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日本史についての雑文その16  鎖国による得失
こうして、いわゆる「鎖国体制」というものが完成していったわけですが、実態は単なる幕府による管理貿易体制の完成に過ぎず、これが日本にとって多大な損失であったなどというのは間違いです。幕末になって結果的に損失と感じられた部分もあったかもしれないが、当時の判断としては決して間違った判断ではないのです。
まずこれで海外交易が萎んだなどということはありません。もともと南蛮貿易の主流は、日本の銀とシナの絹織物や生糸との取引の仲介をヨーロッパ商人が行い、それで得た銀で香辛料を買ったり本国に銀を送って産業発展や軍備拡張の原資とするというものであり、その構図はオランダ商人によって維持されました。
つまりヨーロッパへ送る日本の銀の独占権をオランダが勝ち取ったというだけのことで、むしろ貿易額は年々増加し、次第に日本にとってはこの銀の大量海外流出が幕政の重要問題として浮上してくるようになったのです。それについては後に触れますが、とにかくそれぐらい貿易は盛んだったということで、むしろ問題点は日本からの輸出品に銀以外に目ぼしいものが無いという完全片貿易であるということだったのです。
またシナ商人との交易も、結局まともな国交も無い状態でしたが、盛んに行われました。これが先述したように、シナ側の銅不足によって日本の銅銭が求められたからで、完全に日本側の売り手市場であり、結局はシナでは華夷秩序の特例のような形で公然と日本との貿易が行われるようになり、しかもシナ政府のほうから求めて交易を行うようになっていったのです。

しかし「鎖国」を批判する文脈というのは交易面だけではなく、むしろこれによって西洋の優れた文明から取り残されたというような観点からの批判が多いのです。しかしこれも、最終的にはそういう結果になったのかもしれませんが、この1641年の時点、そしてその後のかなりの期間においては、そういう批判は見当違いだといっていいでしょう。
この17世紀前半期に日本に拒絶されたスペインもポルトガルも、この時期にはもう没落過程に入っており、しかも宣教師を使っての世界各地での悪行三昧の前科持ちです。このようなものを拒絶したところで、その代用としてのオランダを確保している限り、日本にとって損失など全く無いといっていいでしょう。
イギリスに関しては日本が拒絶したのではなく、先述したように自ら去っていったのです。実はこの後1673年に一度イギリスは再び日本との通商を希望してくるのですが、日本貿易を独占利権としているオランダの反対意見を容れて幕府はイギリスとの通商を拒否しています。
これは正しい判断であったのかどうかは判断の難しいところですが、オランダに騙されたというのは事実でしょう。この頃、三次に渉るオランダ・イギリス戦争によってオランダの海上権は失われつつあった時代だったのですが、その事実をオランダは幕府に隠していたのですから。ただ、アジア方面ではこの時点ではまだオランダが最大勢力であったのも事実であり、判断の難しいところです。これに関してはあるいは誤った判断であったのかもしれません。
しかし、もしこの時点で日本の海外への窓口がオランダからイギリスに変わっていたからといって、その後の状況がそれほど変わっていたともあまり思えません。オランダからも最新の国際情勢の情報は入ってきていましたし、まぁ多少オランダに不利な部分は隠蔽されていましたが、それでもそんなに事実からかけ離れたものではなかったし、イギリスがそれを担当していたとしても、19世紀以前はおそらく交易を淡々とこなすことと情報提供以外のことは出来なかったという点ではオランダと大差無かったと思います。
他のヨーロッパの国といえばフランスなどはアジア市場に進出してくる余力は無く、現在のドイツやオーストリアにあたる神聖ローマ帝国では1618年から新旧両教徒による不毛な争いである三十年戦争が始まり、フランス・オランダ・北欧三国を巻き込んで長期化し、ドイツ国土は荒れ果てました。
こんな馬鹿げたことを未だに続けているような諸国と、宗教的争いの無い新文明を着々と築きつつあった同時代の日本を比べて見る限り、別に無理にお付き合いする必要があったとも特には思えません。

