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日本史についての雑文その9  黒死病
そもそも幕末の、文明先進国である西欧と後進国である日本という構図が刷り込まれているから、鎖国などして西欧と関係を絶っていたのは誤りだったのだというような観念が生まれるのでしょうが、19世紀半ばの幕末と、この17世紀前半の家光の時代とでは西欧諸国そのものの状況が全く違うのですから、そもそも比較の対象にするのがおかしいのです。
ヨーロッパが世界の先進地域であったのは紀元前1世紀末にローマ帝国が成立して以降、5世紀に西ローマ帝国が滅びるまでの期間であり、その後はひたすら分裂し混乱し続けたのがヨーロッパの歴史でした。
西ローマ帝国滅亡後は異民族の絶え間ない侵入や略奪によって荒れ果て、7世紀には成立したばかりのイスラム帝国からの攻撃も受け、8世紀にはイベリア半島はイスラム勢力に占領されてしまい、イベリア半島の完全回復は15世紀末までかかってしまう有様でした。
9世紀から10世紀にかけてはノルマン人、つまりバイキングの侵入によってヨーロッパ全土は荒廃します。こうした中、封建制度が成立し浸透していきますが、同時に教会権力が強くなっていき、いよいよ暗黒の中世が本格化していきます。
教会権力の暴走により、11世紀末から十字軍の遠征が開始され、十字軍がイスラム帝国支配地域でイスラム教徒を虐殺するのみならず、ヨーロッパ各地においてもこの後何世紀にもわたって宗教的異端者を迫害虐殺し続けます。いわゆる異端裁判や魔女裁判による火あぶり処刑などが横行することになるのです。

ヨーロッパがこうした停滞と愚行を繰り返している間、世界の中心であったのはイスラム世界と、大唐帝国や宋帝国を取り巻く東アジア世界でありました。そしてそれらを統一して初めて世界帝国を築いたのが13世紀のモンゴル帝国であり、日本もヨーロッパもこの時モンゴル帝国の攻撃を受けましたが、なんとか撃退しています。日本はこの時、鎌倉時代後期ということになります。
モンゴル帝国の皇帝フビライに仕えたベネチアの商人マルコポーロが「東方見聞録」を書いたのが1299年のことで、これに描かれた「黄金の国ジパング」が200年後にコロンブスらを動かし大航海時代の幕を開ける要因の一つとなったのです。
そもそも何故ベネチアの商人がフビライの側にいたのかがポイントであって、モンゴル帝国は商業を保護し、北アジアで発達していた資本主義経済をヨーロッパまで伝え、これにより13世紀にはベネチアなどで商業が発達したのです。ただモンゴル帝国はこうした正の部分だけでなく負の部分も世界中に伝えました。それが黒死病です。

黒死病、つまり今で言うペストの起源は、1287年にモンゴル軍が雲南地方に侵入した際に風土病に感染したのがきっかけでした。ちなみにモンゴル軍の二度目の日本侵攻の失敗が1281年のことですから、その6年後の出来事であったということになります。
その後、黒死病はモンゴル帝国の版図内でじわじわ広がり続け、1346年にクリミア半島においてモンゴル軍に包囲されたイタリア商人に感染し、その結果、1347年から1351年にかけてヨーロッパにおいて黒死病は大流行し人口の3分の1を殺しました。これによりこの後150年間ヨーロッパは慢性的な人口不足に悩み、労働力不足によって封建制の解体が進行していったのです。これが17世紀に絶対王政を生み出し近代の幕を開ける下地ともなったのです。
ちなみに黒死病はモンゴル支配下にあったシナでも1353年から翌年にかけて大流行し人口の3分の2を殺し、これにより社会は動揺しシナ人の叛乱が起こり、1368年に明帝国が興り、モンゴル軍はシナから追い出され北方に退きました。
日本における黒死病の記録は定かではありませんが、日本でも14世紀半ば以降はどうやら労働力不足が慢性化していたようで、荘園制の解体がこの頃から始まっていますし、倭寇の活動が活発化して人をさらったり食料を奪ったりしています。また戦国時代には人攫いや人身売買が当たり前のように行われており、江戸時代に人口増加に転じるまではどうも慢性的に人口不足状態であったようで、その原因に黒死病も関わっていたのかもしれません。

いずれにしても、こうしてユーラシア大陸をモンゴル帝国が完全に押さえてしまったことによって、ユーラシア大陸の端っこのモンゴル帝国から締め出された世界では海に活動領域を求めていくしかなかったのです。倭寇の活動の活発化もその一例でありましたし、シナ南部の海洋商人たちも活動を活発化しました。その海洋市場は東シナ海を中心としたもので、東南アジアにまで及んでいました。
この海洋アジア貿易において日本が主に輸入していたものはシナ製の絹織物やその原料の生糸、そしてシナの銅銭でした。日本には独自の貨幣というものが無かったので、国内の経済活動のために銅銭が必要だったのです。絹織物は上流階級の贅沢品だったので国内で高く売れ、儲けが大きかったので商人はこぞって手を出しましたがそれをシナから買うためにも銅銭は必要でした。銅銭を得るための引き換えの輸出品としては日本刀や硫黄や銅がありました。
どうもこう見ると輸入品に比べて輸出品のほうが貧弱な印象が拭えませんが、まぁそれゆえに倭寇による略奪や密貿易のような形が多かったのでしょう。それがあまりに多くなってきたので明が日本政府に取り締まりを依頼し、足利義満が明と外交関係を結び勘合貿易を開始したのです。
これは一種の合法的な管理貿易体制で、形式として義満が明の皇帝の臣下となった形で、つまり華夷秩序に組み込まれたということです。これは日本という国の基本方針と噛み合うものではなかったので大変不評ではあったのですが、しかし現実的にはこれで日本とシナとの貿易の安全保障体制が出来たわけで、これにより交易は盛んになり、ますます多くの銅銭が日本に入ってきて商業も盛んになったのです。
もちろん管理貿易でしたから、一番儲けたのは足利幕府であったのですが、この勘合貿易の管理者は後に細川氏や大内氏のような守護大名に切り替わっていき、それは実質的には堺や博多の商人たちによって行われました。こうした勘合貿易が15世紀初頭から16世紀半ばまで継続したのです。こうした状況で16世紀半ばに信長が登場してくるのです。
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