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日本史についての雑文その21  文治政治
この文治政治への切り替えを主導したのが、徳川家康の孫であった保科正之であり、彼は三代将軍家光の異母弟であり、庶子であったため保科家に養子に出されて将軍継承資格は有していなかったが、家光の信頼が厚く、1639年に29歳にして会津藩主となって以降は幕政において家光の補佐役としてよく働き、家光の死後は四代将軍家綱を補佐して大老として幕政の実権を振るった人物です。
彼が大老となったのが1651年の家光死去の直後41歳のときであり、その後大老職を辞す1669年まで18年間幕政の中心を担い、その間もその後も領国経営にも励み、彼が領国会津にて62歳の生涯を閉じたのが1672年です。まさに彼こそ1650年から1675年の、この幕藩国家の修正期の前期25年間を象徴する人物といっていいでしょう。
この間に正之が行ったことは、不用になった武断統治を後退させて、穏やかな文治政治を導入していったことです。
大名をむやみに取り潰すことを無くし、大名の人質を取ることも止めました。殉死も禁じて戦国の遺風も廃していきました。象徴的であったのは明暦の大火で消失した江戸城の天守閣を再建しなかったことで、諸大名を威圧するような権力の象徴は不要というわけです。代わりに天下統治の手段として正之は諸大名に学問、つまり朱子学を大いに推奨し、自らの領国会津を率先して文化先進地域として大いに発展させました。
これらは家康の既定路線に則った行動であったといっていいでしょう。ただ、ここで家康がおそらく想定していなかったことは、家康が単に支配哲学としての有用性から導入した外来思想である朱子学や、それを切り口とした儒学全般が、この時代に、なんとも日本独特の発展を果たしたということです。これが後に文明のリニューアルに繫がるのです。

なぜ朱子学や儒学が日本独自の発展を果たしたのかというと、まずその大きな要因として1644年に朱子学の本場であった明が滅びてしまい、シナでは蛮族の王朝である清が立ったということがあります。
明の朱子学というのは中華と蛮族との差を強調していましたから、蛮族によって立てられたシナの現王朝には正統性が無いということになってしまいました。そうなると同時代的に朱子学の本場であるはずの中華というものは存在しないということになってしまい、自然に日本において朱子学や儒学は独自の発展をしていくしかないということになっていきました。
まぁハッキリ言って明の朱子学というのは「悪いお手本」だったわけで、そういう悪いお手本の影響を受ける心配が無くなったのは実はいい事だったのです。しかも日本には科挙というシステムも無く、それによって儒学が単なる「暗記物」に堕するということはなく、結構真面目に四書五経の内容について思索する風潮もありました。これは朱子学が本来持っていたダイナミズムでもありました。
だいたい江戸幕府は朱子学を官学とはしましたが、明のように厳しい思想統制を強いたわけではありませんので、四書五経の解釈については割と自由でした。
とは言っても勿論、湯島の聖堂学問所で教える朱子学はコチコチの権威主義に凝り固まったものであったでありましょうが、この幕藩国家修正期以降の日本はシナ大陸の明とは違い、中央集権体制ではなく地方分権体制を目指す方針に切り替わっていたので、各地方の藩では割と自由な学問が保障されていました。
保科正之なども各藩に学問の振興を推奨しましたし、自ら率先して会津藩でそれを示しました。それゆえに各藩ではこぞって儒学者を招いて学問の振興を図りました。
この場合、勿論最も率先して学問に励むのは治者たる藩主であり、学ぶ内容は治者の心構えを説いた朱子学ということになります。
ところが先述したように明の朱子学というものは実は学問的には行き詰ったものであり、そのままでは殆ど実用には堪えないわけで、しかし各藩ではこれを実際の治世に活かそうとしていたわけですから、どうしても独自の試行錯誤が必要になってくるのです。

明の朱子学がどうして行き詰ったのかというと、それが経典の解釈を体制側に都合のいいものに改竄し制限したからです。だから朱子学を現実に役に立つものにするためには、まず明時代の解釈にとらわれていては駄目だということになります。
そうなると明時代の文献は排して、経典のオリジナルにあたるべきではないかという考え方が出てきます。これが古学の考え方で、山鹿素行が創始しました。この山鹿素行の赤穂配流時代の弟子が大石内蔵助ということになります。
しかしオリジナルにあたるというのは、言うは易しですが、実際は大変なことで、それが大変で、それをやってしまうと単なる訓詁学に堕してしまうからこそ朱子学が生まれたのであって、これをやるとますます実際に役に立つ学問から遠ざかっていくのです。
ただ、明時代の硬直した朱子学を否定し、朱子学の原点である自由な経典解釈の位置に立ち返る意味で、古学のような極論を論立てすることには意義はあったのでしょう。
まぁ実際、経典のオリジナルにあたったりはしたのでしょうが、勿論それによって実際の治世の役に立つ道徳律が簡単に発見されるわけでもないでしょうから、現実的対応の部分では、結局は自由な発想で道徳律を考えていくということであったのではないでしょうか。
つまり、儒学における顕密化というような現象が生じたのではなかろうかと思うのです。顕教的には訓詁学的に経典にあたりつつ、密教的には自由な発想であるべき道徳律を考察していくというような在り方が日本儒学の形になっていったのではないかと思うのです。
こうなると実際の世の中に反映する部分はこの密教的部分になってくるのですから、顕教的部分は訓詁学的な古学でなくても、朱子学のままでもいいということにもなってくるわけで、各藩でそれぞれ、表向きは朱子学であったり古学であったりしながら、実際は割合実地的な道徳律を唱えるような儒学者が活動するようになっていきました。
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