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日本史についての雑文その29  公共のための忠
そうした天下への生命を賭けた忠義を貫く武士道の実践者としてこそ、江戸の庶民達は赤穂浪士たちを「武士の鑑」と喝采をもって誉めそやしたのです。
庶民たちは馬鹿ではありません。綱吉の政治が理想主義的かつ形式主義に走り、実効性を伴っていないことを分かっており、不満を持っていたのです。また経済政策にも不満が溜まっていました。そういう中で幕府に対して生命を賭けて諫言した赤穂浪士に庶民は共感したのです。

もちろん赤穂浪士の言い分にもおかしなところはいっぱいあるし、江戸庶民の心情にも無責任なところは多々あります。
彼らの言い分が正しいというわけではないのです。ただ、儒学で言うところの聖人君子など現実には存在せず、為政者の判断が絶対などということはないのです。どんな善政でも不満を持つ人間は必ず存在するのであって、そういう人間の意見を聞きつつ、意見の遣り取りをしていく中で政治というものは行われるべきなのです。そのための正当なルールをしっかりと定めていなければ、このような暴力的な抗議行動が突発的に起こることは避けられないのです。
それを幕府当局に知らしめるために生命を投げ出したからこそ、庶民は赤穂浪士の行動を「義挙」だと誉めそやしたのです。
歌舞伎の演目の「忠臣蔵」と現実の元禄赤穂事件とは全く別物です。歌舞伎のほうは後世に作られたもので、幕府も幕政への抗議物語の上演を許可できるはずもなく、過去の出来事になぞらえた主君への忠義物語であるから上演を許可したのであって、実際の元禄赤穂事件は主君への忠義物語ではなく、幕府の失政への抗議によって天下への忠義を示した「義挙」だったのです。
単なる忠義物語を庶民は「義挙」とは言いません。むしろ、この後の江戸時代の歴史において庶民によって「義挙」と称えられるのは、打ちこわしや百姓一揆の類や、例えば鼠小僧治郎吉のような義賊の行動など、アウトロー的行動ではあるが、政治の乱れなどに対する抗議的意味合いを含んだ行動が多いのです。
赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件は、そうした抗議行動としての「義挙」の最初の事例として強烈なインパクトを庶民に与えたのです。この事件は、その後の江戸時代後期の打ちこわしや百姓一揆のひとつのモデルとして歴史的意義があるのかもしれません。

もちろんこの事件が影響を与えたのは庶民だけではなく、最も大きな影響を受けたのは武士階級でした。この赤穂浪士の行動が強烈なインパクトをもって「武士の鑑」として定着していくにつれて、この後の幕藩国家改革期以降、この赤穂浪士の実践した「公共のための忠」が武士道の主流となっていったのでした。
これには他にも改革期における色々な要因が関係しているのですが、とにかくこれによって真の意味での「武士道」というものが確立し、武士階級に広く普及していくことになり、それが江戸時代後期の幕府や藩の改革政治を支え、幕末期の各藩の有司や、藩の垣根を超えて天下国家を憂えた志士を生み出すことになるのです。

このように赤穂浪士の行動は、もともと生命を捨てる覚悟での幕府への諫言であるのですから、幕府としては粛々と彼らを処罰して、その上で彼らの抗議内容を検討していけばいいわけです。
ところが、この討ち入り事件を受けて、幕閣の多くは赤穂浪士側を褒め称える傾向を見せ、この罪を問わず赦免し、逆に吉良家やその後ろ盾の上杉家のほうを処分すべしなどという論理が展開され、将軍綱吉も一時期、そうした論に傾いたりもしたのです。
どうしてこういうことになったのかというと、幕府としては将軍綱吉の判断でなされた浅野家取り潰しの判断を不当とする抗議行動の存在を認めたくなかったからです。
だから、赤穂浪士の討ち入りは幕府への抗議のためではなく、亡き主君の仇討ちであるということにしてしまおうとしたのです。しかし、そうなると困ったことになるのです。
つまり、この修正期に綱吉が推し進めてきた江戸儒学を基本とした政治は「有徳の人が政治を行えば善政となる」という人治主義であり、しかもそれがあまりに実質と乖離していたがために形骸化し形式論に堕しており、そうであるからこそ余計に、実質を問うことよりもその建前論を守ることに固執するという悪循環に陥っていたのです。
この論理に当てはめると、亡君の思いを果たすために仇討ちをするという行為はこれ以上ない「忠義」であるので、江戸儒学においては赤穂浪士こそ「有徳の人」ということになるのです。
しかし実態は人殺しであり、そういう者共を取り締まるのが政府の本来の役目で、本質的にはそうした戦国期の野蛮な行為を終わらせるために幕府が出来たのであり、江戸儒学にしても元々はその幕府制度を支えるために存在しているはずですから、ここでこの人殺し集団を赦免してしまったりしたら全く本末転倒なのですが、建前論としての江戸儒学の人治主義を守るためには、赤穂浪士が「忠臣」「有徳の人」であるならば称揚しないわけにもいかないのですし、それどころか、彼らを誉めそやすことで緩んだ風紀を引き締めるために利用しようという考えも出てくるのです。
今まで綱吉が奨励してきた江戸儒学の教えに従う限り、こういう考え方が出てくるのは自然なことであり、幕閣の多くまでもこんな考え方を支持したというのも、それだけ綱吉の思想が浸透していたという証拠でしょう。
しかし同時に、ここで浪士側が「有徳の人」として処分されず、吉良側のみが潰されて、それで喧嘩両成敗だとするならば、最初の浅野内匠守への処分が片手落ちだったと認めることになってしまうのですが、そもそもその処分を下したのも綱吉なのです。そうなると今度は綱吉が「有徳の人」ではなくなってしまいます。
いや、もともと喧嘩両成敗などという戦国期の遺風のような制度を認めない、あるいはそもそもあの事件を喧嘩であると認めないからこそ、綱吉は浅野のみを処分したのであって、討ち入り事件を受けていきなり喧嘩両成敗的な解決をしてしまっては、そもそも綱吉の基本方針自体が全く間違っていたということになってしまいます。

