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日本史についての雑文その4  兵農分離
そもそも戦国期に始まった地殻変動とはどういうものだったのかというと、旧来の封建領主の支配地域において自治を求める農民の動きが出てきたことがその根本でした。封建領主からの自立と自治を求める農民の動きに地侍が乗っかって一揆を形成し、それが拡大し、また再編成されて戦国大名の家臣団が形成されたのです。戦国大名と自治農民とは双子の関係にあり、共に新文明の担い手として立ち現れてきたのです。
彼ら新文明の担い手は旧文明側と激しく争い合いながら成長し、信長も秀吉も家康もまたその一人であったのです。しかし単に戦国大名が旧文明に勝利しても、新たな利権団体を形成するだけのことであり、単に支配者が変わるだけで質的変化は起きません。ここで質的変化を起こす革命児としての信長が現れる必要があったのだといえます。
信長は単に常時動かせる軍団が欲しかっただけなのかもしれませんが、兵農分離を実施することで支配下の武士を農村から切り離しました。これにより武士は経済的に弱体化され、経済的には信長に従属するようになり、その分忠誠度が上がったのです。つまり信長は武士を農村から切り離して経済的に弱体化させることによって手懐けて、その軍事力のみを純粋に特化させて自己の軍事力の強大化を図ったのです。
そして武士を切り離した農村はどうしたのかというと、これは信長の次の秀吉の時代に完成したことですが、完全に農民の自治に委ねたのです。そのために検地を行い土地の所有者は封建領主ではなく、実際に田畑を耕す農民自身であるということにしたのです。さらに農村からは武器を取り上げて変な輩が勝手に支配権を振るったり出来ないようにしました。これらによって余計な中間搾取者や武器を持って暴れる者もいなくなり、農村は平和で豊かになったのです。
このように、土地を取り上げた武士を都市部に集め、武器を取り上げた農民による自治に農村は委ねるという政策が兵農分離というものであり、これは戦国期に生まれてきた新文明の担い手である新興武士と自治農民という2つの勢力がもともと一体化していたものを分断して別々の形で統治しようというアイデアで、これにより戦国時代を平和裏に収拾、つまり天下統一というものが達成されたわけで、これは全くの信長の独創的アイデアだったといえます。
この信長の兵農分離政策の延長線上に江戸幕府も存在しているのであり、江戸幕府自身の出自も戦国期のこうした自治農村における農民や地侍による自治組織にあるのです。それゆえ、幕府の役職である老中や若年寄や目付などは、戦国期の自治農村の自治組織の役職名そのままなのであります。こういう自治組織を構成していた武士達が兵農分離で江戸へ連れてこられて幕府組織を形成したのであり、その際にもともと自治農村で名乗っていた役職名をそのまま名乗っただけのことなのです。
つまり、新文明である江戸時代というものは、戦国期の自治農村を子宮として生まれてきたのであり、江戸時代における農村も、戦国期の自治農村の伝統を引くものであり、武士を排除したもっと純粋な形での自治農村であったともいえます。ある意味、江戸時代の農村は武士階級にとっては、ある意味では幕府にとっても、アンタッチャブルな領域であったのかもしれません。これが後に社会の変化につれて、様々な軋轢を生み出していくようになり、江戸時代後期には社会変動に繋がっていくのです。

国家というものが存在するところには必ず政府というものが存在し、政府というものは権力を必ず伴います。そして権力には武力というものが必須なのです。日本という国家が実質的に誕生したのは7世紀頃ですが、この時に統一権力が誕生し、その武力として国軍というものが出来たのです。これが律令国家の誕生なのですが、このような中央集権的国家が成立した背景には対外的な緊張関係というものがあり、それが薄らぐとほどなく律令国家は崩壊し、同時に国軍も解体していきました。何故そうなったのかというと、日本という国はもともと分権的傾向が強いからです。
その後は形ばかりの中央集権体制は維持されましたが、それを裏付ける中央政府の武力というものは存在せず、各地の秩序を維持したのは武装ボランティアの農民兵、つまり私兵の集団でした。これが10世紀における武士階級の誕生です。
何故そのような無力な中央政府が生き永らえることが出来たのかは非常に興味深い謎ですが、それについてはまた後で考察してみます。とにかくこうした武士集団がそれぞれのテリトリーの秩序維持をしていたのがその後の歴史です。それは当初はあくまで独立傭兵部隊のような存在で、中央や地方の政府権力に仕える立場でした。
ところが13世紀以降に武士階級が大きな権力を握るようになっていくと、次第に武士階級自身が変質していくようになり、旧来の権力構造を解体しながら互いに権力争いを繰り広げるようになっていきました。そうしてとうとう15世紀には戦国時代に突入し、さすがに中央政府もほとんど解体してしまい、国家崩壊の瀬戸際にまで来てしまい、ここにきて武士階級の存在は日本という国家にとって厄介なものになってきました。
そうした混乱を収拾する策として兵農分離によって武士を経済的に弱体化して権力の支配下に置き、軍事力を権力の元に一元管理するという、新たな形の中央集権体制を構想したのが16世紀に出現した信長であり、これが江戸幕府の体制に引き継がれます。但しこれは農村自治を前提とした変則的な中央集権体制で、むしろ武士を土地から隔離することに主眼が置かれていたともいえます。
つまり、戦国の世に戻さないためには武士階級はこうして権力の手元に隔離しておかねばいけないわけですが、そのためには権力、つまり幕府が武士の生活の面倒を見なければいけないわけです。ところがこの後、経済が成長するにつれて武士階級の存在が幕府財政を悪化させ、ひいては経済成長の足を引っ張ることになってくるのです。
このように江戸幕府体制というものは、武士階級という厄介者を隔離するために存在していたようなものであり、江戸時代を通じてその武士階級自体の存在矛盾がどんどん増大していき、最後はとうとうその矛盾によって潰れていったのだといえます。しかし同時に、江戸時代を通して武士階級の無害化が進行していき、19世紀の江戸時代終了と同時に、大きな混乱もなく武士階級を消滅させて、真の意味での中央集権国家と国民軍の創設を可能としたのです。そういう意味で江戸時代という時代は必要であったのだし、そうした武士階級という必要悪の解消過程として江戸時代を見る必要もあるかもしれません。
もちろん、そうした江戸時代へと繋がる流れを切り開いた信長がそこまで見通していたわけではありません。信長は単に兵農分離によって経済力も軍事力も自分の権力の元に集中管理して、それによって領国を広げて富強化しようと構想していただけのことです。いや、それだけでも相当すごいのですが。
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