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日本史についての雑文その22  江戸儒学
この密教的部分の自由な発想で道徳律を考えるという手法に陽明学が入り込んできます。陽明学というのは、明の時代に体制護持の学問に成り下がった朱子学に対するアンチテーゼとして起こった学派で、これはもともとの朱子学の持っていた自由な経典解釈から更に発展して、人間の心にある本来的な善の心である「良知」というものに忠実に行動することを提唱したもので、こうなるともう四書五経なども関係なく、自らの良心に従って行動することがすなわち善であるということになります。
こうなると朱子学の持っていた規範的秩序志向とはほとんど対極で、全く個人的道徳優先志向となり、非常に自由な発想が許容されるのですが、その反面、ほとんどその道徳律の普遍的な定義自体が不可能で、広く普及するような教えにはなり得ず、まぁ個人商店的なものにならざるを得ません。
そういうわけで明の時代でもこの陽明学は広く支持されるということはなく、ただ一部の革命的思想の持ち主が個人的に信奉するということが多かったようですし、実際日本でも幕末の頃には陽明学はそのような用いられ方をしました。
ただ、この陽明学の、四書五経からも離れて自由な発想で自分の良心に従って行動するという部分が、この幕藩国家修正期前期の江戸儒学形成の過程で、その密教的部分に上手くマッチしたのだといえると思います。
そうした陽明学の影響を受けた代表的儒学者が山鹿素行でありましたが、その他の各藩の治績を挙げた儒学者達も自由な発想やその行動哲学の部分では似たような部分はありました。

これはそもそもこの時代の日本人の心の有り様に陽明学のような過激思想が案外マッチしたのだと考えたほうがいいようにも思えます。
そこでよくよく考えてみれば、この幕藩国家の修正期前期の時代は、同時にまた戦国の殺伐とした旧文明の残滓期前期にもあたっており、その残滓が消えようとするまさにその時に、陽明学や儒学の中にそのエッセンスが取り込まれ昇華していったのではないかと推測されるのです。
これにより儒学の密教的部分は真に日本の伝統に立脚したものに生まれ変わり、戦国時代の遺風のリアリスティックな部分と陽明学的な行動哲学とがミックスされ、実際的な治世の学問となったのではないかと思われます。
各藩において顕教的には四書五経の素読や訓詁学的アプローチなどしつつも、実際には儒学が治世の学問として多くの成果を上げ得たのは、この密教的部分の日本的成熟があったからなのではないでしょうか。

日本的伝統や戦国の遺風によって儒学の核心部分が作り変えられたということの最も代表的な現われとしては、江戸儒学が「孝」よりも「忠」を重んじたという部分が挙げられるでしょう。こういう発想はシナ儒学には無いもので、家よりも主君、ひいては仕事を重んじるというのは日本の中世以降のオリジナルの発想で、特に戦国期にはその傾向は顕著でした。
もちろん戦国期には裏切りなどは日常茶飯事でしたから戦国武将が特別に忠義心が強かったなどということはないのですが、とにかく血族だけで固まっていても生き残れない時代であり、血縁関係など度外視して主君を中心に家臣団を盛り立てていかねばいけない時代であったことも確かなのです。そしてそのためには平気で親や兄弟も殺したのが戦国時代であったのです。
また、家より仕事優先という考え方にも通じるのですが、長幼の序や家格よりも実力主義的な登用を重視する傾向も江戸儒学オリジナルなものです。
これも戦国期にはもちろん主君といえども暗愚では主家が滅びてしまいますから、長幼の序など無関係に実力本位で選ばれていたのです。それが江戸初期の確立期後期の家光や修正期前期の家綱あたりは、そもそもこれらの将軍からして暗愚であったり幼少や病弱であったりしても将軍に就任しており、これは家康が明の朱子学を官学として導入してそれがまだ日本的に改変されていなかった時代の出来事で、シナ朱子学の長幼の序優先の秩序志向が色濃く反映された結果でした。
しかし、この修正期前期において江戸儒学が戦国の遺風のエッセンスを取り入れて成立して以降は、将軍も時によっては人物で選ばれたりするようになり、幕閣に関しても実力主義的な登用がしばしば見られるようになっていきます。

このように、この修正期前期を通じて各藩において江戸儒学は日本独自の発展を遂げていったのです。それは外来思想である儒学が日本化していく過程だったといえるでしょう。
そうして江戸儒学は表面上は朱子学や古学の体裁をとりつつ、その裏ではかなり日本的な道徳律の解釈によって結果的に実際の政治上においてもかなりの成果を上げ得るものとなっていったのです。それらの例としては熊沢蕃山や野中兼山、木下順庵、室鳩巣らが挙げられます。
このように見ると江戸儒学が政治学として昇華する兆候はこの頃から垣間見えるのですが、この修正期の頃はまだそこまでは至っておらず、まだまだあくまで儒学は個人の道徳の完成を目指すものであり、その結果、二次的に政治的成果が導き出されるのでありました。
一次的に政治的成果を求める政治学としての儒学の出現は、次の幕藩国家改革期における訓詁学を極限まで突き詰めた荻生徂徠による徂徠学の成立による顕密の一体化を待たねばなりませんでした。
そして修正期末期において、個人道徳の完成した聖人による統治によって世を治めるという人治主義思想や徳治主義思想を極限まで突き詰めた五代将軍綱吉の治世が赤穂浪士によって強烈に矛盾を突きつけられることが、その段階へ至るステップとなるのですが、それはまだ後の話です。
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