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気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

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日本史についての雑文その354 第三次シナ帝国
10世紀のイスラム世界やヨーロッパ世界は複雑化、分権化の道を進みつつ、後世に繋がる枠組みが成立していった時代であるといえますが、同時期の東アジア世界はどのようであったのかというと、これはまた違った展開をしつつも、これも後世に繋がる枠組みが成立していった時代でもあったといえるでしょう。
874年の黄巣の乱勃発によって唐王朝は長安付近のみの地方政権となり、各地の節度使が自立するようになり、中には王を自称する者も現れました。895年には太原において李克用が晋王を称し、901年には漢中において李茂貞が岐王を称し、902年には揚州において楊行密が呉王を称し、903年には成都において王建が蜀王を称するという具合でありました。

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日本史についての雑文その353 騎士の誕生
2世紀後半に本格化した寒冷化時代において理想のシステムとされてきたのは、古代ローマ帝国末期やササン朝ペルシア、漢帝国などで確立されていた中央集権制であり、そうした集権化システムが寒冷化時代における試行錯誤の結果、結実したのが7?8世紀における唐の律令制、イスラム帝国や東ローマ帝国の中央集権官僚制、フランク王国の国王専制体制などであったのですが、それらが結実した直後、9世紀頃から地球は温暖化し始め、単純化、集権化されていた世界は複雑化、分権化していくことになるのです。
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日本史についての雑文その352 中世の始まり
紀元前2000年ぐらいに始まったシナ文明は、夏・殷・周の約1200年間の黄河中流域を中心とした商業都市連盟の時代の後、春秋・戦国の約550年間の戦乱の時代の中で都市国家同士の争いを経てシナ人の居住するシナ世界を万里の長城以南、長江中下流域以北という範囲まで拡大していき、7つの王国が群雄割拠する状況へ収斂し、最終的には秦王国が他の6王国を併呑して、紀元前221年に秦・漢・新・後漢・三国・晋というふうに537年間続く第一次シナ帝国の時代の幕を開きます。
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日本史についての雑文その351 唐の滅亡
705年に武則天が息子の中宗に譲位して唐王朝が復活した後、中宗の皇后の韋后が国政を壟断し、武則天のように王権の簒奪を行おうとして710年には夫の中宗を殺したのですが、これを中宗の甥の李隆基が誅殺し、この時25歳の李隆基は自分の父である睿宗を皇帝として自分は皇太子になりました。この李隆基が2年後の712年に即位して玄宗となるのですから、玄宗も若い頃は英明な君主で、治世の前半は科挙合格者の集権派の新官僚たちを宰相として駆使して皇帝の指導力を発揮して「開元の治」といわれる唐の絶頂期を演出し、節度使の制度を整備して北方辺境の交易路も確保しました。
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日本史についての雑文その350 イスラム帝国
メッカのアラブ商人であったムハンマドが610年に唯一神アッラーフの啓示を受けてイスラム教の布教を開始した時、その布教対象となったのはムハンマド自身の属する部族であったクライシュ族でした。ムハンマドの生誕地であるメッカにおけるアラブ商人を構成していたのがクライシュ族で、クライシュ族は多くの氏族に分かれた大きな部族で、その中でも有力な一門がハーシム家やウマイヤ家で、ムハンマドはハーシム家の生まれでありました。
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日本史についての雑文その349 第二次シナ帝国
316年に晋帝国が滅んだ後、晋帝国の版図の北部は五胡といわれる北方異民族の支配する地となり、晋帝国の版図の南部は晋の皇族の生き残りが亡命して建てた東晋王朝の支配する地となりました。その境界線が淮水あたりで、もともと晋帝国の支配する地が「中原」「中華」と同義であったので、この後、淮水より北を「華北」、淮水より南を「華南」と呼ぶようになったのです。
華北に割拠するようになった五胡というのは鮮卑、匈奴、羯、氐、羌の5つの民族ですが、鮮卑はトルコ系、匈奴と羯はモンゴル系、氐と羌はチベット系の民族で、これらの諸民族が部族集団ごとに割拠していたというのが316年以降の華北の状況であったわけです。この諸民族はおそらくかつてシナ人の起源となった諸部族の中にも似たようなものが含まれていたのでありましょうが、今回新来の部族は民族はそれらシナ人の先祖と同じでも、ずっとモンゴル高原やチベット高原で遊牧生活を送っていた部族ですから、シナ人とは全く別の文化を持った異民族、つまり「夷」であったと考えていいでしょう。

