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日本史についての雑文その19  由比正雪の乱
さて、長らく鎖国政策について述べている間に空間的時間的にも大きく脱線してしまいましたが、このあたりで江戸時代前期の日本、すなわち幕藩国家確立期の終わりであり修正期の最初にあたる1650年付近に話を戻したいと思います。ここで由比正雪の乱というものが起きて幕府の統治方針が修正されることになったというところまで話をしていたと思います。
1651年の由比正雪の乱、すなわち慶安事件といわれる事件ですが、これは三代将軍家光の死のドサクサ紛れに全国の要所で浪人が蜂起するというもので、未遂に終わったのですが幕府に大きな衝撃を与え、この後、幕藩国家の確立期の方針であった武断統治政策は次第に撤回され、文治政治に切り替わっていったのです。

信長の構想による、兵農分離によって武士階級を土地から切り離して弱体化しての政府への権力集中は、必然的に中央集権国家へ繋がっていきます。家康に始まる江戸時代初期、すなわち幕藩国家確立期においてもその流れは受け継がれ、それが武断政治による大名取り潰し政策になって現れていたのです。
しかし、武士階級を俸禄米で飼い殺しておかねばならない構造的宿命を抱えた幕藩国家においては、大名取り潰し政策の継続は多くの浪人を社会に放出し社会不安を助長するものとなっていきました。
そもそも中央集権化は、平和な社会を築いて経済発展を成し遂げるための手段であったのですが、何時の間にかこの確立期後期においては中央集権化が目的化し、本来の目的であるはずの平和や経済発展を阻害する結果をもたらすようになりつつあったのです。
これは中央集権化が最も急速に進められた形成期の特に前期、すなわち信長や秀吉の時代の遺風の復活であり、この時代は旧文明衰退期前期でもありましたから、戦国の遺風をも甦らせてちょっとした逸脱までも引き起こしました。それが由比正雪の乱であったというわけです。
この由比正雪の乱で幕閣は肝を冷やし、確立期後期の武断政治の行き過ぎを修正していくことにしたのです。新しい文明が作られてきた本来の目的は、中央集権化ではなく、平和な世の中で経済発展をすることです。中央集権化は手段の1つに過ぎなかったわけです。そして今や、無理な中央集権化は本来の目的の弊害にしかならないのですから、新たな手段に切り替えるべきなのです。
ここにおいて幕府は中央集権化を諦め、大名領地の自治を温存することとして、幕府は天領以外は間接統治することにしたのです。中央集権国家を目指すことはやめて、自治連合国家を作っていこうという政策転換を行ったのです。自治連合国家でも平和は維持できるし経済発展も可能であると判断したのです。日本全体の経済発展が達成されれば天領からの年貢収入だけでも幕府財政を維持できると踏んだのです。
これが文治政治への転換であり、この時、幕府と藩とで構成される国家体制としての「幕藩国家」という形が固まったのです。
幕府のみが全国を支配するという当初の信長構想は修正され、幕府の支配する天領と、大名の支配する藩領とで国土が構成されることとなり、幕府と大名が共存することとなったのです。もちろん将軍は武家の頭領ですから大名は将軍の命令に従う義務がありましたし、天領は藩領に比べて圧倒的な領土と経済力を持っていましたから、大名が幕府に逆らったり取って代わるなどということは幕末に至るまで考えられないことでしたが。
幕府を中心とした中央集権国家への志向はこうしてこの時点では凍結されることとなったのですが、これはこの後、八代将軍吉宗の時代以降に悪化した幕府財政再建のために国家を一体化したシステムとして捉える見方が浮上してきて、また江戸後期の飢饉などの危機を通して再び中央集権国家を目指すベクトルが働いてくることになります。

新文明の形成から確立に至るステップで、旧文明を駆逐していくために確立期において、どうしてもこのように手法が行き過ぎる場合もあります。旧文明の影響力が消滅した後、その行き過ぎを修正しようというベクトルが働きます。その時期は文明の修正期といえばいいでしょう。江戸時代でいえばこの1651年の由比正雪の乱から1702年の赤穂浪士討ち入り事件までがこの修正期にあたるということになります。
この赤穂浪士討ち入り事件自体にはそれほど大きな歴史的意味は無いのですが五代将軍徳川綱吉の進めていた文治政治への強烈なアンチテーゼとなったという点や、この事件を機会に幕府の統治原理が法治主義的なものに変わったという点、それと相まって丁度この時期から財政再建のための改革が開始されたというタイミング的要素などから、この事件を時代の転換点として設定させていただきました。

武断政治から文治政治への切り替えという文明の修正については、まずは大名統制の手法として過度に強圧的な部分を無くしていくことから始まりましたが、次第にそれは幕府の施策方針全てにわたっての変化となって現れてきました。
それは簡単に言えば、「力による支配」から「学問による支配」への価値観の転換です。これは実際、価値観の大変な大転換であり、世界政治史上画期的かつ革命的なことだったのです。単に施策の表面上の変化ではなく、政治原理そのもの、イデオロギーの根本的変化だったのです。
それこそが、中央集権国家でなくても自治連合国家でも平和を維持し、経済発展を達成できるという見通しの根拠ともなっていたものでした。つまり、力によって押さえつけなくても、道理によって国家を統治していくことが可能なのであり、また、それが可能な時代になったのだという確信があるというわけなのです。
これほどの大変化がなぜこれほど確信をもって、スムーズに行われたのかというと、これもまた、1600年頃に既に徳川家康によって敷かれた既定路線であったからだと思われます。つまり家康は、中央集権化が成らなかった場合の統治原理についても手を打っていたのだということになります。
いや、家康は幕藩国家の本質を見抜いていたはずですから、大名を全部潰して中央集権国家を作ることは無理と見通していたでしょうから、まだ戦国の遺風が残っている期間に対応するための武断政治の準備と、その武断政治が行き詰った後に必要になってくる文治政治の準備と、2つの政治体制の準備をしてから、あの世へ行ったということになります。これは非常に驚くべきことです。
家康は戦国時代最強の野戦の名手でありながら同時にまた大変な学問好きで、非常に戦国武将らしからぬ男だったのですが、これはおそらく幼少時から人質生活を送った今川氏支配下の駿府が当時の最高の文化先進地域であり、そこで学問に親しんだからであろうと思われます。人質生活は不幸なことではあったと思いますが、これは非常に幸運なことでもありました。
そうした家康は天下人となってすぐに林羅山を儒官として朱子学を官学として推奨しました。これは一般への普及を奨励したわけではなく、主に支配階級である武士階級の身の処し方の原理として推奨したわけです。もう戦国の世ではない。力ではなく道理の時代なのだというわけです。
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