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日本史についての雑文その3  天下統一
こうして信長と秀吉が作り上げた新しい文明の形というものが、1600年の関が原の戦い以降は徳川家康の手に受け継がれます。ここから、せっかく形成した文明スタイルをしっかり確立し定着させていく地道な作業の時期に入ります。兵農分離という文明スタイルがそもそも安定と平和を志向したものでしたから、その文明スタイルが定着したこの時代から、途端に華々しい戦などは無くなります。
このあたり、三傑の性格分類は非常に明確で、まさに適材適所を得ていて面白いのですが、破壊の権化のような革命家にして天才的夢想家の織田信長が形成期前期を担当し、派手好きな絶対権力者にして陽気なプランナーであった豊臣秀吉が形成期後期を担当し、そして老獪そのもので寸分の隙の無い守成の政治家である徳川家康が、この文明の確立期の前期を担当することになるのです。
もちろんこの性格分類は相当ステレオタイプなもので、実際はこんな単純なものではなく例えば秀吉にも革命家的な資質もあったであろうし、信長にも周到な計算高さもあったでありましょう。ただここでは話の行きがかり上、単純類型化しているだけのことです。また、三傑の細かな事跡については、あまりにも有名であり、またあまりにも多岐に渉りすぎているため、ここでは詳細は割愛させていただいております。
厳密に言えば家康は1616年に亡くなりますし、1605年以降は形式上は隠居状態で実務面は二代将軍の徳川秀忠とそのブレーン達が担当していましたから、家康および秀忠のタッグがこの確立期前期を象徴する人物ということになるでしょう。1623年まで将軍を務め、1629年の紫衣事件ぐらいまで実権を振るった徳川秀忠も政治的にはほぼ家康と同じ性格の政治家でした。
ちなみに、正確には、家康と秀忠のそれぞれの大御所政治の時代も考慮に入れると、実質的に家康が政権を担当したのは1600年から1616年の16年間ということになり、秀忠が政権を担当したのは1616年から1632年の秀忠の死までの16年間ということになります。

さて、この1600年から1625年ぐらいの時期のこの確立期前期が退屈極まりない時期であるかというと決してそんなことはなく、新文明の建設のために矢継ぎ早に施策を打ち出していく非常に密度の濃い期間であり、まさに創業の面白みが凝縮された、政治的には最高にエキサイティングな時期だといえるでしょう。
この確立期前期は、新しい文明が最も強力な推進力を発揮して時代を築いていく時期であり、最も勢いがあり輝いている時代だといっていいでしょう。ただその成果が得られるのはもう少し先のことで、確立期後期や修正期のこととなります。
確立期前期が建設の時代だとするならば、確立期後期は建設ラッシュが一段落ついて少し落ち着いてその収穫を享受することで新文明が完全に定着していく時代だといえるでしょう。やはり成果を享受してこそ新文明の有難味も多くの人に理解されるわけであり、そうしてやっと新文明が完全に定着するといえるでしょう。

具体的には、1600年から1650年の確立期においては幕府は民衆に重税を課してその税収を五街道などのインフラ整備や新田開発に充てたのであり、それらの効果がぼちぼち出てきて国が豊かになってきたのが、この確立期後期の1625年から1650年の時代、元号でいうと寛永の頃ということになります。
信長以前の戦国の頃というのは庶民は寺社や土豪などのあちこちの封建領主という名の利権団体が各所に勝手に作った関所や座などから税金を取られまくっており、しかもその税金はほとんど彼ら利権団体が巻き起こす内戦の戦費として消費されてしまっていたのであって、非効率なことこの上なかったのです。こういう時代では、地道に働く者よりは結局は暴力を振るい殺したり盗んだりする者が幅をきかす世の中となるのです。
こんなことをしているよりも、圧倒的な武力によって封建領主や地侍や民衆による内戦に終止符を打ち、支配下地域の細かな関所などを撤廃して一律に税を取り、それをインフラ整備に充てて国を富ませるほうが効率的なのです。これだけ激しく相争うということは、豊かになりたいというエネルギーが強いということであり、それを全て建設的な方向に向けることが出来れば、きっと大きな発展を生むはずなのです。
こうした動きの萌芽は各地の戦国大名の領国において既に見られ、それが見られたからこそ、それを既存の「守護大名」とは区別して「戦国大名」と呼んだのですが、これを全国レベルで達成しようと構想したところが織田信長の異色なところだったのです。
それがつまり「天下統一」というものだったのですが、実際、信長以外の戦国大名で天下統一を構想した者はいません。単に足利将軍の継嗣を立てて入京するとか、足利氏に取って代わって幕府を開くなどというレベルではなく、各戦国大名の領国において生じつつあったこの根本的な地殻変動を全国規模に展開しようという、国家改造の雄大な構想です。ここまで大それたことを構想したのは信長一人だけだったといっていいでしょう。
信長はこれを実現するために他の戦国大名のなし得なかった画期的なことを実現しています。それが兵農分離で、これにより常時農作業から解放された圧倒的な武力を一年中機動的に運用できるようになりました。これは天下統一を達成するための不可欠の圧倒的武力であると同時に、武士と土地とを切り離すことによって従来の封建領主の存立基盤を崩し、支配下地域の一大構造改革を進めていくための手段としても使われたのです。
これによって信長の支配下地域では内戦が起きなくなり、関所や座が撤廃され、人々は自由に往来し商売をして、土地から切り離された武士は城下町を形成し、城下町を中心にインフラが整備され、領国は豊かになっていきました。
そのようにして交易を盛んにして、更に貿易の利益も独占し、そうして蓄えた富によって、農村から切り離した常備軍の大量の兵員を養ったり、武器を大量に調達したのです。特に信長は鉄砲を多数揃えましたが、鉄砲というものは訓練すれば誰でも使いこなせたので、とにかく金さえ持っていれば大量の鉄砲と鉄砲足軽を揃えることが出来たのであって、そうした物量作戦が信長軍団の強みとなったのです。
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