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日本史についての雑文その32  新井白石
荻原重秀の経済改革はこのように大変に斬新なものであったのですが、特にこの貨幣改鋳というのは実際にやるとなると経験則が必要で、一歩間違うとインフレを引き起こす危険なものでした。
案の定インフレが起きて、インフレである程度物価が上がると経済は勢いがつきますが、物価が上がりすぎると庶民の生活を圧迫します。そうなると怨嗟の声は勘定奉行の重秀に向きました。

また金銀含有量の調節についても、東西経済格差のバランスを取る絶妙の比率を発見するまでに試行錯誤があり、その間何度もトラブルが起きましたし、その決定プロセスに両替商人を介入させたために重秀には汚職の嫌疑もかけられました。まぁ実際汚職もあったのかもしれませんが。
そうした不満の声が高まる中でも、1709年に綱吉が死去した後も跡を継いだ六代将軍家宣も重秀を信任したので重秀は勘定奉行にとどまり経済改革を進めていたのですが、1712年に家宣が死去して幼少の七代将軍家継の時代になると、新井白石らによってとうとう重秀は罷免されてしまいました。
荻原重秀の経済政策は、あまりにも先進的すぎて、この路線を突き進んでしまうと、日本は貨幣経済至上主義の商業優先国家になってしまうのです。現代的視点で見ればそれで何も問題は無いと思われるでしょうが、当時は家康以来の農業を基本とした国家を志向する政治が主流でしたから、基本的に重秀を敵視する人が多いのは当たり前だったのです。それに加えて重秀が成り上がり者であったので嫉妬などもあり、最終的には追い出されてしまったのです。
ただ、後に世の中は結局は重秀の予想した通りの展開をして、商業が農業を凌いでいくことになり、重秀の経済政策は見直されていくことになるのです。同時にそれはまた、社会の根本的な変質を意味し、幕藩国家というものの根本が揺らいでいく過程でもあったのですが。しかしこの時点ではまだそこまでは事態は至っておらず、弾き出されたのは重秀のほうだったというわけです。

荻原重秀を追放した後に経済立て直しと幕府財政再建を担ったのは新井白石でした。
白石は儒学者で、六代将軍になった家宣が甲府藩主だった頃に仕官しており、家宣が将軍になった時に一緒に江戸城に入った側近でした。白石は幕府機構においては無役であり、側用人が家宣と白石の間を取り次いで政策を諮問したといいます。
重秀を追放したのは白石でしたから、自然と白石の政策は重秀の政策の否定ということになります。貨幣は重秀の改鋳以前のものに戻されました。インフレと商人との癒着で評判が悪かったからです。しかしそうなると相変わらず通貨供給量不足ということになります。そこで白石が考えたのは、通貨供給量が増えないのなら、通貨消費量を減らせばいいというものでした。
通貨というものは普通は天下の回り物で簡単に消えたりはしないのですが、貿易によって海外に流出すれば消えていくのと同じです。では何故この当時、通貨、特に銀貨が海外に流出していったのかというと、幕府が行う長崎貿易において日本側の輸出品として銀貨以外に目ぼしいものが無いという不均衡貿易となっていたからです。
言い換えると、それだけ日本の銀というものが海外ではニーズが高かったということなのですが、おかげで当時の日本の国際収支は完全にマイナスであったということになります。
こうした「国際収支」という概念を最初に問題視したのが白石だったのです。それまでは長崎貿易は幕府財政の重要な収入源という認識はありましたが、日本という国家全体から見れば通貨流出によってマイナス面が大きいという観点でその解決に乗り出したのは白石が最初でした。これもまた画期的な発想の転換でした。

ただ、白石のそうした問題意識自体は素晴らしかったのですが、その解決策は至って消極的なもので、長崎貿易の総量規制、つまり削減でした。
確かに貿易自体を縮小すれば銀貨の海外流出額も少なくなりますが、本質的には不均衡な貿易構造の是正こそが必要なはずなのです。白石もそのことには気づいていたようですが、そこに手をつけるに至る前に白石が失脚してしまったのでしょう。
むしろ問題は白石の幕政における権限の小ささによって、こうした白石の改革が全て中途半端なものに終わったことです。将軍のお気に入りだからといって絶対的権限を振るえるというほど、江戸時代の日本は独裁専制国家ではなかったのです。家光期以降は幕府機構は複雑な官僚機構となっていましたから、その中で無役の白石の立場は非常に弱いものでした。
そもそも海外貿易は家康以来、幕府財政の重要な財源でしたから、これを削減するとなると幕府内で抵抗勢力が多いのも当然です。そういうわけで白石の長崎貿易削減案は中途半端なものとなり、大して銀貨の海外流出は減らなかったのです。
そうなると、もともと貨幣の再改鋳によって重秀以前の状態に戻して通貨供給量を減らしていますから、日本国内では完全に通貨不足状態となり、深刻なデフレが発生し、ひどい不景気となりました。
デフレですから当然ながら米価も暴落し領主経済、ひいては幕府財政も圧迫しました。そのうえ長崎貿易もいくぶん縮小しているわけですから、貿易による幕府収入も減額し、幕府財政は深刻な状態となってしまったのです。
結局、新井白石の経済改革政策は、「国際収支」という概念の導入など先進的なものもありましたが、荻原重秀の積極経済政策の否定から始まったために、どうしても消極的、後ろ向きなものになりがちであり、その上に、白石自身の政治的立場の弱さによって改革が不徹底なものにならざるを得なかったことによって失敗したのだと言えます。
綱吉以来続いてきた側近政治の限界がここにきて露呈したといってもいいでしょう。時代は強力なリーダーシップを求めていたのだといえます。
このような失政の末、1716年に幼君の家継が死去し、秀忠直系の血筋はここに断絶し、紀州から八代将軍徳川吉宗を迎えることとなり、同時に人事が一新され、白石は更迭されることとなったのです。
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