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日本史についての雑文その13  日本国大君
さて、このようにこの幕藩国家形成期後期においてスペイン勢力は秀吉に大変強圧的に圧迫されるわけですが、世界の海を支配しているはずのスペインがこれらに対してほとんど為す術が無いというのもおかしな話です。確かに秀吉や日本の軍事力が強大であったことも事実ですが、それにしても不甲斐なさすぎなのです。
実はスペインは銀を闇雲に軍事費に費消してしまい、1575年以降は国庫が窮迫し既に繁栄に陰りが見え始めていたのです。せっかくの金銀も軍事費に消えるだけでは経済成長に結びつかなかったのです。一方、金銀を毛織物工業への投資に回して持続的な経済成長の基盤を築き、略奪ではなく工業製品の代価として金銀獲得の基盤を確立したのは16世紀後半のエリザベス1世統治下のイギリスでした。
そして1588年、日本人が南海へ進出し始めた年ですが、この年にイギリス艦隊がスペインの無敵艦隊を撃滅し、大西洋の海上権はイギリスに移っていったのです。また、1581年には神聖ローマ帝国からオランダが独立を宣言し、オランダ商人も海上で活発に活動するようになりました。
これら新興国イギリスやオランダは宗教的には新教国家で、一方スペインやポルトガルは旧教国家でした。そういうわけでしたから、これらは世界中で大変にいがみ合い争い合いました。
1596年サン・フェリペ号事件の年にはオランダ艦隊がジャワ島にまでやってきており、マニラを拠点としたスペイン勢力にとっては、北からの日本勢力の進出と南からのオランダ勢力の進出の両方に対処してマニラを守らなければならず、秀吉の戦略に対して有効な対策を打つどころではなかったのが実情でしょう。
秀吉の死後、1600年の関が原の戦いの年には、豊後にオランダ船リーフデ号が到達しており、乗り込んでいたイギリス人のウィリアム・アダムスが徳川家康に謁見し、その外交政策顧問のような立場につきます。同じ年にイギリスは東インド会社を設立し、自国の銀をアジア方面へどんどん運び、アジア貿易に本格的に乗り出しました。オランダも同様に1602年に東インド会社を設立しました。

このあたりから徳川家康が政権を担当して時代は幕藩国家確立期へと入っていくのですが、家康の海外交易のスタイルは当初は秀吉と基本的には同じで朱印船貿易であり、むしろ秀吉より積極的に日本人の海外進出を奨励しました。
家康は秀吉がやったよりも大規模に鉱山開発を行い、そこで得た大量の銀を使って東アジア交易圏の制覇に乗り出したのです。秀吉路線の更なる拡大であったといっていいでしょう。
ただこの確立期において秀吉時代とは違っていた点が幾つかありました。まず朝鮮出兵が失敗に終わっていたこと、そして江戸に幕府が開かれて国内で戦争が無くなっていたこと、そしてオランダやイギリスのような新教勢力が東アジア交易圏に参入してきたことです。これらの要素によって、この時代の外交貿易政策は次第に秀吉時代とは違ったものになっていきます。

朝鮮出兵が失敗したということは明国征服にも失敗したということであり、つまり華夷秩序を無視して自由にシナ商人と取引するというわけにはいかないということです。しかも戦争をしてしまったお陰で明とは断交状態になってしまったわけで、シナ商人との取引が大変冷え込んでしまいました。
しかし日本商人とシナ商人の取引が無ければ東アジア交易圏自体が成り立たないわけで、それでは困るので家康はなんとか明との関係修復を図ったのですが、やはりどうしても上手くいかず、それで仕方なく「日本国大君」という華夷秩序とは無関係の称号を名乗り、華夷秩序から外れた交易スタイルを作り出したのです。これは明の政府とは無関係に勝手にやっている交易で、公然かつ大々的に行われた密貿易ということになるのですが、ともかくこういう解決策しか無かったわけです。
これは基本的に密貿易でしたので不安定で、いつ途切れてしまうか分からないわけで、しかも正式な交易、つまり朝貢貿易に比べると日本側の得が少ないわけです。
当時日本がシナから輸入していた品目で最も多かったものは銅銭で、シナの銅銭で日本の商取引は為されていたのです。しかしこれがいつ途切れてしまうか分からないのでは困るのです。また、日本側の得の少ない貿易になってしまったので、余計な輸入品目は減らしたいということもあります。それで徳川幕府は、ちょうど国内の鉱山からふんだんに金銀銅が産出しているのだということもあり、日本独自の貨幣を鋳造することにしたのです。
この独自貨幣鋳造は家康が政権を握ってすぐに着手しましたが、1650年あたりの確立期末期あたりには完全にシナ銅銭を駆逐して国内で流通し使われるようになりました。これによりシナ銅銭を輸入する必要が無くなったので、日本側にとってシナ商人との交易はそれほど重要ではなくなり、むしろ逆に銅の産出が止まったシナ側が銅銭不足に陥り、日本の銅銭を求めるようになり、日本とシナの貿易は日本の売り手市場になり、修正期から改革期においては銅銭や銀の海外流出が日本では問題とされるようになりました。
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