習法世界の上に律令法世界が重なるように被さる重層的国家が形成されるようになったということは、現実的な地域社会にまで天皇のリーダーシップが強く及ばなくてもそれはそれでいいのであり、地域社会においては伝統的な「法による支配」が活用された統治方法のほうが優先されていくのです。そのように政府が律令法の支配を弱めて、むしろ地域社会の慣習法世界を活用した統治をしていくための根拠や目安にしたのが単発の官符や詔勅の類であり、これらを整理した法典を「格式」といいました。
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