KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その6  武断統治
1625年から1650年に至る25年間はこの幕藩国家の確立期の後期にあたり、徳川三代将軍家光の時代です。家光は1623年に将軍に就任し、実権を振るうようになったのは1632年の父であり大御所であった秀忠の死後であり、1651年の彼本人の死まで28年間将軍を務めました。実質的に権力を振るった期間は19年間というところでしょうか。
この時代は新しい文明、すなわち幕藩国家の建設がほぼ完了し、その成果も上がり、新しい文明が定着した時代です。ではこの時代を象徴する人物が徳川家光かというと、それはそうではなく、彼は辻斬りなどを楽しむ愚劣な人物であったらしく、まぁ、そんな人間でも将軍が務まるほどに世の中が安定したという事実を象徴する程度の意味合いはあるという、そういう人です。

そうした辻斬り行為は、別に将軍が率先して行っていたからというわけでもないのですが、関が原や大阪の陣以降もよく起こっていたようで、この寛永の頃もよくあったようです。逆に言えば、戦国の遺風を受け継ぐようなタイプの人間にはもう辻斬りぐらいしか欲求不満の捌け口が無くなってきていたともいえます。
内戦が終結し世の中が安定し生産性が向上して、その余剰資金が戦費に向かわずに内需拡大の方向に向いた結果、戦国期に戦闘行為に従事して生計を立てていたような人間が不要になってきたのです。
それは別に武士だけに限らず、一般民衆もまた武器をもって戦闘や略奪に従事していたのが戦国時代であり、秀吉の刀狩で武装解除されてからまだ殆ど時間が経っていなかったのですから、そういう殺伐とした人間が世の中に大量にあぶれていたのがこの江戸時代初期の幕藩国家確立期の実相であったのです。そしてそれは新文明においては全く不要の存在であったので、この新文明の確立期を通して、次第に淘汰されて消えていったのです。
そうした消えようとする戦国、つまり旧文明の象徴のような存在がこの時代における旗本奴や町奴のごとき無法者たちのような物であり、また大久保彦左衛門のような旧来の三河武士的な人物であったといえるでしょう。
こうした消え行く旧文明の遺風を尻目に時代の大勢は安定成長へのテイクオフに向けて進んでいったのであって、庶民は生産性の向上に努め、武士はひたすら官僚化していきました。時代の主役はこうした群像たちであったといえるでしょう。偉大な英傑を必要としない時代に入ったともいえます。

旧文明の殺伐とした遺風の代表選手といえば、それはもともと戦国大名であった国持大名たちでした。彼らやその周囲を固めるこれまた殺伐とした家臣たちを統制していくためには甘い顔をしていては無理ですから、この確立期においては幕府は大名たちに大変厳しい武断統治で臨みました。特に1625年から1650年の確立期後期には特に苛烈な統治となりました。
そもそも信長が敷いたこの権力を自己に集中させていく路線を突き詰めていくと、全ての国持大名を廃して全国を統一権力の直轄領として代官を置いて支配していくという中央集権体制を樹立する路線に至ります。信長や秀吉はいずれそうするつもりで単に寿命のほうが先にやってきたのでしょう。
それを引き継いだ家康も基本的にはそうするつもりだったと思われます。関が原の戦いの後は徳川将軍家の直轄領、いわゆる天領は飛躍的に増えました。それでも1615年の大阪夏の陣が終わるまでは、関が原以後に徳川に従った外様大名も優遇していましたが、大阪夏の陣で豊臣氏を滅ぼして以降は武家諸法度を制定して大名統制を厳しくして外様大名を圧迫して潰し始めました。
これら外様大名はもともと徳川氏の臣下ではなかったわけですから、豊臣氏を滅ぼして後顧の憂いが無くなったら潰されるのは当然としても、家康や秀忠は、もともと徳川氏の臣下であった譜代大名まで取り潰し始めたのです。これはまさに徳川将軍家を中心とした一極支配体制構築へ向けた動きであったのではないでしょうか。

そして、この確立期後期に家光の時代になってからは、武家諸法度が更に厳しく改められ、将軍直轄の官僚機構は整備されて中央権力が強化され、それら中央官僚によってますます大名への圧迫は強まりました。
こうした幕府による大名に対する武断統治によって多くの大名が取り潰されると多くの武士が浪人となって世の中に溢れるわけで、それが治安悪化の原因となっていったのです。
こうなってくると本末転倒なのでありまして、そもそも中央集権化は、平和をもたらして経済発展を達成するという目的のための手段に過ぎないのです。しかしこれでは中央集権化のほうが目的化してしまって、かえってそのために庶民の生活の平和が脅かされて経済発展の阻害要因になってしまっているのです。
また、幕藩国家は武士階級を土地から切り離して俸禄米で飼い慣らしておかなければいけないという宿命を背負っているのですが、大名を取り潰して幕府機構だけにした場合、やはり多くの武士が余ってしまい勝手に動き回ることになってしまい社会不安の原因になってしまうのです。
形成期に押し進められた中央集権化への流れにおける目的と手段を取り違えたこうした行き過ぎがこの確立期後期に生じてきて、確立期の末期のほうにはそれは弊害となって現れてくるようになったのです。そしてそれは、形成期、それも特に前期の気風、つまり戦国の下克上の気風を社会に再び甦らせようという逸脱をも生み出すことにもなったのです。
それが1651年の由比正雪の乱であったのであり、この事件をきっかけに、こうした確立期後期における行き過ぎは修正されていくことになるのです。そういうわけで、ここで時代は移り変わり、ここから幕藩国家の修正期に入ります。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。