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日本史についての雑文その12  秀吉の野望
こうして16世紀半ば以降、日本とポルトガル商人とシナ商人との間に南蛮貿易が始まったのですが、日本においては最初は九州地方の戦国大名が盛んに貿易を行いましたが、1568年に織田信長が入京を果たした後は、直轄地とした堺を窓口として、これまた直轄地とした国内の銀山から出た銀を使って南蛮貿易を管理し拡大していったのです。
そうやって莫大な利益を上げ、その金で鉄砲などの軍備を整え、また大量の硝石を独占し、その結果として1575年の長篠の戦いの大勝利があるのです。つまり信長は南蛮貿易を富国強兵政策の一環として明確に位置づけていたのです。

さて16世紀半ば過ぎ頃、ヨーロッパでは新大陸の銀を使って軍備拡張したスペインが最盛期を迎えていました。だいたい信長が入京を果たした後ぐらい、1571年にレパントの海戦でトルコ艦隊を撃破してイスラム世界を打倒したあたりがスペインの極盛期だったといえるでしょう。ところがこの頃日本に来ていたのはポルトガル商人だけであり、スペイン商人はまだ来ていません。
スペインの東アジア進出はやや遅れており、フィリピンに本格的に進出してきたのは1565年以降で、拠点であるマニラ市を築いたのは1571年でした。メキシコから太平洋を横断して新大陸で略奪した大量の銀をこのマニラに運んでくるようになったのはこれ以降です。
そもそも、どうやらスペインはポルトガルとあからさまな利権争いをすることは避けていたのではないかとも思われます。一応トリデシリャス条約などのように協定も結んでおりましたから、だから先にポルトガルが交易利権を築いていた日本には進出してこなかったのかもしれません。
ところが1580年にスペイン王のフェリペ2世がポルトガル王も兼ねるようになって、要するにポルトガルがスペインに併合されたわけですが、これで両国を区別する意味があまり無くなり、1584年にはスペイン商人や宣教師も平戸へやって来て商売や布教をするようになりました。

この頃は日本では1582年に本能寺の変で信長政権が倒れて、豊臣秀吉による天下統一事業の途中の頃で、秀吉が徳川家康と小牧長久手で戦っていたりした年でした。
1587年に秀吉が九州を平定して、初めてスペイン勢力と秀吉が接触したわけですが、この時に秀吉は宣教師を追放したりして高圧的態度を示します。これは単に宗教弾圧だとかいう意味ではなく、翌1588年に倭寇を禁じて邦人の南海進出を奨励するなど、日本主導で南蛮貿易や南海貿易を管理していこうという、信長時代の受けのスタンスから転じた攻めのスタンスの一環として打ち出された政策だったといえるでしょう。あくまで南蛮貿易を取り仕切るのは秀吉であり、宣教師の言うような神の意思などではないというわけです。
秀吉は1589年には朝鮮に、1591年にはフィリピンに入貢を求める書簡を送り、あくまで強気の姿勢を示します。そして南蛮貿易の拠点を堺から前進させて博多へ移し、1592年には朱印船制度、つまり選ばれた商人に朱印状、言わば貿易免許みたいなものを与えて貿易に従事させるという制度を定めて管理貿易体制のもと海外進出に本格的に乗り出します。マニラに日本人町が出来たのもこの年で、同じ年に朝鮮出兵が行われています。
これらは全て、一貫した政策であったと考えたほうがいいでしょう。つまり信長時代に南蛮貿易で蓄積された富と軍事力、そして国内で無尽蔵に採れる銀を使って、東アジア海上交易を日本、いや秀吉が支配しようという構想だったのでしょう。そしてそれはおそらく秀吉オリジナルの発想ではなく、もともとは信長の構想だったのではないでしょうか。
この東アジア交易圏の中で秀吉のこの構想に対する障害は2つあり、マニラを拠点とするスペイン勢力と、もう1つはシナの華夷秩序でした。スペイン勢力には強圧的態度で圧迫し、シナの華夷秩序はなんとかして無効化してシナ商人と日本商人との自由貿易体制を築こうとしたのですが、これがどうしても上手くいかなかったので、いっそ明を征服して華夷秩序体制そのものをぶっ潰してしまおうというのが「唐入り」の真相だったのではないでしょうか。そのための第一歩としての朝鮮出兵だったというわけです。
1596年にはスペイン船サン・フェリペ号の漂着事件をきっかけにスペインの宣教師などを使った他国侵略の手口が明るみになってしまい、秀吉は警戒感を高めてますますスペイン勢力、特に宣教師やキリスト教信者に対する圧迫を強め、長崎で26人のキリスト教徒を処刑したりしました。
まぁ実際、スペインも本音を言えば仲介貿易だけではなく、この金銀を大量に産する日本という国を手中に収めたいとは思っていたでしょうから、宣教師を使って侵略の準備も進めていたのでしょう。だからまぁこういう圧迫は当然の措置ではあったとは思います。

このあたりまでがだいたいこの文章における時代区分で言うと、1550年から1600年にかけての幕藩国家形成期における外交貿易関係ということになります。
この形成期の前期、すなわち1550年から1575年ぐらいまでの期間というのは南蛮貿易が始まってからそれが信長による富国強兵政策に結実するまでの期間ということになり、信長にとっては南蛮貿易を手中に収めて富国強兵政策を確立するまでの苦闘の期間ということになります。この苦闘の結果、1575年に長篠で大勝利を収め、これにより信長勢力、すなわち新文明形成勢力の優位は決定的となったのです。
そして幕藩国家形成期の後期にあたる1575年から1600年までの期間というのは南蛮貿易が急速に拡大し信長政権を強大化させ、それを引き継いだ秀吉政権によって日本人の海外貿易への進出への展開へと至った時代だといっていいでしょう。この時代は新文明が旧文明を駆逐してどんどんその姿を現してきた時代であり、そうした新文明を生み出していくエネルギー源として、この海外交易によって得られた富や海外の物産や情報は有効活用されたのだといえます。
一般論的に言えば、文明の形成期においては外来勢力がその展開に大きな影響を及ぼすように見受けられます。形成期前期は、新文明側が外来勢力の力を得ていく期間ということになりましょう。そして形成期後期においては、外来勢力の力を利用して新文明が形成されていく期間ということになるでしょう。
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