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日本史についての雑文その14  国内フロンティア出現
さて朝鮮出兵が失敗に終わったことで、外国に軍を派遣して戦争をするということはやりづらくなりました。国内の戦争も秀吉の天下統一以来絶えていました。確立期の50年間においても戦争は関が原と大阪の冬夏の陣と島原の乱の4回だけです。
もともと海外交易の利益は秀吉時代は戦費につぎ込まれていたのですが、もうそういう必要は無くなったわけです。そこで必然的にその利益は国内インフラ整備に向けられることになったのです。

しかし国内インフラ整備に資金をつぎ込むとなると、戦費につぎ込む場合に比べて経済効果が段違いに優れているのであって、それだけで経済成長の基盤整備に繫がるのです。それは先述のエリザベス1世のイギリスと同じであって、産業基盤の整備にもなるし、それが新たな内需を呼び覚ますことにもなるのです。
しかも当時の日本は初めて全国統一された日本であったという点が重要です。よく勘違いされるのですが、古来日本列島は江戸時代以前は政治的に統一体であったことはありません。戦国時代はもちろん各戦国大名の領国ごとにバラバラだったわけですが、それ以前だって守護大名の領国ごとにバラバラであったし、だいたい九州南部や関東東北などは中央政府の意向とは別に動いていましたし、西日本と東日本とでは文化は全く違っていました。
家康によって江戸に幕府が開かれたことによって、単に戦国大名がみんな統一されたというだけではなく、東北から南九州までが初めて完全に幕府の支配化に組み込まれたのです。
特に京都や大阪ではなく江戸に幕府が開かれたことによって、初めて東北も含む東日本が西日本と統一した政権のもとに組み込まれることになったのが大きい意義をもっているのです。

日本の歴史というのは長いスパンで見ると西向きの時代と東向きの時代があり、西とは畿内から見ての西のことで、つまりシナ大陸を意識する傾向の強い時代ということで、逆に東とは畿内から見て東ということで、関東や東北方面を意識する傾向が強い時代ということです。
つまり西向きというのは外向き、東向きというのは内向きということなのですが、江戸時代以前は関東東北自体が畿内から見れば半ば外国のようなものだったのですから、内向きという感じではなかったのかもしれません。また九州などは文化的にシナの沿岸部と一体化したような地域もあったりして、彼らから見ればシナよりも東北のほうがよほど外国に見えたことでしょう。
つまり江戸時代以前の日本は文化的にも政治的にもちゃんとした統一体ではなかったのであり、これは厳密には江戸時代を通しても真の意味で統一体にはならなかったのですが、それでもそれ以前の時代とは比べ物にならないぐらい統一された形が初めて示されたのがこの家康の時代であったのです。そしてそれは江戸に幕府が開かれたことからも分かるように、明確に東向きのベクトルを持った時代の幕開けだったのです。
初めて関東や東北も含めた統一日本というものが出現したというインパクトによって、この江戸時代という時代は全般的に東向き傾向の強い時代となったのです。これは具体的に言えば、家康から始まる江戸時代前半において、関東や東北はまだまだ未開拓の地域であり、広大なフロンティアが国内に大きく広がっていたということです。交易で得た利益を注ぎ込んで開発整備する先が国内に多く存在したのです。そしてそれは新たな経済発展を生み出していったのです。
戦費のように湯水のように消えていくわけではなく、このように国内にいくらでも効率的な投資先があるわけですから、ものすごく経済効率がいいわけです。こういう面を見るだけでも、当時の日本がせっかくの金銀を戦費で使い果たしてしまったスペインやポルトガルなどよりも既に先進的であったということが分かります。
戦国時代の段階ではそれほど両者間には差は無かったのですが、信長秀吉時代を経て家康時代に入って決定的な差がついたといえるでしょう。こういう新しい先進的な日本とパートナーシップを結ぶべき国はスペインやポルトガルのような落ち目になりつつある国ではなく、むしろオランダやイギリスであったのだということになります。

そういう時代の移り目の時代にちょうどオランダやイギリスが日本に接触してきたわけで、家康にしてみればこれで選択の幅が広がったわけです。1609年にはオランダ、1613年にはイギリスに平戸での貿易を認可しています。
しかしこの時代はまだスペインやポルトガルを冷遇していたわけではなく、とにかく家康の時代は文明の大建設ラッシュの時代でしたから、その資金が必要で、そのためには貿易の利益は最大限必要であったので、全方位的に優遇したのだといえます。
しかし基本的には経済効率はものすごく良いわけですから、建設ラッシュが一段落ついたら、そんな無理して変な相手と付き合う必要も無いわけです。また、無理にこちら側の間口を広げる必要も無いわけで、無理に民間に委託するよりも官営で堅実にやっていってもいいわけです。それでも十分に利益が上がるし、その利益だけで国内の経済発展を十分に喚起できる投資額に達するのですから。
そういうわけで、1612年以降キリシタンへの圧迫を強めていき、家康没年の1616年にはヨーロッパ船の来航を平戸と長崎に制限するようにするなど、次第に管理貿易色を押し出すようになっていきましたが、まだこの段階では貿易自体を制限していくというわけではなかったようです。相変わらず日本人の海外進出は盛んで、東南アジア各地に日本人町が作られていました。
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