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日本史についての雑文その23  武士道
こうして見てみると、幕藩国家修正期の時期というのは、同時にまた、確立期において新しい文明を推進していた指導原理である外来思想に旧文明の残滓が取り込まれて消化されて、その新文明の指導原理を日本化していく過程なのだとも言えると思います。
これはつまり、先述したように、新文明の形成期は旧文明の衰退期であり、新文明の確立期は旧文明の解消期であるのですが、解消期末期で旧文明はその社会への影響力を完全に失いますが、それで完全に消え去るのではなく、社会に影響力を及ぼさなくなったとしても、その文明の残滓というものは残るものであり、それはエッセンスとなって人間の精神に影響を与えていくものもあるのです。そしてその後もその残滓は残り、そのエッセンスは新文明の中に取り込まれていくのです。
この旧文明の残滓のエッセンスが新文明に取り込まれていく時期が、新文明の修正期とクロスオーバーして同時進行しており、この時期を旧文明の残滓期と呼びたいと思います。
この残滓期も前半25年と後半25年に分かれているとして、旧文明の残滓期前期が新文明の修正期前期と重なっているということになります。この幕藩国家の場合、だいたい1650年から1675年の期間ということになります。

1651年の由比正雪の乱をもって戦国の遺風が消えて、荒くれ者共が歴史の表層から消え去った後でも、その旧文明たる戦国の残滓は人々の精神に残ったのであり、それが濃縮されてエッセンスとなっていった過程がこの残滓期前期にあり、この時期は特に何もトピックとなるようなことは無いのですけど、例えば陽明学の流れを汲む山鹿素行が古学を創始し、儒学の日本的発展に繋がったのはこの時期であり、後に1702年に赤穂浪士吉良邸討ち入り事件を起こした大石内蔵助がその素行の赤穂配流時期にその薫陶を受けたのもこの時期でした。
1700年に佐賀にて隠遁生活に入った山本常朝の聞き語りを編集した書物が武士道のエッセンス「葉隠」であるが、その常朝が戦国の残滓を最も吸収した若き日々もこの1650年以降の時期でありました。赤穂事件や葉隠、陽明学は幕末に少なからぬ影響を与えることとなります。
また、荒くれ者共の気風は1650年以降も庶民の中に受け継がれ、それは1673年に元禄文化の花咲く頃に初代市川団十郎の登場によって歌舞伎の荒事として復活し、江戸期の芸能文化の流れを決定付ける重要な役割を果たしたのです。

「葉隠」は武士道のテキストとして有名ですが、山鹿素行も江戸時代における武士道論の大成者として有名です。
武士道とは武士の心得などをまとめたものですが、例えば戦国時代のような武士が最も武士らしくあった時代には武士道というものは存在していません。
むしろ、戦争が無くなって武士が戦闘者としての本来の機能を発揮できなくなり、武士が武士らしく生きることが困難になり、そのまま放置しておれば武士は武士でなくなってしまうような時代において、武士道は確立していったのです。
幕藩国家の確立期あたりまでは、まだまだ戦国の世に戻る可能性もありましたし、殺伐とした気風も残っていましたから、武士の心得としては、出来るだけ戦国の遺風を忘れないようにして臨戦態勢を維持することに主眼が置かれました。
しかし、幕藩国家修正期になって、戦国の世に戻る可能性がほぼ無くなったことがハッキリしてくると、泰平の世にふさわしい武士道というものが模索されるようになりました。
普通に考えれば泰平の世になったのだから武士など辞めてしまえばいいということになりそうですが、そうはいきません。武士が武士として幕府の支配化で従順にしていることによって泰平が維持されているのですから、武士は武士のままでいなければいけないのです。
その上で、泰平の世で武士はいかにして武士としての精神を保持していくのかがテーマとなってくるのです。

よく考えれば、戦国期においても別に戦闘技術に優れているから武士は武士であったというわけではありません。農民や商人、坊主でもみんな武器を持って戦っていた時代が戦国期でしたから、武士よりも戦闘技術に秀でた農民や商人、坊主もいたわけです。
そうした中で、武士が他の戦闘者とは違っていた点は何なのかというと、それは「忠義」を持っているという点でした。主家への忠義を尽くすというのが武士の他の階級とは際立って違った点だったのです。
武士というものはもともとは同族集団で、例えば源氏や平氏というものは血縁関係で集まって一族の繁栄のために戦ったのです。つまりここで重視されているのは先祖や親への「孝」であって、「忠」ではないのです。こういう考え方が古代から東アジアではスタンダードだったのです。
こうした武士の在り方が変わり「忠」が重視されるようになったのは南北朝時代ぐらいからで、その先駆けとなった象徴的人物が楠木正成ということになります。
正成は後醍醐天皇への忠義を貫き通すために自分も含めて楠木一族を滅ぼしてしまうのです。まぁ実際は血統は残ったわけですが、正成は滅ぼしてもいいと思っていたはずです。しかも実子の正時に親への孝よりも天皇への忠を重視するよう遺言しています。
こういうことがあった後、南北朝時代から室町時代にかけて武士団の再編成が行われて、その中で「忠」が「孝」よりも重視されるようになっていき、戦国時代において、その「忠」が非常にシビアな形で突き詰められたのです。
もちろん戦国時代は裏切りなど当たり前の時代でしたが、そもそも裏切りという概念が成立するというのも、武士が主家に忠義を尽くすというスタンスが基本認識となっているからなのであって、裏切りという最終的な選択肢が許容されているというのも、その忠義が盲目的な忠義なのではなく、君主が愚かであったり弱体であったならば最終的には武士はそれを見捨てることも出来るという、主体的な忠義なのであったという事実を表しているのでしょう。

