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日本史についての雑文その7  旧文明の解消
この幕藩国家確立期の後期を見てみると、一方では新文明の成果を享受し生き生きと立ち働く庶民や松平信綱に代表されるような新官僚としての武士の姿が見られ、一方では消え行く旧文明の遺風としての旗本奴や町奴、大久保彦左衛門のような古いタイプの武士、幕府による武断統治とあぶれる浪人の群れなどが見られます。
こうした光と影のコントラストがこの時代の特徴であり、こうした光と影を織り成す様々な群像がこの時代の主役たちであったといえるでしょう。そして、こうしたコントラストが強すぎる故に、この確立期後期という時代は、特にその末期においてコントラストがより強くなった時に、一瞬不安定になるのだといえるでしょう。その揺らぎが次の時代への変化に繋がるのです。

こうして見ると、新文明の建設が進行する確立期においては、それとクロスオーバーする形で旧文明の解消が進行していくということが分かります。新文明の確立期は裏返せば旧文明の解消期とイコール関係にあるというわけです。新文明を確立する時代のパワーは、旧文明に対しては解消力として作用するともいえるでしょう。
この新文明の確立期と同時進行する旧文明の解消期もまた、前期と後期に分かれているのであり、この場合、1600年から1625年を解消期前期とし、1625年から1650年を解消期後期とすることになります。
これらを比べてみると、やはり家康や秀忠の前期のほうが旧文明、つまり戦国の遺風がより強く残っており、家光の後期のほうがより戦国の遺風が薄らいでいるのが分かります。まぁ文明の解消過程なのですから当たり前なのですが。
言ってみれば、解消期というものは旧文明が時代を動かす力を完全に喪失した後の時代で、その残存した影響力もが消え去っていく過程の時代ということになるのでしょうが、その前期はその影響力が最大値から次第に減少して中間値にまで達する時代、そして後期はその影響力がゼロに向かって急降下していく時代であるといえるでしょう。
やはり真田幸村、福島正則、黒田長政らが健在で宮本武蔵や佐々木小次郎が暴れまわっていた解消期前期と、旗本奴や町奴、柳生十兵衛や荒木又右エ門の時代である解消期後期とでは質やレベルの違いがあるといえるでしょう。ちなみに武蔵の死はこの解消期後期の寛永年間であり、柳生十兵衛の死が解消期最末期の1650年というのも象徴的といえるでしょう。
もちろんこの解消期には既に封建領主が無力化されていますから、実際に彼ら荒くれ者どもが戦争を自在に起こすことは出来なくなっています。だから武蔵も小次郎もあちこちで決闘をして剣名を上げるのに四苦八苦しているわけですが、それでもまだ人殺しをして士官できる可能性があっただけ前期はマシというもので、後期になるともうそんなこと自体ほとんど不可能で、この時代の荒くれ者共の行動はほとんど単なる憂さ晴らしの類ばかりになっています。
ただ先述のように、解消期後期の末頃になってくると、新文明の建設パワーが行き過ぎて目的と手段の混同が起こりある種の混乱が生じて、その際にこの旧文明側の遺風が甦ってちょっとした逸脱を起こすことはあります。ただ、それによって旧文明はとうとう最後のパワーを使い果たし、完全に影響力を消失することになり、その後はそのエッセンスが新文明の中に吸収消化されていくことになるのです。

では、封建領主が無力化されてしまった過程はどこにあたるのかというと、それは新文明の形成期にクロスオーバーしてそういった過程が進行していったのだと思われます。
これは旧文明が時代の推進力を喪失していった過程であり、旧文明の衰退の過程であるので、旧文明の衰退期とでもいえばいいでしょう。新文明の形成期が旧文明の衰退期と重なっているというわけです。
言い換えると、新文明が成長していくことによって、旧文明からどんどん活力を奪っていったのであり、その前期と後期の中間点において、その優劣関係がちょうど逆転したのだといえるでしょう。
この時代において具体的に言えば、1550年から1575年が旧文明の衰退期の前期で、この時代においてはまだ信長ら新興勢力はまだ劣位にあり、まだまだ旧文明側、すなわち寺社などの封建領主側にも勝ち目はあったのですが、1575年の長篠の戦い以降は旧文明側には勝ち目は無くなり、1575年から1600年の後期においてはひたすら時代を動かす力を失っていく過程となったのでした。
具体的に言えばそれは土地所有に関する問題であり、封建領主が土地の所有者であった時代が中世といわれる旧文明以前の時代であったのですが、それが完全に解体されたのがこの衰退期後期ということになるでしょう。
それは秀吉の治世の1582年から1598年の期間を通して継続して実施された、いわゆる太閤検地という土地所有制度の大改革によって成し遂げられたのです。すなわち太閤検地によって、土地の所有者は実際にその土地を耕作している農民だと規定されたのです。これによって封建制度は崩壊したのです。
このように旧文明の衰退期の前期とは、文明が統制力を失い混乱して衰退していく時代であると言えるでしょう。そしてまた衰退期の後期とは、文明が時代への対応力を全く失っていく課程の時代なのだと言えるでしょう。

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