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日本史についての雑文その5  絶対王政
こうした兵農分離政策を基本とした領国富強化計画を、おそらく信長は1550年頃、元服した頃から構想していたのだと思われます。そしてそれが全国規模で実現し、その成果の果実が収穫できたのが秀吉政権や家康政権、江戸幕府初期を経て、1650年あたり、確立期の終わりあたりであったのであり、100年経って若き日の信長の構想は現実化したのだといえます。
もちろん、1550年頃の信長の構想は漠然としたものであったであろうし、それは他の戦国大名の思考範囲を抜け出たものではなかったかもしれません。ただ1560年の桶狭間の戦い以降の信長は明らかにそのベクトルを京へ向けており、この領国富強化計画は他国を攻略して征服していくための富国強兵政策として位置付けられていくのです。このあたりの方針の明確性が信長の独特なところです。
つまり支配下地域の内戦を集結させて平和と安定をもたらし領国を富ませるといったからといって、別に信長が平和主義者というわけではなく、他国を攻め取るための富国強兵政策に過ぎないわけです。そしてこれが全国統一が完了したからといって絶対平和が到来するなどということはなく、信長は全国統一の後は日本の国力を富ませてその余力で海外征服を構想していたわけですから、これに関しては江戸時代の対外平和政策とは相当大きな違いがあります。
まぁこれに関しては、信長構想の忠実な継承者であった秀吉の朝鮮征服が失敗に終わり、その反動で内向きの政策をとった家康の政策が後世になって「祖法」として絶対視されてしまったことと、江戸時代初期の対外対内情勢への現実的選択の結果という、偶然の産物である要素が強く、この封建領主の弱体化による統一支配によって国家を富裕化する政策の帰結が対外膨張政策ではなく内向きな発展政策に繋がったのは、本来はどちらかというと可能性の低いほうの選択肢だったのではないかと思います。そういう点こそ、日本の江戸時代というものの独特さなのだと思いますが、普通はこういう場合、対外膨張政策を選択する場合が多いのです。
また、結果的に内向き発展政策を選択することになったからといって徳川家康の創始した江戸幕府が平和主義的な政権であったかというと、当初は全くそんなことはなかったわけで、これもまた純粋な軍事政権であったのであり、その整備した制度もインフラも当初は全て軍事目的優先のものであり、後に平和的な利用に転換しただけであり、その当初の政策も典型的な富国強兵政策でありました。
秀吉の外征が失敗したことによって天下統一後の対外軍事行動という選択肢が無くなり、かといって国内での戦乱も無くなり、というか、無くさなければいけないわけで、そうなってくると次第に軍団が不要になってきます。しかし武士階級は幕府の支配下に置いておかなければいけないわけで、そこで軍団を構成していた武士を行政官に配置転換していくことになったのです。
家康がこれをやったことによって国内の戦乱は最終的に封じることが出来たのです。これは確立期においては完全には達成されませんでしたが、次の修正期において完全に達成されることになりました。
信長・秀吉による兵農分離が第一段階、家康による軍団解体が第二段階で、泰平の世が到来することになったのです。
そして幕末にこれと逆の現象が起きるのです。まず武士が行政官から戦闘者に戻り、そして幕藩体制が崩れて武士が俸禄米を貰えなくなり土地や生産に関与するようになったのです。そうなると武士は武士を辞めない限り、外征か内戦を望むしかなくなります。明治初期の征韓論や西南戦争などはそういう脈絡で起きたのです。そして結局、武士はみんな武士であることを辞めたのでした。

さて、この信長や秀吉のやったような、国内の封建領主を弱体化して臣下とし、国家を統一的に支配して富国強兵に努め、統一軍を駆使して対外膨張政策を採るということになると、これは近代ヨーロッパ初頭の絶対王政を彷彿とさせます。
もちろんヨーロッパで絶対王政が出現するのは1648年のウェストファリア条約締結によって三十年戦争が終結して以降のことですから、信長がそれをモデルにしたということはあり得ないのであって、全くの独創であったということになります。しいて言えば秦の始皇帝の事跡に似ていないこともないですが、そもそも尾張のうつけ者といわれていた若き日の信長がそんな事跡に通じていたとは到底思えません。
ヨーロッパ近代の初期の形態であった絶対王政に似たものが、ほぼ100年先んじて日本で信長によって構想され、実現していったのです。となると、この信長から始まり江戸時代へと続いていくこの時代の日本というものは、前近代的なものではなく、むしろこれこそ近代に比定されるべきものなのではないでしょうか。まぁ西洋の歴史区分法を日本の歴史に当てはめること自体がそれほど意味のあることではありませんので、あまり深入りはしませんが。
とにかく、封建領主といういかにも「中世」的なものを廃して作られた新しい文明は非常に「近代」的なものだったといっていいでしょう。それが1550年頃に若き織田信長によって構想され、およそ100年後の1650年頃にはひとまず完成し成果も十分に上がったということになります。
このように、この信長と秀吉によって形成され、家康と秀忠によって確立されつつある新しい文明は非常に近代的性格を有したものだったわけですが、かといってこれを「近代文明」と呼称するのも、明治以降の文明サイクルと紛らわしくなってしまいます。「江戸文明」でもいいのですが、まぁ適当に呼称すれば、この文明サイクルの間の国家の特徴としては、幕府と藩という単位で成り立っていた国家であったということで、「幕藩国家文明」とでも言えばいいでしょう。
まぁ要するに、この新しい文明の形成期とか確立期とか今まで言ってきたものは、「幕藩国家の形成期」「幕藩国家の確立期」と呼称すればいいということです。

形成期において新しい文明を担う勢力は、この幕藩国家の例においてはその背景に自治農村や戦国大名のような新興勢力層というものを持ってはいますが、それでも信長や秀吉などはそれらからも超越した先進性を持っていた一部の先駆者だったのです。
形成期前期とは、そうした新興階級が勢力を広げつつ、同時にその中の更に一部の際立った先駆者たちが先頭を突っ走るという時代であり、形成期後期になると、その先駆者たちの先進性に新興階級の他の者達が追いついてきて、新しい文明スタイルが広く浸透していくことになります。
そうして確立期前期に入ると、その新しい文明スタイルでもって新興階級の者達が中心になって社会全体に働きかけて、本格的な新文明構築がなされていくことになるのです。ところが確立期の後期になってくると、それがやや行き過ぎて少々弊害が生じてくることになります。
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