KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


現代史についての雑文その11 トルーマンの憂鬱
1945年4月12日のルーズベルトの急死を受けて副大統領からの自動昇格で新大統領となったトルーマンは、出来るだけルーズベルトの遺した政策を引き継ごうとしました。個人的にトルーマンがルーズベルトの政策を支持していたということもあるが、これはそれ以上に全く当然のことでありました。
アメリカは日本やイギリスのような、立法府が行政府に対して常にチェック機能を果たす議会制民主主義国家ではなく、かなりの部分で行政府に自由裁量を許す大統領制であったので、大統領の政策は立法措置に関わるもの以外は基本的には議会によるチェックを必要としないのです。つまりアメリカ国民は4年間ほとんどノーチェックで行政権を専制的に行使する強大な権限を大統領に授けるのです。そのために大統領選挙は1年間かけてみっちりと行われ、アメリカ国民は日本人にはおよそ想像もつかないような情熱を傾けて選挙戦に参加して、熟慮の末、4年間を任せて本当に間違いないと思われる人物を自分達の大統領に選ぶのです。

...read more
スポンサーサイト

現代史についての雑文その10 マンハッタン計画
一般に化学反応と言われているものというのは、物質を構成する原子と原子を結合させたりその結合を切断したりすることによって生じる変化を言います。原子は原子核とその周りを回る電子とから成っており、原子と原子の結合はそれぞれの電子が結合しているのです。化学反応というのはこの電子が原子核から遊離して遣り取りされることで起きる反応だといえます。原子核と電子の間は一定のエネルギーを使って結合されているので、その結合を切断するとその結合エネルギーが放出されて熱反応を生じます。つまり化学反応はエネルギーの移動による熱放出を伴うのです。
...read more

現代史についての雑文その9  本土決戦の構想
1945年5月上旬にナチスドイツが崩壊した頃、アメリカでは第二次大戦のクライマックスとなるような重大な国際的イベントが開かれていました。例のダンバートン・オークスで提唱された国際平和維持機構を創設するための会議が4月25日からサンフランシスコで始まったのでした。この会議の成功を最も心待ちにしていたのはルーズベルトでしたが、そのルーズベルトはこの会議の開会の13日前に急死してしまっていました。
そしてこの会議が始まった時、沖縄では相変わらず血みどろの戦いが続き、既にベルリンにはソ連軍が突入して暴虐の限りを尽くしており、この会議が始まって5日目にヒトラーが自殺し、その7日後にドイツが無条件降伏しました。その後もこの会議は延々と続けられ、沖縄戦の終了が発表された翌日、6月26日にサンフランシスコのオペラハウスにおいて、現在「国際連合憲章」と日本でいわれているものが採択されて閉幕しました。

...read more

現代史についての雑文その8  ドイツ無条件降伏
辞任した小磯に代わって組閣の大命が下ったのは海軍出身の鈴木貫太郎でした。鈴木は77歳という高齢もあり、また自分は政治向きではないと自覚していたので何度も辞退しましたが天皇に「この大事の時に他に頼める人はいない」と頼み込まれて結局引き受け、1945年の4月7日に鈴木内閣が発足しました。天皇に直接頼み込まれて首相になった人物は後にも先にもこの鈴木だけです。
鈴木は海軍出身といってもかなり昔に予備役に入り長年侍従長や枢密顧問官などを務めた人物で、海軍の代弁者というよりは昭和天皇の側近グループに属する人でした。この首相就任の経緯から見ても昭和天皇の信任が非常に厚かったことが分かります。鈴木の妻は昭和天皇の幼少時の養育係であり、昭和天皇にとって鈴木は父親に類した親近感を持った存在であったと思われます。鈴木の首相就任は、憲法の規定によって政治に口出しが出来ない天皇の意思をこの非常時において内閣に色濃く反映させるために苦肉の策であったと思われます。

...read more

現代史についての雑文その7  沖縄戦始まる
硫黄島の戦いも日本本土空襲も戦史に名高い事件です。しかし硫黄島があれほどの激戦になるとは日米ともに予想はしていませんでしたし、絨毯爆撃による本土空襲はとにかくそれまでにあまり例の無い作戦であっただけに、本当に成功するのか、成功したとしてもどれほどの効果を発揮するものか今一つ分かりませんでした。
1944年の末に日米決戦の舞台フィリピンをほぼ手中に収めた米軍も、フィリピンを失った日本軍も、そこで戦争が終わらなかった以上、次の決戦の舞台を考えるしかないのであり、その決戦場は自然に日本本土となってくるのでした。当時の日米両軍の首脳部が最も重視していたのは硫黄島や本土空襲ではなく、やはり次の日本本土を舞台とした日米決戦であったのです。そういうわけで1945年1月になると、日本政府や日本軍の中ではにわかに本土決戦構想が叫ばれるようになりました。米軍のほうでも、本当にやるかどうかはとにかく、まだ戦争が終わらない限り軍を進めていかねばならないのであり、日本本土侵攻計画を立案していくようになったのでした。

