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日本史についての雑文その20  朱子学
朱子学とは、儒学の一派です。儒学というのは孔子がシナで紀元前5世紀に創始したもので非常に古い歴史を持っています。あんまりにも古すぎて、しかもシナの場合、結構言語も変わってますのでその原典の意味するところもよく分からなくなってきたので、その経典の語句の探求なんかがメインになってしまい、本来の目的である道徳の追求などが忘れられたりしがちになりました。そういうわけでシナでも3世紀に後漢が滅びて以降は、仏教や道教などに押されてしまうような時代が続きました。
そこで12世紀の宋の時代において他の宗教のエッセンスなども少々取り入れて儒学をリニューアルしたものが朱子学なのです。

儒学というものは簡単に言えば、個人個人がいかに道徳的に生きていくべきかを説いた哲学なのですが、その目的とするものは個人の道徳性の追求のみならず、そのようにして道徳的に完成された人間が政治を行えば世の中も丸く治まるという、そういう政治哲学でもあったのです。
これはなんともまぁ単純な政治思想であり、一種の人治主義的思想なのですが、朱子学も基本的にはこういう思想で、まず個人の道徳性を高めること、特に為政者の道徳性を高めることに主眼を置いていました。
その理論として陰陽五行思想を取り入れて、万物は「気」から構成されており、その「気」の根本原理として「理」というものがあるという「理気二元論」を唱えた点が新しかったわけです。今見ると格段新しいようにも見えませんが、当時はこういう考え方は最先端だったのでしょう。そういう先端思想を取り入れて儒学をリニューアルしたというわけです。
そして朱子学では、その根本原理である「理」に至るには静謐な心でなければいけないとして、その状態について具体的に書いてあるのが儒教の経典である「四書五経」であるのだから、その経典を学習すれば自然と「理」に至るのだとしました。そういうわけで、朱子学では古典学習が非常に重きを置かれたわけです。
これはなんとも分かりやすい教えで、とにかく古典を学習した者が道徳的に優れた者で、そういう人物が政治を行えば世の中は丸く治まるというわけです。
まぁ実際、四書五経に書いてあるようなことには結構な話が多く、実際にそこにあるような徳目を身につけたような人物が政治を行えばそんなに悪いことにもなりそうもないので、まぁ結構な教えでもあります。
まぁそういうわけで、14世紀に明が建国された時、この朱子学が国教として採用されたわけです。朱子学も最初の頃は経典の解釈も結構自由で、儒学の復興に大いに力になったのですが、明の国教になってからは政府によって改竄されたり解釈が制限されたりして、ひたすら体制護持の学問として硬直化して堕落していきました。
結局、真の道徳を追求する学問ではなく、ひたすら政府公認の解釈を暗記した者が科挙によって高級役人になっていくという、そういうシステムになっていったのです。

徳川家康が幕府を開いたのがこの明の最末期のあたりで、明では朱子学はその活力をほとんど失っていました。学問的にはほとんど見るべきものは無かったと言っていいでしょう。日本においては当時、この朱子学というものは、いやそもそも儒学自体がほとんど馴染みが無く、完全に外来思想でした。家康はそういうものをわざわざ取り入れて官学として据えたわけです。
家康はあくまで学者ではなく「学問好きな政治家」であり、学問好きゆえに知識は持っていた朱子学という秩序維持、体制維持には非常に便利な思想を、政治的に利用しようとしただけのことです。ですから当時の明における朱子学が学問的には停滞しまくっていたということなど、どうでもいいことだったのでしょう。
それだけ家康はリアリストであり、優れた政治家であったといえます。実際、当時は戦国の荒くれ大名達がいっぱい残っており、こういう連中を手なずけて去勢していくためには、こういう秩序維持を第一とする外来思想を浸透させていくことは有益であったのです。そして、この朱子学を使った文治政治は、そうした戦国の遺風が影響力を失った後、その本領を発揮していくことになるのです。

むしろここで注目すべきは、家康の政治家としての能力の高さです。家康は戦国を武力で勝ち抜き天下を取り、徹底的な武断統治、つまり富国強兵政策をもって新文明を建設していった人物なのですが、同時進行で朱子学を官学として採用し、文治政治への切り替え後も見越した計画を立てていたようなのです。
つまりこの幕藩国家の確立期と修正期の合わせて100年間は、全て家康の掌の上であったということです。100年先まで見通す目を家康は備えていたことになります。
凡愚な政治家であれば目先の問題にしか目は届かないでしょう。平均的な政治家なら10年先を見通すでしょう。そして優秀な政治家であれば、おそらく確立期なら確立期、修正期なら修正期のそれぞれ50年を見通した計画を立てるでしょう。
しかし、特に歴史に選ばれた特別な政治の才能を備えた政治家、徳川家康クラスの政治家は100年先を見通した、まさに「国家百年の計」を立案することが出来るといえるでしょう。
ただ、これは逆に言うと、家康ほどの天才的政治家をもってしても、その計画が有効に機能するのは100年が限界ということにもなります。100年経てば、その立案時には想像もつかないような状況変化が生じて、その計画は正常に機能しなくなり、リニューアルが必要になるのです。
いや、そうした状況変化がもし予測出来たとしても、その100年先の事態にまで対応可能な計画というものは現実的には機能しないのではないでしょうか。文学や芸術の世界の天才というものは千年経っても色褪せないということと比べれば、政治の天才というものはなんとも寿命が短いものですが、それだけ政治というものは複雑なものだということなのでしょう。
実際、家康の立てた計画は、関が原の100年後の1700年頃、元禄バブルが弾けた頃には制度疲労を起こして正常に機能しなくなっていきます。しかし、この100年で文明の命脈が尽きないところが日本史の面白いところで、必ずこの段階で文明のリニューアルが図られ、文明は更なる完成に向けて飛躍していくのです。
そのあたりについては後ほど述べるとしまして、今は修正期の最初、武断統治から文治政治への切り替えの時点から説明していきます。
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