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日本史についての雑文その10  大航海時代
一方、モンゴル帝国から締め出されたユーラシア大陸のもう片方の端っこであったヨーロッパにおいては、黒死病の猛威により14世紀半ばに人口が大減少し、労働力不足によって封建制が危機に瀕します。そこで封建領主は労働力や土地を巡って激しく争うようになっていき、例えば14世紀半ばから15世紀半ばにかけては英仏百年戦争などが戦われたわけですが、こうした争いが激しくなる中でフランスやイギリスなどでは次第に王権が強化されていき、各国の王権が強化されると王権同士の争いも起きるようになっていきました。こうしてヨーロッパは戦争の時代へと突入していきます。
東アジア方面で明帝国が成立しモンゴル帝国が北へ退いた14世紀後半の頃、中央アジアでもチムール帝国が興り、15世紀初頭には中央アジアから西アジアにかけてほぼ全域を制圧しましたが、この帝国も商業を保護したのでイスラム商人が活発に活動しました。
地中海を活発に活動していたベネチア商人がこのイスラム商人と東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルで取引をして多くの富を稼ぎ出すことになりました。どうしてイスラム商人と取引する必要があったのかというと、イスラム商人がインド洋を通して運んでくる香辛料を手に入れるためだったのです。
香辛料というと胡椒や生姜などですが、これは元々、肉食の多いヨーロッパの食卓の必需品ではあったのですが、黒死病の大流行後、ヨーロッパでは香辛料の需要が爆発的に増えたのです。何故かというと、香辛料は黒死病の特効薬だという説が信じられていたからです。
香辛料の原産地は東南アジアなのですが、そこからイスラム商人がインド洋を通して大量の香辛料を運んできて、コンスタンチノープルでベネチア商人がそれを買い取るわけです。香辛料の代価としてベネチア側が支払うのはヨーロッパ製の毛織物でした。
こうしてベネチアは巨万の富を築き、また、イスラム商人との接触が増えることによってイスラム文化にも多く触れることになりました。イスラム帝国は古くから栄えましたから、当時のヨーロッパでは破壊し尽くされて失われてしまっていた古代ローマや古代ギリシャの文明の遺産がイスラム文化の中に多く保存されていました。それらも巨万の富と共にベネチア商人の手によってイタリアに持ち込まれ、それによって15世紀初頭からイタリア・ルネサンスが始まったのです。
ルネサンスとは何だったのかというと、それはキリスト教的価値観からの解放だったのであり、イスラム世界に花開いていた科学の影響を受けて、それは次第に科学的探究心というものを育んでいったのです。だが、それと同時にキリスト教側による科学への弾圧も激しさを増していきました。

そうしたルネサンスが盛期を迎えた1453年、困ったことが起こりました。オスマン・トルコ帝国がコンスタンチノープルを陥れ、東ローマ帝国を滅ぼしてしまったのです。これによってコンスタンチノープルでのイスラム商人との取引が不可能になってしまい、ベネチア経由の香辛料の入手が困難になってしまったのです。これにより、この後ベネチアは没落していきます。
これはヨーロッパにとっては非常事態であり、香辛料を手に入れるためにはオスマン・トルコの領土を迂回して直接インドにいるイスラム商人と接触するしかないのです。直接インドに辿り着くには海を通って行くしかないのですが、ヨーロッパ人はそのインド航路を開拓していませんでした。
とにかくオスマン・トルコ領土を迂回して船でインドへ向かうためには一旦ジブラルタル海峡の西に出る必要がありましたから、その出発点はイベリア半島ということになりました。そのイベリア半島に1479年に建国されたのがイスパニア王国、つまりスペインであり、その新興国がとうとう1492年にはイスラム勢力を追い出してイベリア半島をキリスト教勢力のもとに回復します。
その新興国スペインや同じくイベリア半島にあったポルトガルがそうした新しいエネルギーをもってして同時にインドへの道を開く冒険にも乗り出して香辛料をもたらすイスラム商人と接触しようとしたのが、大航海時代の幕開けの背景だったのです。

