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日本史についての雑文その17  近代西洋の勃興
さて17世紀末以来の新大陸における英仏植民地抗争はイギリスの勝利に終わり、1763年のパリ条約でフランスは新大陸の植民地のほとんどをイギリスに奪われました。
その広大な植民地維持のための財源をイギリス政府は新大陸植民地住民への課税によって賄おうとしたのですが、これが植民地住人の反発を買い、1773年にボストン茶会事件を引き起こし、これがアメリカ独立戦争に発展し、1776年にアメリカ合衆国が独立することとなりました。

イギリスはこれによって新大陸での植民地利権のほとんどを失い、産業革命で得た莫大な生産力に見合った新たな市場を開拓する必要に迫られ、フランスと抗争中であったインド植民地獲得へと全力を注ぐようになっていくのです。これによってヨーロッパの目がとうとう東方へ向くこととなりました。
一方フランスですが、アメリカ独立戦争を新大陸での利権回復の好機と見てとって、1778年にアメリカの独立を承認してイギリスに宣戦布告し新大陸でイギリス軍と戦い勝利し、1783年のパリ条約でミシシッピー以西の広大な植民地を得たのです。
ところがこの独立戦争の介入によってフランス財政は極度に悪化し、その収拾のために1789年、三部会を招集したことをきっかけに国民議会が結成され、その後バスチーユ襲撃事件に至り、フランス革命が起きたのです。日本では松平定信の寛政の改革が始まった頃でした。

この1789年のフランス革命を近代民主主義政治の幕開けであるかのように持て囃すのが古い階級闘争史観ですが、私はこのフランス革命とそれに続くナポレオンの帝政の歴史からはほとんど有意義なものを見出すことが出来ません。それは暴動と戦争と独裁の歴史でしかなく、後世にプラスの影響を与えたと思われる要素がほとんど無いと思われるからです。
ただ1799年から1815年までヨーロッパを騒がせたナポレオンに関しては、政治家としてはともかく、軍人としては革命的な天才であったことは間違いなく、彼の編み出した散兵戦術は戦争の在り方を根本から変えました。
すなわち、密集隊形で大軍を展開し正面からぶつかり合うのではなく、連隊ごとに各所に散らばり潜んでおき、一斉に敵を包囲殲滅するのです。そして各連隊には前列に大砲を配置し、その大砲の前には軽装の歩兵銃隊を置いて、大砲の援護射撃のもと歩兵銃隊が突撃しました。軽装歩兵が間道などを迅速に迂回する機動戦が戦法の主流となったのです。この戦法を実施するためには兵士によほどの使命感が無ければ不可能です。傭兵部隊では不可能な戦法でした。
この散兵戦術を可能にしたのはナショナリズムの高揚による国民軍の編成によるもので、フランス革命やナポレオン自体に評価すべき点はほとんど無いのは確かですが、その結果としてナショナリズムや国民軍思想、そしてそれに基づいた新しい次元で戦争を遂行できる軍隊というものを、ナポレオン戦争後のヨーロッパ諸国は持つことになったのです。
そういった軍事革命というものは確かに起きたのであり、これがヨーロッパ列強による植民地獲得、そして世界分割へと繫がっていくのです。この連隊制を基本とした散兵戦術は日露戦争において機関銃と要塞と塹壕が出現するまでは国際的に陸上戦術のスタンダードであり続けたのでした。
また、ナポレオン戦争によってヨーロッパにおけるイギリスの覇権は確定し、ヨーロッパに久しぶりの平和がもたらされたことによって、列国が海外植民地の獲得に集中できる環境が整ったということも帝国主義時代の開始の要因ともなりました。

そして、そういった軍事的要因や政治的要因以上に帝国主義時代を招きよせるのに大きな力となったのは産業的要因で、ナポレオン戦争中にも着々と産業革命は進行し、1807年にはフルトンによる蒸気船の発明、1814年にはスチーブンソンによる蒸気機関車の発明がなされ、1825年にはイギリスで世界最初の鉄道が開通しました。
これにより産業革命はヨーロッパ諸国に巨大な生産力だけでなく輸送力をも与え、これにより遠隔の植民地の本格統治ということが可能になり、帝国主義の時代を出現させたのです。
まぁこの場合のヨーロッパ諸国といっても、実質的には海上権はイギリスが独占していましたから、インドや東南アジア方面ではほとんどイギリスの独り勝ちであり、陸伝いに進出できるアフリカ方面や中東方面にフランスが進出してイギリスと競合し始め、あとは南下してくるロシアをイランや黒海方面でイギリスが食い止めていくという状況でありました。

ナポレオン戦争中にオランダはナポレオン軍に占領され、イギリスの敵に回ることになりました。その関係でイギリス船フェートン号が長崎に侵入するという事件が1808年に起きて幕府に衝撃を与えています。1813年にも似たような事件が起きており、ナポレオン戦争の影響で日本近海も騒がしくなってきたのです。
ナポレオン戦争終了後の1819年には早くもイギリスはシンガポールを領有し、1822年にはシャムに進出、1824年にはマラッカを獲得しています。また1821年には清国政府に通商を求め拒否されると翌年にはアヘンを持ち込んでいます。日本近海においても先述のフェートン号事件後も、1817年以降、断続的にイギリス船が現れて通商を要求するようになりました。
こうした新たな事態に対して日本の幕府当局者はどう対応したかというと、フェートン号事件のあった1808年には早くも江戸湾沿岸に砲台を設置していますし、1825年には異国船打払令を出しています。それなりに情勢に合わせた対応をちゃんとしているのです。
こんな強気な対応をして大丈夫かという向きもあるでしょうが、実際この時はこうした強気の対応で通ったのです。それは何故かというと、まだこの時点では日本近海に来ていた外国船は帆船だったからで、火力も防御力も大したことは無かったので、幕府がそれなりの態勢を整えれば打払うことも十分可能だったのです。
なぜ帆船ばかりだったのかというと、この時点ではまだ外洋を航海できるタイプの蒸気船は実用化されていなかったからです。最初に大西洋を横断した蒸気船は1838年のシリウス号であり、これ以降が日本やアジア諸国にとって真の意味での危機の時代であり、帝国主義時代が本格化するのです。
こうした技術革新によって強化されたイギリス軍が1840年から1842年のアヘン戦争で清国軍を打ち破ったのであり、それに驚いた日本の幕府当局者は1842年にすぐさま異国船打払令を緩和しています。この時もそれなりに迅速な対応はしているのです。
ただ、さすがにこの新事態に対してはもうお手上げ状態になってしまい、この後1853年にとうとうペリーの黒船来航を受けることにはなるのです。この時も来航情報自体は事前に把握していたのですが、どうにも為す術が無かったということなのです。
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