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日本史についての雑文その11  南蛮貿易
さて、香辛料を求めて東南アジア海域へ到達したポルトガルとスペインの商人達ですが、既に東シナ海を中心に海洋交易圏が成立しており、香辛料はその中で流通しており、安易に略奪などして入手できるものでもないことに気づきました。また、その交易圏の中ではヨーロッパ産の毛織物は商品価値はほとんど無く、コンスタンチノープルでやっていたように毛織物と香辛料を交換することが出来ないという現実にも直面しました。
香辛料を扱っていたのはシナ商人でしたが、シナ商人が欲していたのは毛織物ではなく銀でした。香辛料を手に入れるためには銀を代価として支払う必要があったのです。そういうわけで、ポルトガルとスペインの商人達はヨーロッパや新大陸から銀をせっせとアジア海域へ運んできてシナ商人と取引して香辛料を手に入れてヨーロッパへ運んでいくようになりました。そのついでに他のアジアの物産の取引もするようになりました。そうやってポルトガルやスペインの船が東アジアの海を行き来するようになった中で、1543年にポルトガル商人が種子島にやって来て鉄砲を伝えたのです。

この時の鉄砲というのはヨーロッパ製ではなくアジアで作られたもので、しかもポルトガル商人にはシナ人倭寇の通訳までついて来ていたわけで、これは明らかに通商ルートの開拓に来ているわけで、彼らは日本との通商を望んでいたわけです。鉄砲は手土産のようなものだったのでしょう。
鉄砲自体は貿易品目にはなりませんでした。1年後には種子島で独自に数十挺の鉄砲が製造され、その後日本全国で鉄砲が製造されるようになり、1549年には実戦使用されるまでになっているのです。
といっても初期の鉄砲は大した性能ではなかったようで、実際に戦場で大きな威力を発揮するようになるのは1570年以降のことのようです。これ以降は莫大な鉄砲が日本で製造使用されるようになり、1600年の関が原の戦いの頃にはヨーロッパ中の全ての鉄砲を合わせた数よりも多くの鉄砲が日本で製造されているという状況となったのです。
シナ人倭寇は鉄砲自体を売りつけようとしていたわけではないのです。いや、あるいは売りつけようとしていたのかもしれませんが、それは日本人が独自に製造してしまったので上手くいかなかっただけなのかもしれません。
しかし鉄砲を撃つには火薬が必要であり、その火薬の主原料である硝石は日本では産出しないのです。それはシナで産出するのです。ですからシナ人倭寇は硝石を日本の戦国大名達に売りつけることで大儲けしたわけです。
といっても戦国大名が直接シナ商人と貿易をすることは出来ませんから、堺や博多の商人が窓口となって硝石貿易が行われました。もちろん、もともと日本が輸入するシナ産品の代表格は絹織物や生糸でしたから、これらも取引されました。この際、日本側から代価として支払われたものが何かというと、それが銀だったのです。

1530年代から日本では鉱山の大開発が開始されて大量の金銀銅が産出されるようになっており、その中でも特に銀はシナ商人の需要が大きかったので、絹織物や生糸、木綿、茶、硝石などのシナ物産を購入する見返りの代価として大量に流通していったのでした。
つまり1530年代以降、東アジアの交易圏では大量の日本産の銀が流通していたということになります。これに目をつけたポルトガル商人が日本との通商を求めて1543年に種子島にやってきたというわけなのです。目当ては日本産の銀でした。ヨーロッパからわざわざ銀を運んでこなくても東アジア交易圏に大量の銀が存在しているのですから、それを手に入れればいいわけです。
どうやって手に入れるかといえば、シナから絹織物や生糸を購入してそれを日本に売りつければ日本側は代価として銀を支払ってくるわけで、そうした仲介貿易で手に入れた銀でもって香辛料を購入してヨーロッパへ送ればいいのです。
こうやって日本でいうところの南蛮貿易というものが始まりました。ここで南蛮と言われているのがポルトガルのことであり、これは日本を中華として見る日本版華夷秩序の考え方で、南のほうにいる野蛮人という意味で、対等な外交の相手とは見なしていないわけです。
これが当時の日本の世界観であったわけですし、また実際、ポルトガル人にしてもスペイン人にしても東アジア海域にいたのは単なる商人ばかりで、そもそも対等な外交相手ではなかったのも事実です。
他にキリスト教の宣教師というものもいましたが、彼らこそが侵略の尖兵であり、新大陸やヨーロッパ本国では暴虐の限りを尽くしていたのであるし、当時のヨーロッパ人は年中戦争に明け暮れていた真の意味での野蛮人であったのですから、彼らを南蛮扱いした当時の日本人はなかなか鋭い観察眼を持っていたといっていいのかもしれません。まぁ当時の日本自体が戦国乱世で、仏僧も堕落しきっていたわけですから、あんまり他人のことを言えたものではなかったわけで、まぁ五十歩百歩だったわけですが。
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