結局、ヨーロッパの状況が変化していくのは日本の「鎖国」政策が完成した1641年以降のことなのです。1642年にイギリスで清教徒革命が起き、議会が王権に優越する伝統が始まり、1648年には三十年戦争が終わり神聖ローマ帝国が解体しヨーロッパでは主権国家による国際社会の時代が始まります。
1661年にはフランスではルイ14世の親政が始まり絶対王政が確立し、1688年の名誉革命を経たイギリスと、この2国間で1763年まで何度も、新大陸での植民地を巡って戦争が繰り広げられることとなりました。この間、ヨーロッパ諸国の関心はもっぱらヨーロッパ本土と新大陸の情勢にあったのであり、アジア方面にはほとんど向いていなかったのです。1763年といえば日本では田沼時代の直前あたりです。
インドでの英仏の抗争が始まったのが1742年で、それ以前はインドすらほとんど興味が払われることは無かったのですから、東アジアに存在した日本など忘れ去られていたといってもいいでしょう。また、この頃のヨーロッパの政治経済体制、科学技術や文化に、特に同時代の日本にとって見習うべきものがあったというわけでもありませんでした。
しいて言えばイギリスにおける議会政治の発展でありましょうが、これもこの時点で世界標準になっていたというわけでもなく単にイギリス特有の伝統であり、選挙権などもごく制限されたもので、封建制に特有の合議制の伝統に毛の生えたようなものでしたから、日本にも似たような要素が無かったわけでもありません。
日本の江戸時代の場合、イギリス風の封建的合議制の伝統の上にフランス風の絶対王政を敷いたような感じが一番的確な喩えではなかったでしょうか。
しかしこの1763年の直後に非常に重要な出来事がありました。1765年のイギリスのワットによる蒸気機関の発明です。これにより、1770年代以降、イギリスで産業革命が進行しました。これは当初は紡績機械の改良に使われ、イギリスの毛織物産業を飛躍的に発展させ、資本主義社会を発展させました。
この産業革命に乗り遅れたことは確かに日本にとっては痛手ではありましたが、しかしこれは鎖国のせいというよりは、これだけ距離が開いていれば仕方ないことでしょう。そもそもこのような蒸気機関を日本へ運んでいけるだけの蒸気機関を使った交通機関、すなわち蒸気船が出来るまでにこの時点からまだ70年ほど待たねばいけなかったのです。

むしろこの1770年代以降、江戸幕府を悩ませた外交問題は日本近海に出没し始めたロシア問題でした。ですので少しロシアの歴史についても触れておきます。
ロシアは1480年にモスクワ大公国がモンゴル帝国から独立したのが起源で、その後1547年にロシア帝国が成立しました。日本では織田信長が歴史の舞台に登場する直前の時期にあたります。
ロシアは1582年、すなわち本能寺の変の年からシベリア進出を開始し、1638年には早くもシベリアを突破して太平洋岸に到達したのです。ちょうど日本では島原の乱が鎮圧された頃で、まさに「鎖国」体制が完成しようという時期でした。ヨーロッパでは三十年戦争の真っ只中という状況でした。
この後ロシアはポーランド・スウェーデン・トルコと領土紛争を頻発し、また1689年の清との協定で極東での南下は食い止められましたが、1706年にはカムチャッカ半島を領有し、千島列島を南下してくる足がかりを築きました。
その後18世紀前半はロシアはコーカサス地方と中央アジアで南下を試みてトルコやイラン、清と紛争を起こし、18世紀後半にはヨーロッパでの幾つかの戦争に参加してヨーロッパ情勢への影響力を強めていきつつトルコやイラン方面に進出していくのが国策でしたが、日本北方における日本とロシアの接触はこの時期に起こったことであり、ロシア本国にとっては極東情勢はさしたる優先課題でもなく、単なる国境線画定と国境地帯での通商要請に過ぎなかったのであり、幕末期以降の帝国主義的侵略とは異質なものであったといえましょう。
またその後19世紀前半はロシアはナポレオン軍の侵入を受けたり、イランやトルコ方面でのイギリスとの抗争に集中することになったので、極東方面ではほとんど動きが無くなったということも日本にとっては幸いでした。
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