KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その15  管理貿易体制
この潮目が変わるのが、だいたい1625年以降の幕藩国家確立期後期の時代、新文明の建設ラッシュが一段落ついて新文明が国内でじっくり定着していく時代です。この時代になると、確かに海外交易自体は利益も大きく必要ではあるが、国内の経済効率の良さを考えれば、わざわざリスクの大きな貿易形態を選択してまで貿易額を膨れ上がらせる必要性も無いのです。
リスクの大きい貿易形態とは、侵略の下心がどうしても消せないスペインやポルトガルのような旧教国家との貿易であり、また、貿易商人と有力大名が連携することによる政権転覆の可能性のある朱印船貿易制度でした。
これについては反面教師がいて、室町幕府は守護大名がシナ貿易の利権を握ったために弱体化したのです。貿易の利益は幕府のみが握っている形が一番望ましいのです。
そういうわけで、この確立期の後期になると、旧教国排除傾向と、幕府による貿易一元管理傾向が強くなっていきます。1624年にはスペイン人の来航を禁止し、1630年にはキリシタンが増えないようにキリスト教関係の書物の輸入を禁止します。
キリスト教の宣教師は旧教国の侵略の尖兵でしたし、キリシタンはその影響下にある危険分子でしたから、こうした措置は妥当だったと思います。宗教を侵略の武器とする傾向の強い旧教国に比べ、オランダなどの新教国はそういう傾向は無く、ビジネスだけを求める傾向が強かったので、幕府としても安心して付き合える相手でした。スペイン人が真っ先に来航を禁じられたのは、やはりサン・フェリペ号事件などの前科があったから、最も悪質と見られていたからでしょう。
ちなみにイギリスは1623年に日本との貿易から撤退していますが、これは日本側の意思ではなく、東アジア交易圏におけるオランダとの競争に敗れたということと、イギリス自体の方針として、東アジアにおける仲介貿易よりも、本国の毛織物産業の基盤を強化してインドや新大陸などを自国産品の市場として気長に開拓していくという選択をしたのです。
目先の交易の利よりも地道で堅実な道のほうをやや重視する道を選んだということであり、このあたり徳川政権の選択と似ていなくもありません。

さて幕府は1631年には奉書船制度を創設して直接貿易に乗り出します。1633年には奉書船以外の海外渡航を禁止、つまり、幕府の船しか海外貿易に従事できないようにして貿易を一元管理します。これで幕府が海外貿易の利益を独占することになります。
後はそれを実効的ならしめるために密貿易を取り締まらねばなりませんから、1635年には日本人の海外渡航や海外からの帰国を禁止しました。人の出入りが無ければ密貿易は不可能になるというわけです。
これで奉書船による海外渡航も無くなったわけですが、つまりこの頃になると、わざわざ日本人のほうから海外に出向かなくても、日本に来航してくる外国船と日本の港で交易するだけで十分な利益を得られる状況になっていたのです。言ってみれば朱印船や奉書船や日本人町というのは、海外へ日本市場を宣伝するための広報活動のようなものだったのかもしれません。
あるいは、やはり秀吉が構想したように元々は東アジア市場に覇を唱えようという意思もあったのかもしれませんが、江戸開府により東向きに転じた国家方針のもと、次第にそうした熱は冷めて、単に貿易の利潤のみ確保できれば良いという冷めた考え方が主流になっていったのかもしれません。
また、密貿易監視のためには外国船も一括監視できるようにする必要があるわけで、1635年にはシナ商船も長崎以外への来航を禁止し、1636年には長崎の出島にポルトガル人を全て移して、密貿易を監視しやすい体制を作っていきました。

こうして幕府による貿易管理体制が構築されていく中で1637年に島原の乱が起こったのですが、この乱はこうした貿易管理の流れとは全く別の脈絡で起こった事件であり、両者は全く無関係の事件と言っていいでしょう。
島原の乱はキリシタンの叛乱ではあったのですが、別に日本にキリスト教王国を作るための戦いでもなんでもなく、島原の大名松倉家が幕府のキリシタン圧迫政策を拡大解釈してキリシタンが多かった領民を圧迫する政策をとったので領民が叛乱を起こしたという事件で、その団結の旗印としてキリスト教が使われたというだけのことで、実態は農民一揆であったのです。結局、乱は鎮圧され、幕府の方針を悪用して悪政を行った松倉家も取り潰しとなりました。
この島原の乱が起きようが起きまいが、幕府の旧教国排除方針も貿易一元管理方針も既定路線であり全く変更は無かったでしょう。乱後に1639年にポルトガル人の来航が禁止されたことも、1641年にオランダ人を全て長崎の出島に移したことも、全て島原の乱とは関係なく既定方針通りに行われたことだったと思います。こうして幕府による貿易一元管理体制、いわゆる「鎖国体制」というものが完成したのです。
しいて島原の乱による影響を挙げるとするなら、松倉家のような恣意的運用を避けるために、幕府によるキリスト教禁教体制がより整備されシステマチックになったということぐらいでしょうか。それが1639年の宗門改め制度の創設や、1640年のキリシタン奉行の設置などでしょう。

このように幕藩国家確立期における外交貿易関係を検証してみると、だいたい1600年から1625年の確立期前期の期間においては、他の政治経済事象と同様に貿易も活発に行われてその利益は新文明建設の原資に充てられたのであり、それが1625年から1650年の確立期後期の期間になると、新文明の建設ラッシュが落ち着いていくにつれて、幕府によって管理しやすい形に整備されていったのだということが出来るでしょう。
一般論的に言えば、文明の確立期においても外来勢力というものがその展開に大きく関わってくるもののようですが、確立期前期は、外来勢力の力を文明の建設に使っていく期間で、確立期後期は、外来勢力の影響力を管理していこうとする時期なのだといえるでしょう。そうして、その次の時代になると、外来勢力は存在しなくなるわけではないのですが、文明の展開自体にはさほど大きな影響を及ぼさなくなるのです。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。