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日本史についての雑文その24  勤皇思想
この幕藩国家修正期前期の江戸儒学においてもう一つ特筆すべきことは勤皇思想の定着です。江戸幕府成立当初の文明確立期においては、幕府は皇室に対して優位に立とうと腐心し、時には紫衣事件のような皇室圧迫政策さえとることもありました。
しかし明の滅亡によって朱子学や儒学の拠って立つべき権威が消滅し、それに代わる権威として皇室が求められることになったのです。つまり朱子学の失われた「中華」の代用品として皇室が必要とされたのです。
こうした考え方は山鹿素行なども唱えましたが、最も代表的なのは、水戸学を創始した水戸藩主の徳川光圀でしょう。彼は徳川家康の孫にあたります。
1644年にシナ大陸では明が滅びて清が興ったわけですが、江戸幕府は明からの亡命者を受け入れたのです。官学である朱子学の故郷でしたから、その明の政治家や学者にはそれなりの敬意を持っていたのです。
そういうわけで幕府は明の遺臣である朱舜水らの亡命を受け入れて、光圀は彼らから満州族の清にシナ大陸が征服された過程を聞き、蛮族に征服されたシナにはもはや正統なる中華というものは存在せず、易姓革命や異民族による征服を経験せずに天皇による普遍的な統治が続いた日本こそが中華思想に基づく正統な国家であるという認識を持つことになったのです。
これもまた、旧文明のエッセンスとして受け継がれた皇室崇敬の念と朱子学との習合思想ともいえるものであり、ある意味ではこの幕藩国家修正期における儒学の日本的受容のあり方の1つということになりますが、こうした思想を基に光圀が「大日本史」の編集を開始したのが1657年のことであり、ここに水戸学が成立し、これが後に幕末に大きな影響を与えていくのです。

しかし、これはよく考えてみれば少しおかしな思想であり、確かに天皇による統治が安定的に続いてきたということ自体は素晴らしいことだとは思いますが、それはあくまで日本的意味合いにおいて素晴らしいのであって、だからといって日本が「中華」の資格を有するというわけではないはずなのです。
つまり光圀はあくまで儒学や朱子学を正当化する権威として天皇を見ているのであり、日本的なあるがままの天皇を見ているのではないのです。つまり、儒学や朱子学は幕府の統治哲学であるのですから、天皇という存在が尊ければ尊いほど、儒学や朱子学の正当性は高まり、それによって幕府の統治は確固たるものとなっていくのです。
このような水戸学的な天皇観が主流であるうちは、勤皇思想が反幕府思想に転化することはないのです。むしろ勤皇思想は幕府の権威を高める効果があったのです。だから、この時点では勤皇思想が倒幕思想と結びつくような兆候は全く無く、水戸学だけではなく、各藩においても勤皇思想は儒学と密接に結びついて受容され、「儒学者=勤皇家」というのが当時の当然のトレンドであったようです。
保科正之も大変な勤皇家でありましたし、この時代の中で人格形成を遂げた五代将軍徳川綱吉もコチコチの勤皇家であり、それが後に元禄赤穂事件を引き起こす原因ともなるのです。
そして、この元禄赤穂事件あたり、すなわち修正期末期あたりには、この水戸学的な勤皇論は武士階級に広く受容されるようになり、江戸時代後期の勤皇思想のスタンダードとなり、後に大政委任論を生み出します。
そしてまた、幕藩国家改革期に入ってから、江戸儒学の変容および完成を受けて、儒学とは別のフィールドから、また別の天皇観が提出されてくるのです。
それは、儒学のフィルターを通さずに、ありのままの天皇を見る勤皇思想であり、それを国学といいます。そして水戸学と国学という2つの異なる勤皇思想が複雑に絡み合って幕末へと進んでいくことになるのです。それについては後述します。

そしてまた、この勤皇思想というものが、先述の「公共のための忠」の武士道が尽くすべき「公共」や「天下国家」という概念の抽象性ゆえの分かりにくさをカバーする役割を果たしていくことにもなるのです。
つまり、武士が尽くすべき忠義の相手としての「公共」や「天下国家」といっても、それは主君のように顔の見える相手ではなく、分かりにくいのです。
「主家」への忠義であれば、主君の姿をイメージすることで分かりやすくなるのですが、「公共」や「天下国家」であればそれなら将軍をイメージすればいいのかというと、将軍はあくまで旗本や御家人の主君であって武士一般の主君ではないのです。
全ての武士がイメージする「公共」や「天下国家」の顔としては、将軍よりも、むしろ天皇のほうがイメージしやすいものとなっていったのです。
水戸学において徳川光圀は楠木正成を忠君愛国の人として顕彰していますが、これも単に天皇に忠誠を尽くした勤皇家としての評価というだけではなく、天皇に忠義を尽くすことを通して日本で最初に「公共のための忠」を実践した武士として高い評価を与えたということなのでしょう。
14世紀前半に生きた正成自身がそういう意識であったのかどうかは定かではありませんが、この17世紀後半という時代の最先端を行っていた水戸学的世界観においては、正成はそういう評価を与えられていたのだろうということです。
こうして武士道と勤皇思想が結びついていく下地が出来ていくのですが、それが本格化していくのは、勤皇思想が普及した元禄赤穂事件以降、次の改革期以降になってからのことです。
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