まずはポルトガルのバルトロメウ・ディアスがジブラルタル海峡を出てからアフリカ大陸の西岸をひたすら南下し続けて喜望峰に到達しインド洋を西に臨む出口を確保します。そして1498年には同じくポルトガルのバスコ・ダ・ガマによって西からインドに至る東回り航路が開拓されました。
これに対抗してスペインでは大西洋を西進して東からインドに直接乗り込む、よりリスキーな西回りルートの開拓を計画します。これを計画したのがコロンブスです。しかしこのリスキーなルートにはそれを補って余りあるメリットがあったのです。それは、かのマルコポーロの「東方見聞録」によればインドの東の果てにある黄金の国ジパングに最も近いルートだったからです。
しかしそのプラン成功のためには条件があります。まず地球が丸くなければいけないのですが、これについてはルネサンスによってイスラム世界から入ってきた最新知識ではどうやら丸いようでした。地球が丸ければ西回りでもインドに辿り着くはずであったし、インドの東にあるというジパングに真っ先に辿り着くはずでした。但し、その途中に障害物が無ければの話なのですが、途中に大きな大陸があるということまではイスラムの科学者達も把握はしていなかったのでした。
そういうわけで、黄金の島ジパングへの到達というオプションをつけたコロンブスの計画はスペイン王家の裁可を受けて1492年に実行に移されることになったのです。
さて何故スペインはそれほど黄金を欲したのかというと、戦費を欲していたからです。スペインだけではなく、この頃全ヨーロッパは戦争に明け暮れており、更には東ではオスマン・トルコの侵略にも対抗しなければならず、とにかく戦費が必要だったのです。
そうした戦争に勝つためには最新の軍事技術が必要でした。最新の武器とは、イスラム世界から伝わった火器、つまり鉄砲でした。この15世紀末から16世紀前半にかけてはヨーロッパでは鉄砲の導入や改良などの軍事革命が進行中で、それを他の国に先んじて行うためにはとにかく大量の戦費が必要であり、そのためには金銀を手に入れるのが最も手っ取り早かったのでした。

こうして1492年にコロンブスによってアメリカ大陸が発見されたのです。ただコロンブスは終生そこがインドだと信じ込んでいたようですし、当初はスペインもそこがインドだと思っていました。そこでポルトガルとインド交易の利権を分割するつもりで1494年にトリデシリャス条約を結んでしまったりもしたのです。これでスペインはとにかく西回りで世界に進出していくしかなくなってしまったのです。
ほどなくスペインはそこがインドやジパングではなく未知の大陸、つまり現在で言う中米や南米だと気づきました。そこにはイスラム商人もいなければ香辛料も無かったからです。こうしてインド航路も香辛料貿易もポルトガルが独占し、16世紀初頭、ポルトガルは大いに栄え、ポルトガル商人はそれに飽き足らず、更に東に進んでマラッカ海峡を越えてスマトラやジャワまで到達していました。
スペインは慌てて1519年にマゼランを航海に派遣して、新大陸の更に先にインドへの道を捜し求めさせ、マゼランは太平洋を発見し、途中フィリピンでマゼランは殺されますが、部下の乗員はインドへの道も発見し、地球を一周してスペインに帰国しました。こうして地球が丸いことは証明されました。
こうしてスペインも西回りでやっと香辛料の原産地に辿り着いたのですが、ポルトガルに完全に遅れをとってしまいました。しかも黄金の島ジパングは未だ発見できていないわけで、黄金も手に入っていないわけです。
しかし回り道だと思われた新大陸で思わぬ収穫があり、どうやらそこにも金銀が多く存在するということが分かり、その金銀を奪うためにスペインは侵略を開始したのです。
侵略といっても後世の時代のような植民地経営のようなものではなく、単に金銀を奪うために邪魔者を排除するというもので、盗賊や強盗の類と大差ない行為だったといえるでしょう。こうして1519年にはメキシコを征服し、1533年にはインカ帝国を滅ぼし、金銀を強奪しました。
このようにして新大陸から強奪した金銀、特に銀はスペイン本国で大部分は戦費として消費され、ヨーロッパに大量の銀がもたらされることになり激しいインフレを引き起こしました。
この新大陸での強盗行為の尖兵として働いたのがキリスト教の宣教師でしたから、教会の腐敗も極点に達していたといえるでしょう。16世紀初頭はちょうどレオナルド・ダ・ヴィンチの晩年あたりで、ルネサンスも最盛期を迎えており、キリスト教的価値観も揺らいでいたところに教会のこの腐敗ぶりで危機感が高まり、1517年から宗教改革運動が起こることとなりました。
宗教改革とはプロテスタントといわれた新教勢力によるキリスト教刷新運動なのですが、プロテスタントはキリスト教原理主義といっていいでしょう。カトリックといわれた旧教勢力が腐敗によって本来のキリスト教からかけ離れたものになってしまっているということへの批判だったわけです。
そのあたりの是非や善悪については深入りはしませんが、とにかくこうした動きは旧教勢力の猛反発を生み、新教勢力は異端扱いされヨーロッパ全土で迫害され、新教側も対抗して、ここにヨーロッパ全体で新旧キリスト教勢力による争いが繰り広げられることとなったのです。
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