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日本史についての雑文その2  安土桃山時代
まぁだいたいこの1550年から1850年の時期は、ほとんど江戸時代といわれる時代なんですが、よく徳川300年などといわれますが、正確には江戸時代は1603年から1868年の間ですから、265年間でして、全然300年には足りないのです。
まぁこの1550年から1850年までの期間でいえば、そのうち江戸幕府が存在していた期間は247年間ということになります。ただ、1600年の関が原の戦いで徳川家康が勝利した時点で実質的には徳川時代は始まっていたわけですから、250年間が江戸時代といっていいでしょう。残り50年間、つまり最初の1550年から1600年までの期間が安土桃山時代といっていいでしょう。
まぁ歴史学会での区分では1573年の室町幕府滅亡を区切りとして安土桃山時代の開始とするのが定説なのですが、私はここではやはり織田信長という激動期の申し子が活動を開始した年代をもって大きな時代の区切りとしたいと思います。
この50年間の激動の時代というものは、その後の250年間の一応の安定期を形成するための産みの苦しみの期間であるように捉えられます。つまり安土桃山時代、信長と秀吉の時代はプレ江戸時代というわけです。江戸時代という1つの大きな文明サイクルを作り出すための形成期として安土桃山時代を捉えたほうが分かりやすいのではないかと思います。というか、300年周期の大きな文明サイクルの中の初期の「形成期」としてこの50年間があるのではないかと思えるのです。

この形成期の50年間も、更に細分化すれば前半25年間と後半25年間に分けることも出来るのではないでしょうか。先ほど出てきた室町幕府滅亡が1573年で、武田騎馬軍団を信長が撃破した長篠の戦いが1575年であり、このあたりで信長率いる新勢力が、室町幕府や武田家に象徴されるような旧勢力に対して完全に優位に立ちます。
それまでの25年間、つまり1550年から1575年にかけての期間というものは、信長率いる新しい文明を担う勢力は確かに現れてはいるのですが、それは強大な旧勢力と激しいせめぎ合いを続けている時期で、ともすれば潰されてしまいそうになる局面が多々あったわけですが、1575年に長篠で武田騎馬軍団を撃破して以降は、旧文明側の本丸である寺社勢力、特に本願寺勢力とは相変わらず激しいせめぎ合いは続けつつも、新文明側の優勢は動かしがたいものとなったのであって、1582年の本能寺の変の信長の死の時点では新文明の形成は既に不可逆の流れとなっていたのであり、それは秀吉に受け継がれ、新たな文明スタイルは形成されたのです。それは簡単に言えば、宗教勢力の武装解除、そして兵農分離の徹底であったといえるでしょう。
この形成期前期と形成期後期とはやや趣きが異なるのであり、歴史学会的にはこの後期のほうのみを指して安土桃山時代と言い、前期のほうは戦国時代最末期とでも言うのですが、この前期と後期には連続性が確実に認められるのであって、私は一つの「形成期」という期間の前期後期として扱いたいと思います。

形成期前期は、新しい文明が勃興してくる時期で、まだ旧文明側の力が強くて、激しいせめぎ合いが展開される時期ということになります。場合によっては動乱の時代になるともいえるでしょう。
この江戸文明サイクル300年の形成期前期である1550年?1575年という時代を象徴する人物を一人挙げるとするなら、それは間違いなく織田信長その人であり、もしこの時代を描く物語を書くとしたなら、それはやはり信長を主人公にするのが最も面白いということになります。そしてこの信長の時代は、まさに動乱の時代となりました。
信長という人は相当面白い人物で、1575年から1582年にかけての信長も十分に興味深いのですが、やはり信長が最も魅力的だった時期は、この形成期前期のほうであったといえるでしょう。むしろ形成期後期を象徴する人物は豊臣秀吉のほうであったといえるでしょう。
正確には1568年の信長入京をもって信長政権の開始とし、1582年の本能寺の変をもって信長政権の終わりとするならば、信長政権は14年間であり、本能寺の変後の山崎の戦いをもって秀吉政権の開始とするならば、1598年の秀吉の死まで、秀吉政権は16年間ということになりますが、ここではこの形成期という50年間の前期と後期をそれぞれ最も最前線で取り組んだ人物としての信長と秀吉という捉え方をしています。
形成期後期は、新しい文明が旧文明側とせめぎ合いつつも次第にそれを圧倒していき、着々と新しい文明の形を作り上げていく時期ということになります。まぁこの時代も場合によっては動乱の時代となることもあります。
1575年?1600年のこの時期を象徴する人物といえばやはり羽柴秀吉、つまり豊臣秀吉ということになりましょう。あるいは信長の目指していた文明の形と、実際に秀吉が形成した文明の形とは若干違っていたのかもしれませんが、それは結局、日本の歴史の意思が選んだのが信長ではなく秀吉であったということです。ただ、秀吉のプランというものは基本的には信長プランに則ったものだったようです。やや現実的な修正を加えたようですが。

そもそも何故、この時、信長や秀吉らが現れて新文明を形成していかねばならなかったのかというと、日本という国家が存立の危機に直面していたからです。文明の形成期の初期には国家は危機に直面するのです。いや、国家が危機に直面するから新文明の形成期が始まるのでしょう。
その危機とは対外的危機であるかもしれませんし、国家体制そのものの崩壊である場合もあります。この信長の時代はまさに後者の場合で、この形成期のはじめ、1550年ぐらいの日本は戦国時代の真っ只中で、まさに無政府状態で、国家の形をなしていませんでした。
戦国時代だからといって戦国大名だけが戦っていたわけではありません。むしろ民衆同士が村同士や町同士、宗教の宗派同士で徒党を組んで殺しあっていたのが戦国時代の実相です。
ろくに農作業もせずに戦争ばかりやっていたわけですから、生産性は極めて低く、物資は不足して国中が大変貧しかったのです。物資不足で労働力も不足しており、それを補うために略奪や人攫いなども横行し、人身売買も盛んでした。
そういった無法行為を取り締まる警察力などありませんので庶民も自分たちで自衛のために武装しなければいけなかったのです。それどころか戦国大名による戦の後などは、大名の配下の武将たちや、それに便乗した一般人たちによって、負けた側は村を略奪され女子供はみんな攫われて売り飛ばされました。
まぁそういう時代であったわけで、そういう国家の危機を回避するために、信長や秀吉のような先駆者たちが新しい文明を打ち立てる必要があったわけなのです。形成期というのはそういう時代なのであり、特に形成期前期は危機の深刻度が強い時代です。
信長や秀吉のような先駆者たちが出てくる背景には、その危機の時代における肯定的な要素ももちろんあります。この時代においては戦国大名や自治農村あたりがそうであるし、貨幣経済の浸透も先駆者登場の素因となりました。
ただ、先駆者にはそれだけに止まらない先駆者オリジナルのアイデアや強みというものが必ずあるものなのです。それが信長の場合、兵農分離によって常備軍を編成し、商業と貿易を振興し富を蓄えて常備軍の大軍団を組織して、それを一年中全国的に機動運用し、他の戦国大名や一揆勢力の農兵を圧倒して天下統一を成し遂げるというアイデアだったのです。
そしてそれは秀吉に受け継がれて、とうとうこの形成期の終わりには、形成期初期に存在していた国家的危機は克服されたのです。形成期という時代は、危機克服の時代ともいえるでしょう。
そうして文明は次の確立期において、本格的に建設されていくことになるのです。
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モナミ

明日病院に行ってこようと思います。
お待ちぃ!【2006/10/17 06:42】






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