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日本史についての雑文その360 世界宗教史3
紀元前1500年以降、本格的に北方からエーゲ海方面へ進出したイオニア人、アカイア人、ドーリア人らのギリシャ諸族は紀元前8世紀末までにはギリシャ南西部、エーゲ海の島々、アナトリア半島西岸に都市国家を築くようになり、古代ギリシャ文明が成立しました。ギリシャの地は農業生産性が低かったので、古代ギリシャ人たちは食糧を求めて地中海各地に殖民していき、紀元前5世紀頃までにはそれらの植民都市とギリシャ本土との間に地中海全体から黒海に広がる交易ネットワークが形成されるようになっていきました。
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日本史についての雑文その359 世界宗教史2
さて、東方のシナ世界の黄河文明は紀元前8世紀に始まる厳しい寒冷期の影響で周王朝の支配体制が崩壊し、春秋時代の戦乱が始まりました。シナにおける宗教観はもともとは多神教信仰と死者復活信仰で、人間は死ぬと霊(シナではこれを「魂」という)は天へ行き、魂(シナではこれを「魄」という)は肉体と共に地下に埋葬されるという思想でした。魄と共にある肉体は霊と合体する真の復活の日までは無意識的に生きている状態なので子孫は埋葬した先祖が墓場の中でひもじい思いをしないように飯の世話をしなければいけません。もし飯を絶やすと腹をすかせた死者は墓場の外に出てきて外を彷徨うキョンシーになってしまい、これに悪い霊がくっつくと悪鬼になってしまい乱暴狼藉を働くと信じられていたのでした。それで子孫による先祖への祭祀は絶やしてはならないものとされ、これが強調されたために、いつしか死者の復活思想のほうは後退して、先祖への祭祀のほうが重視されるようになっていき、氏族共同体による多神教崇拝と祖先祭祀がシナにおける宗教となっていました。
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日本史についての雑文その358 世界宗教史1
さて、なんだかカトリックについてボロクソに書いてしまいましたが、もちろんカトリックにも良い面もあります、などと綺麗事を言うつもりはありません。カトリックとは、少なくともあの時代においては概略ああいうものであり、あのような狂気じみたカルトでもそれはそれで信じる人にとっては救いになるのです。宗教とはそういうものでしょう。良い面があるから救われるのではなく、悪魔のような宗教でも信者にとっては救いになる場合もあるというものです。
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日本史についての雑文その357 第一回十字軍
11世紀のヨーロッパにおいて農業革命によって成立した農村に出現したのは、ゲルマン諸侯が騎士の暴力とカトリックというカルト教団の恐怖によって農民を縛って収奪を行う農奴制でした。こうしてカトリックの聖職者たちは社会の細部において密接に世俗権力と結びつき、農民から収奪を行う立場に立ったことになります。ここに至って聖職者の腐敗と堕落は頂点に達することになりました。このカトリック聖職者の堕落した姿に呆れた多くの民衆は禁欲的な指導者層に率いられたカタリ派へと走り、11世紀になるとカタリ派は急速に勢力を拡大することになります。こうした状況にカトリック側は危機感を高め、1073年にローマ教皇に就任したグレゴリウス7世は聖職者の綱紀粛正を図るべく改革に着手します。これが世に言うグレゴリウス改革です。
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日本史についての雑文その356 農奴制の成立
宋帝国に11世紀初頭に農業革命をもたらした地球温暖化は、ほぼ同じ時期にヨーロッパにおいても農業革命をもたらしていました。寒冷地であった西ヨーロッパは10世紀以前は農耕の生産性が極端に低く、牧畜主体の生活を送る地であり、農村もほとんど形成されていない有様でした。つまりアルプスの少女ハイジのような暮らしを送っていたのです。各自が柵で囲った野原にヤギなどを放し飼いにして、その傍らの小屋に住むというような生活ですから、村落というものがそもそも無いわけです。
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日本史についての雑文その355 澶淵の盟
宋帝国がシナ統一を果たした979年は、日本においては円融天皇の治世で藤原頼忠が関白を務めていました。頼忠は摂関政治の基礎を築いた忠平の孫で、頼忠の次の関白がその従兄弟で藤原道長の父の兼家で、つまりはこの時代の日本は既に摂関政治の全盛期で、地方では有力貴族の荘園がますます増え、武士が興起してきていました。宋が志向していた皇帝独裁型官僚制とは全く正反対の方向へ進んでいたといえるでしょう。また、この後の日本の指導層も宋からの珍しい舶来物には興味は示しましたが、宋の政治制度を見習おうという機運は全く生じませんでした。
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