そうした武士の生き方を泰平の世で応用できないものかという考察が武士道を生んだのだと思われます。泰平の世で戦争が無くなっても、武士は相変わらず主家に仕えているわけで、たとえ退屈なルーティンワークであろうとも、戦場の緊張感をもって生命を賭して業務にあたるべきだという考え方が生まれたのです。
そういう考え方を象徴する言葉が「葉隠」の「武士道とは死ぬことと見つけたり」であり、常に死を意識した緊張感の中で日常を生きることによって、本当に充実した生を生きることが出来るのであり、それが泰平の世にあって武士が武士らしくあり続ける道、つまり「武士道」なのです。そうやって武士は武士であろうとしたのです。
つまり主家への忠義に生命を賭けるのが武士の本分であるということです。そしてそれは戦国の習いのまま、決して盲目的な忠義や組織の論理なのではなく、主体的なものであり、ある意味では個人主義的なものとなります。
主君の方針に異を唱えるということは、主君から見れば裏切りであり、許しがたいことです。しかしそれが主家への忠義であり、主家のために必要な諫言であると自らが主体的に信じるのであれば、生命を落とすことになっても、また逆に主君を害することになろうとも、それを貫き通すのが真の武士道ということになるのです。

このあたりが「葉隠」的な武士道を突き詰めたところということになります。ところが、これだけでは泰平の世の武士道としては実はまだ不足なのです。
何故なら、こういう考え方の場合、主家を安泰に強力にするために生命を賭して忠義を尽くすのが武士の本分ということになるのですが、その考え方を突き詰めると、自らの主家が他の家や幕府も押しのけて一番になることを目指すことこそ究極の武士道ということになります。これは結局は自分の主家さえ良ければいいという乱世の思考に行き着くことになります。
そこで泰平の世に相応しい武士道には「主家への忠義」を超えた「天下への忠義」が求められたのです。これを唱えたのが山鹿素行であり、素行はこれを「公共のための忠」と呼びました。
素行の社会観は、国家の基本は人民であって、藩主や君主というものは天下万民のために統治者として立てられたものであって、武士の忠義や行動は藩主や君主に向けられるよりも、人民と国家に関わる公共的目的の増進にこそ向けられるべきだという考え方でした。
このような素行の考え方は、まだこの幕藩国家修正期前期においては多数派を形成してはいませんでした。素行はむしろ先駆者であったのです。旧文明のエッセンスである戦国の遺風を新しい泰平の世に取り込んで消化していく過程がこの修正期と同時進行する旧文明の残滓期の作用であり、それは水面下で行われる化学変化であり、まだその成果が表面化はしないのです。

このように、旧文明のエッセンスが新文明の中に取り込まれて消化されていく時期が残滓期の前期であるとするならば、残滓期後期とはどういう時代であるかというと、それが水面下に潜って熟成されていく期間ということになりましょうか。
この時期は新文明の修正期後期に重なっており、幕藩国家においては1675年から1700年の間に相当するのですが、こういう感じですから、この時期は残滓期前期以上に特に目立ったトピックは存在しなくなります。
ただ、この期間を通して、取り込まれた旧文明のエッセンスによる新文明の化学変化はじわじわと進行していくのです。
素行の唱えた「公共のための忠」もまた武士道における忠義である以上、それは生命を賭けて尽くさねばならないものなのです。主君に対する以上に、天下国家のために自らが正しいと信じた道を貫き通すためには生命を捨てることも厭わないのが真の武士であるということになります。そのためには天下に向けて諫言することもあり得るわけで、しかも素行は陽明学者でもありましたから、そういう認識は行動に移してこそ真の認識ということになるのです。
そうした素行の教えを受けた門人の一人が赤穂藩の家老となった大石内蔵助でありました。この大石の中で素行の教えは残滓期後期において熟成されていき、その末期、つまり幕藩国家修正期末期の1702年に元禄赤穂事件という行動を起こし、それによってその後「公共のための忠」は武士階級に、そしてその他の階級にも浸透していくことになるのです。
戦国の遺風はこの修正期、すなわち残滓期を通じて「公共のための忠」という武士道にまで昇華し、その次の改革期以降、更なる新しい文明を作っていく原動力になっていくのです。
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