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日本史についての雑文その348 第一次シナ帝国
シナの歴史をざっと見てみると、まず紀元前2000年ぐらいに黄河中流域でシナチベット族、モンゴル族、トルコ族、ツングース族などの多民族が集まって営む商業都市連盟とその周辺の農耕エリアが形成され、その盟主的存在としてシナチベット族の一部族である夏族が王に推戴されて夏王朝が成立しました。
これは現代から数えて4000年ぐらい前にあたります。このことをもって「中国四千年」と言うかというと、そんなことは全然なく、これは1911年の辛亥革命の時に司馬遷の「史記」に記された黄帝という伝説上の君主の即位した年から数えて1911年が4609年目であるというスローガンが唱えられたことに由来するものです。物凄く大まかに言えば5000年のほうが近いとも言えるのであり、それゆえ「中国五千年」とも言います。それで烏龍茶や麻婆豆腐の宣伝文句にまで「中国四千年の味」や「中国五千年の歴史」などという大仰な謳い文句が踊ることになるのですが、烏龍茶や麻婆豆腐には4000年の歴史も無いし、だいたい「中国」という国自体が1911年に初めて誕生したものです。まぁ「中華民国」という正式名称の略語としてですが。

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日本史についての雑文その347 唐とイスラム
7世紀初頭の世界の2大文明国といえば東のシナ世界の隋帝国と西の中近東世界のササン朝ペルシア帝国という2つの農耕大帝国であり、その2大国を結ぶ中央アジア交易路を支配していたのが突厥帝国という遊牧帝国でありました。高句麗や新羅、百済、日本などは隋の周縁文明で、東ローマ帝国や西ヨーロッパのゲルマン諸侯の諸国などもササン朝ペルシアの周縁文明に過ぎませんでした。
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日本史についての雑文その346 古代世界史概説
唐帝国の滅亡は世界史レベルで見て、古代世界から中世世界への移行という大きな転換の一部をなす重大事件であり、それが日本における独自文明の勃興とも関係してくるのであり、そこでここではまず唐帝国の滅亡について触れる前に、それに至る古代世界全体の大まかな流れを、出来るだけシナ世界や中央アジア世界に比重を置いて概観していきたいと思います。
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日本史についての雑文その345 阿衡の紛議
872年、若き清和天皇の下で政務を取り仕切っていた太政大臣の藤原良房が没し、その年に右大臣に昇進していた養子の藤原基経にその政治的地位は引き継がれました。基経は36歳で太政官の実権を握ったことになります。
藤原基経の養父の良房の築いた政治的地位とは、天皇が祭祀を主に行い、その外戚一族である藤原氏が政務を代行するという祭政分業体制のもとで、幼帝のもとで摂政を務め、また太政大臣にオールマイティーな政務統括職としての重みを持たせたことでした。その養子の基経はその政治路線を忠実にトレースして、その路線を固めていこうとすることになりますが、同時に良房の路線への反発が大きかったこともずっと見て知っていたので、慎重にその路線を進めていくことになりました。

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日本史についての雑文その344 俘囚問題
9世紀後半の律令国家文明の変質期の時代というものが社会の土着的な基層部からの猥雑で粗野なエネルギーによる文明の作り変えの始まりの時期なのだとしたら、そのエネルギーの宗教面や文化面の表れが「御霊信仰」や「もののあはれ」精神なのであり、そして地域社会におけるそうしたエネルギーの発現が富豪層による脱税闘争の激化や群盗海賊の横行であったのでしょう。
もちろんこれらは道徳的に正しい行為とは言い難いわけですが、律令国家を成り立たせている道徳観の範疇外にある野放図なエネルギーであるからこそ、文明を作り変えていくパワーになり得るのだといえます。しかし、だからといって野放しにしておいて良いというわけでもなく、これらは実態は反国司闘争であり、れっきとした反体制的行為なのですから取り締まらなければなりませんでした。

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