つまり、実質的には綱吉は一定のルールに則って法治主義的に幕政を執り行っているのであり、浅野家に対する処分に不備があったとするなら、それはシステムの欠陥なのであって、綱吉に欠陥があるわけではないのです。
同様に、赤穂浪士もシステムの不備によって生じた混乱要因なのであって、彼ら自身がそのシステム不備を警告してくれているという意味では忠義の士ではあるのですが、決して幕閣が誉めそやすような「有徳の人」なのではないのです。
このように、元禄赤穂事件を単なる主君の仇討ち事件と捉えると、幕藩国家修正期のイデオロギーであった江戸儒学の人治主義思想の矛盾に突き当たり、どうにも処分のしようがなくなってしまい、かといってこの事件に正面から向き合えば、それは人治主義思想の否定につながってしまうのです。

こうした修正期末期の行き詰まりを象徴する事態の最中、ひとり「天下の法を曲げることは出来ず。赤穂浪士には武士の体面を重んじた切腹を申し付けるべし」と主張したのが、側用人の柳沢吉保の政治顧問であった荻生徂徠でした。そして将軍綱吉もこの意見を採用し、赤穂浪士は切腹となったのです。
徂徠はつまり、この元禄赤穂事件を人治主義的に解釈することはやめて、天下の政治は聖人君子によって機能しているのではなく、あくまで法というシステムで機能しているのであり、その法に違反した以上、赤穂浪士は処罰しなければいけないとしたのです。
これだけなら、単に赤穂浪士は処分され損のようですが、聖人君子は絶対的存在で間違いなど起こさないのですが、法は相対的存在であり、そのシステムには不備があり得るものなのです。だから人治主義を撤回させて法治主義を採用させた時点で、赤穂浪士は目的の半分は達成しているのです。
聖人ではなく法によって判断された結果に対して、このような討ち入り事件のような逸脱が起きた以上、そのシステムに何らかの不備があったのではないかと検証されるのは必然であり、そしてその結果、後に浅野家は再興されることとなったのです。大石の子孫も再興された浅野家に召抱えられることとなりました。
ここにおいて、江戸儒学の人治主義よりも法治主義のほうが優位に立つことになり、個人道徳の追求によって理想の政治を目指すという幕藩国家修正期のパラダイムは崩れ去り、政治は法とシステムと、様々な意見を持った人間同士の遣り取りによって積み上げられていくものだという考え方に変わっていくことになったのです。
つまり、ここで徂徠が言っている「天下の法」というものは絶対権力によって押し付けられるような制定法ではなく、伝統や経験によって積み上げられていく慣習法のことなのだといえます。慣習法が聖人や絶対君主の判断よりも優先されるべきであるというのが徂徠の意見であり、これにより、次の改革期において、外来の朱子学的な人治主義の行き過ぎを排して、日本古来の伝統と常識に則った「法による支配」が復権するきっかけとなったのです。
こうして江戸儒学は単なる個人の道徳律から政治学へと昇華していく道が開かれたのです。その道を開いたのがこの元禄赤穂事件における大石内蔵助ら赤穂浪士の行動であり、それを引き継いで更に試行錯誤していくのが次の改革期における荻生徂徠なのです。
その徂徠の登場も含めて、この元禄赤穂事件が修正期の幕を下ろし、次の改革期を扉を開いた事件であったと位置づけたくなるのはこういった脈絡なのです。

この、綱吉によって推進されて赤穂浪士によって止めを刺された修正期後期を一言で言うと、「安定成長の中で形式主義による退廃が生じ文明が行き詰る時期」ということになりましょうか。ただ、ここで文明の命脈が尽きるわけではなく、ここから文明は再生を果たしていくのです。
そうした文明の再生していく過程である改革期において重要な役割を果たすのが、1つ前に存在した旧文明のエッセンスなのです。ここで出てきた赤穂浪士にしても荻生徂徠にしても、それらの表れ方は全く正反対の存在ではありますが、旧文明のエッセンスが新文明の中で消化されて表れてきたものなのです。
文明はその確立期や修正期には外来のものの影響を受けた新しい文明原理によって成育していくのですが、修正期の終わりにそれが行き詰まり、そこで日本古来の伝統に則ったものが現われて復権してくるのです。
そうした下地の上に更に改革期において一旦、確立期前期への原点回帰が掲げられ、そこから新たな方法論が探られていくことになるのです。
そうした試行錯誤の中から、更なる新しい文明が生まれてくるのであり、その新しい力によって現文明の再生を成し遂げていくのです。
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