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日本史についての雑文その27  元禄バブル崩壊
こういった治世のイデオロギーの面での行き詰まりのみならず、この幕藩国家修正期の安定成長は結果的に経済財政面での行き詰まりも生むこととなりました。
どうしてそういうことになったのかというと、商業流通が発達し経済成長が続いた結果、とうとう貨幣供給量が追いつかなくなり、通貨不足により経済が失速したのです。

何故貨幣供給量が追いつかなくなったのかというと、幕府創設当初は無尽蔵の埋蔵量を誇った日本の鉱山も、実は家光の治世の末年、すなわち確立期の終わりの頃にはその埋蔵量は枯渇しかけており、それでいてその後も海外への貨幣流出、特に銀貨の流出に歯止めがかからなかったからです。
また、経済失速の原因の一つとして、商取引の混乱があります。その主たる原因は田畑の売買を禁止していたことにあります。これは土地所有者である農民の没落を防ぎ農村共同体を守り国家の基盤産業である農業を保護するための法だったのですが、このように農業の商業化が進行した時点においては、商業上のトラブルが多発する原因となってしまい、この法は単に経済成長の足枷となり商取引を非効率にし混乱させるだけのものとなっていました。

ただ、これらの原因による経済失速も、単にそれだけであれば、いつか終わりが来るはずの経済成長の終わりがやってきたというだけのことであったのですが、更に状況を悪くしたのは、このような経済成長が初めての経験であっただけに、この経済成長が永遠に続くのだと勘違いしてしまったことです。
経済が成長している間は投資すればするほど儲かりますから、商人は調子に乗って過剰投資をしていきます。それに乗せられて大名などの武士階級も華美贅沢に走り散財に精を出すようになります。
そもそも武士階級を支える領主経済は土地からの年貢収入に基づいているので商品経済が発展しても実はさほど拡大はしないのです。しかし庶民の経済は大発展して生活が向上するので、それにつられて領主経済もふくらみます。その不足分を大名や幕府は大商人から借りるわけですが、元禄の頃にはそれが膨れ上がって返済不可能になります。そうなると領主の威光を嵩に着て借金を踏み倒します。つまりこれらの借金は不良債権化するわけです。これにより貸し主の大商人は大打撃を受けます。
こういう状態の時に、元禄時代にとうとう経済が失速し、過剰投資のツケと、領主経済の崩壊による大名貸しの不良債権化によって大商家がどんどん倒産していきます。これにより経済は大混乱となります。つまり元禄バブルの崩壊です。
これにより領主経済や幕府財政の不足分を貸してくれていた大商家が潰れてしまい、潰れなかった商家も不良債権化を恐れてもう大名貸しをしてくれなくなり、途端に領主経済や幕府財政も逼迫します。だいたい、そもそもやたらと年貢の税率を引き下げたものですから幕府や領主の収入自体減っていたのですから。かといってここで税率を引き上げれば、ただでさえ失速した経済の再生を阻害してしまいますから、それも出来ません。
こうして領主経済が逼迫すると、それによって支えられている一般武士の生活が打撃を受けます。そもそも周囲の経済発展に比べて取り残されていた感の強かった彼らの経済力が更に領主からの締め付けを受け、リストラの危機にまで晒されるようになりました。

これらの経済失速の原因や経済混乱の原因を見ていくと、これらは全て、家康の国家百年の計がとうとう制度疲労を起こして時代の変化に対応出来なくなってきたことによるものだということが分かります。
イデオロギーの行き詰まりにしても、家康の導入した朱子学の限界がここに来て露呈したものであり、これも国家百年の計がとうとうその百年の寿命を迎えたということなのです。
保科正之にしても徳川綱吉にしても、家康路線の後継者でしかないのであって、この修正期の終わりの行き詰まりの時代にあっては、今までの常識にはとらわれない発想の持ち主が必要とされたのであり、そういう人物が次の改革期の扉を開いたのです。
それが1696年に勘定奉行に抜擢された荻原重秀であり、また柳沢吉保に仕えた政治顧問の荻生徂徠であったのですが、彼らの行った改革については次の改革期において述べます。

ただ、こういう文明再生のための改革期を担った人材を実力本位で登用したのは五代将軍綱吉であり、綱吉にこのような行動をとらせたのはそれに先立つ修正期前期における江戸儒学の日本的発展があったためなのであり、その江戸儒学の日本的発展に大きな影響を与えたのが、まさに消え去ろうとしていた戦国の遺風、旧文明の残滓であったのです。
すなわち、修正期前期は旧文明の残滓期前期にあたるのであり、そしてこの綱吉の時代、つまり修正期後期は旧文明の残滓期の後期にもあたるのです。修正期前期において新文明に取り込まれた旧文明のエッセンスは、ここで新文明の危機を救う働きをすることになったのです。
こうした旧文明の残滓の助けも得て、この修正期末期に起きたある事件をきっかけとして、新文明の統治原理は一段階上へステップアップして完成へと至るのです。そしてそこから更なる新しい文明が誕生してくることになるのです。
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