KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その31  荻原重秀
この幕藩国家改革期前期においてまず急務であったのは元禄バブル崩壊の収拾と失速した経済の再浮揚、そして幕府財政の再建でした。1696年に勘定奉行に抜擢された荻原重秀はそれらに取り組みました。
荻原重秀は大名の家格などではなく一介の御家人身分から現代の財務大臣ともいえる勘定奉行にまで抜擢された人物で、大変に有能な人でした。それゆえ非常に敵が多かったようですが、後ろ盾であった綱吉が1709年に死去した後も罷免されることなく、結局は1712年に罷免されるまで16年間も勘定奉行を続けることとなったのも、彼に替わるほどの人物が無かったからだと言われています。

元禄バブル崩壊の主な原因は2つあり、1つは経済失速で、もう1つは過剰投資、つまりあまりにも野放図な経済状況でした。重秀が主に取り組んだのは前者の経済失速の原因の解消でした。これは典型的な積極財政政策ということになります。安定成長の勢いを殺すことなく財政再建を果たそうというもので、言うなれば「成長なくして改革なし」というところでしょうか。
その経済失速の原因の主要なものは先述したように、土地売買禁止政策を原因とする経済取引の非効率と、鉱物資源の枯渇および銀貨や銅貨の海外流出による通貨供給量不足でした。これらの問題点を解決するのが荻原重秀の経済改革政策の柱でした。
ここで重秀は家康の国家百年の計を乗り越える思い切った施策をどんどん繰り出していきます。まず、幕府の従来の大方針であった田畑売買禁止措置を事実上とりやめました。といっても田畑永代売買禁止令を撤廃したというわけではなく、この法令違反の取締りをするのをやめて空文化したのです。だから大っぴらに土地の売買取引がなされたわけではないのですが、質流れが黙認されたことによって事実上土地取引は黙認されたことになり、商取引上の混乱はこれによって減りました。
ただ、これによって修正期までなんとか堅持してきた自作農中心の農村共同体のスタイルが崩れ始めることとなり、この頃から小作農が増加するようになりました。これは、これだけ貨幣経済が浸透した状態で田畑売買禁止措置を緩めればそうなるのは当然のことであり、そういった農村の変質を招くことは重秀も予想は出来ていたはずですが、それを承知の上でもこういった措置を取らざるを得なかったぐらいに貨幣経済が発展してきたのだと言えるでしょう。
これは土地取引に関しては法令よりも個人間の契約を優先するということであり、これは非常に画期的なことで、個人契約優先主義の近代的経済関係が日本で初めて登場したということになるのです。これによって日本経済はこの後大進化を遂げることとなります。ただ、その経済の大進化に従来の社会体制や政治体制が次第についていけなくなっていくのですが。

一方、通貨供給量不足については、鉱山の大増産は見込めそうにありませんし、銀貨や銅貨の海外流出を制限することは貿易の縮小に繋がり、貿易は幕府財政の収入の重要な要素でしたからこれを制限することは幕府財政の再建方針と矛盾します。
そこで重秀が考えた解決策というのがこれまた前代未聞のもので、「政府に対する信用と社会の安定があれば通貨は貴金属でなくてもいい」という原理を発見して、通貨の金銀含有量を下げて数を増やすという貨幣改鋳を行ったのです。
重秀はこの時「瓦でもいい」と言い放ったそうですが、現在では各国が紙幣を発行しているわけですから、この重秀の発見した原理はごく当たり前の原理なのですが、17世紀末当時は世界史的に画期的な発見だったのです。まぁモンゴル帝国が紙幣を発行していたのが例外ではありましたが。
というか、この時代まで世界中でも「政府に対する信用と社会の安定」というものがしっかり存在した社会というものがほとんど出現していなかったので、そういう原理を思いつく環境や条件というものがそもそも存在していなかったのです。これは江戸時代という安定した社会の出現によって初めて発見可能な原理だったといえるでしょう。
これによって通貨供給量を幕府が自在にコントロールすることが可能になったのです。通貨供給量を政府がコントロールすることによって、経済の動向をコントロールするということは現代においては当たり前に行われていることですが、世界史的に見ても重秀のこの改革は大変に先進的なものでした。
つまり重秀は単に通貨の量が足りないから金銀含有量を減らして通貨の数を増やしたのではなく、それによって経済動向をコントロールするという明確な意思を持っていたということなのです。そこまで考え至っていたゆえに天才的だったといっていいでしょう。
重秀は、元禄バブル崩壊の原因を解明し、それが家康以来の祖法の限界にあると見抜き、それを超える新発想で解決策を示すだけではなく、更にその上を行く新たな独創的経済政策を編み出したのです。