...read more

現代史についての雑文その6  本土に迫る戦雲
このようにして、小磯内閣においては陸軍ルートでソ連やシナ国民党に向けて講和に関する交渉を秘かに持ちかけつつ、同時にアメリカとの交渉を実現するためにまずアメリカ軍に一撃を与える機会を窺っていくことになりました。そのためにはアメリカ軍の次の動きを予想する必要があったのですが、これは予想は簡単につきました。アメリカ軍の次の目標はまず間違いなくフィリピンでありました。
このフィリピンを決戦場としてアメリカ軍を迎え討ち、勝つとまではいかずとも万全の態勢で一撃を与え、大きな被害を受けたアメリカ軍がこれ以上日本本土に近付けば更なる被害を受けるという危惧を抱いてくれればいいのです。戦争を続ければ日本本土に部隊を近づけていかざるを得なくなります。そうなると被害が増えると予想すれば、戦争を続けるのがイヤになってくるはずです。日本の無条件降伏などということのためにアメリカの若者の血が必要以上に流れることをアメリカ国民は望まないはずです。被害が増えればアメリカは講和に傾くはずなのです。

...read more

現代史についての雑文その5  東条内閣の退陣
このように1944年7月にマリアナ諸島の要であるサイパン島は陥落し、既に6月末に激しい抵抗の末にビアク島も陥落しており、絶対国防圏の防衛ラインは突破されてしまいました。また同じ7月に莫大な犠牲者を出して退却したインパール作戦の中止が決定し、イギリス軍がビルマに侵入してきました。ここでも絶対国防圏は綻びを見せたのでした。これは明らかに戦争指導政策の失敗であり、東条内閣は責任を取らざるを得ない立場に追い込まれたのでした。特に東条は陸軍参謀総長も兼任していたので、作戦失敗の責任は重大でもあり、東条が首相兼参謀総長として戦争指導にあたり続けるのは不可能な情勢となっていきました。いや、本当は作戦失敗の責任の大部分は海軍にあるのですが、海軍の戦果の虚偽報告のおかげで、作戦失敗の責任はいつも陸軍にあるように見なされていたのです。
...read more

現代史についての雑文その4  絶対国防圏の崩壊
1943年11月には東京で大東亜会議が開かれてアジア地域の現地民の仮政府の代表者が一堂に会して大東亜共栄圏の結束が誇示されました。これは開戦以降、着々と進んでいた大東亜共栄圏建設事業の1つの大きな画期をなすものとなりましたが、この頃にはギルバート諸島とビルマにはそれぞれアメリカ軍とイギリス軍がいよいよ反転攻勢を本格的に始めようとしていたのでした。
そして同じ11月にはカイロとテヘランで相次いで連合国側の首脳会談が行われたのでした。これらは一連の会談だったが、カイロではアジア戦線、テヘランではヨーロッパ戦線を議題とし、会談参加者もルーズベルトとチャーチルに加えて、カイロにはシナ国民党総統の蒋介石、テヘランにはソ連のスターリンが参加しました。このカイロとテヘランの会談から初めてもはやドイツと日本の降伏を決定的なこととして公式に戦後処理に関連した話題が出てくるようになります。

...read more

現代史についての雑文その3  連合国の巻き返し
アメリカは参戦当初はアジア太平洋戦線よりもヨーロッパ戦線のほうに力を注ぎました。これはまずヨーロッパ戦線での連合国側の劣勢がかなり切羽詰まっていたというのが最大の理由で、更に言えば、真珠湾攻撃で太平洋艦隊が壊滅的打撃を受けてしばらくまともに機能しなかったので太平洋戦線で反攻作戦の立てようが無かったというのも理由でありました。また日本軍の実力やアジア植民地の現地民の反感などを過小評価していたため、太平洋艦隊の態勢を立て直すまでのしばらくの間は各国植民地軍だけで東南アジア地域では日本軍の攻撃を持ちこたえることは出来るだろうと楽観視していたともいえます。
...read more

現代史についての雑文その2  第二次大戦の開始
イギリスは伝統的にヨーロッパ大陸に統一した大きな勢力が現れることを阻止する戦略をとっており、1914年に勃発した第一次大戦でヨーロッパ大陸の最強国であったドイツを破って以降、ドイツの国土を分断して弱体化させてヨーロッパ統一の芽を摘むという戦略をとっていました。第一次大戦終了後の1919年にイギリスおよびその同盟国フランス主導で発足したヴェルサイユ体制とはそうしたものでありました。ドイツは巨額の賠償金を課されたため経済が破綻しハイパーインフレを起こし、ドイツ国民は塗炭の苦しみを味わうことになったのでした。このためドイツ国民は反英感情、反仏感情、反ヴェルサイユ体制感情を強く持つようになり、これが後に第二次大戦を引き起こすことに繋がります。
...read more

現代史についての雑文その1  前置き
さて、久しぶりにブログを再開しますが、「日本史についての雑文」の連載をしばし中断しまして、現代史について色々書いてみたく思います。少し時代的には飛んでしまいますが、これが一段落したら、また「日本史についての雑文」の続きを書きます。ではここから「現代史についての雑文」というタイトルでやっていきますが、まずはその前置きを少し書きます。今回、未曾有の金融危機が起きまして、これがおそらく歴史の大転換期の始まりとなるでしょう。そこで歴史の大きな流れをふまえて今後の日本を考察してみました。これがそもそも私が「日本史についての雑文」を書いている動機ですから。すると、やはり現代史について整理していかないといけないと思うようになったのです。そういうわけで、今のペースではおそらく遥か先に書くことになったであろう現代史部分を先に書くことにしました。これからしばし「現代史についての雑文」を書くことになった理由がそれで、その結論に至るまでの最初の考察部分が今回掲載する前置き部分ということになります。
...read more




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。