何故そういい切れるのかというと、金貨と銀貨とでわざわざ含有量に差をつけたからです。しかも何度も試行錯誤して含有量の差の最適値を求めたのです。つまり何らかの明確な狙いがあったということです。どのような狙いだったのかというと、日本経済全体のマクロ的なコントロールを志向していたのです。
日本という国、九州から東北に至る日本列島は実質的には江戸幕府が開かれて初めて統一されたということは先述しました。それ以前は東日本と西日本は半ば外国のようなものでした。それが江戸幕府が開かれて政治的には統一されたのですが、経済的にはまだまだ外国のようなもので、基軸通貨が違っていたのです。
東日本は金貨が基軸通貨、西日本は銀貨が基軸通貨だったのです。つまり日本は東日本の金経済圏、西日本の銀経済圏の2つに分かれ、それぞれの通貨が変動相場制で取引されていた状態だったといっていいでしょう。
何故こんなことになっていたのかはよく分かりません。とにかくもともと別々に自然成育してきた経済圏だったのです。しかし政治的に統一されて経済的に別々というのも何かと不都合です。この時点で具体的に不都合であった点は、東西の経済格差の問題でした。
もともと日本という国は西から発展してきた国なので、江戸時代までは西日本のほうが経済的に強かったのです。江戸時代前期でも元禄文化などは上方、つまり大坂や京都中心に発展していました。この時点でも日本の経済や物流の中心は上方だったのです。
一方、江戸は幕府開設当初は寂れた農村だったのですが、やはり幕府が置かれている政治の中心地ですから、どんどん人が増えてきて、元禄の頃には人口が百万人近くなり日本第一の消費エリアになってきたのです。
ところが江戸周辺にはそうした巨大人口を養うほどの豊かな生産地というものは無く、物資は上方から運んでくる必要があったのですが、とにかく上方のほうが経済力があるので上方の基軸通貨である銀のほうが強いのです。つまり銀のほうが金より常に高いわけで、江戸の金で支払いしても銀で支払いする場合よりも少ない物品しか手に入らないわけです。
この銀に対する金の弱さが、なかなか東西経済格差が埋まらずに江戸がいまひとつ経済的に発展しない原因でした。そして日本経済全体で考えても、江戸というせっかくの世界有数の一大消費エリアのメリットを活かしきれていないということは大変に非効率なことであり、まだまだ江戸幕府は日本という国の潜在的経済力を十分に引き出せていない状況だったといえます。
つまり荻原重秀による貨幣改鋳は、単に通貨供給量を増やすためだけではなく、金貨の金含有量に比べて銀貨の銀含有量を下げることによって人工的に銀を弱くし相対的に金を強くし、それにより上方の経済と江戸の経済の格差を減らし、上方の物品が江戸に大量に流れるようにしたのです。
これは日本経済の一大構造改革であり、これにより後に江戸は経済的に大発展していくことになり、日本全体の物流の規模も拡大しました。
江戸幕府開設後、江戸時代前期を通して東日本のフロンティアの開拓が進められ、それはほぼ開拓され尽くしたと思われていた頃だったのですが、こんなところにまだ手のつけられていないフロンティアが存在していたのです。重秀の経済改革は隠された新たなフロンティアを発掘し、経済の行き詰まりを打開しようという試みだったのです。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。