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日本史についての雑文その33  徳川吉宗
ここまで、だいたい1700年から1725年にかけての幕藩国家改革期前期のうち、15年ほどの試行錯誤を見渡してみました。この改革期前期はだいたい試行錯誤の時期ですから、まぁこんなものでしょう。ここから残り10年ぐらいでやっと方向性が定まって改革が軌道に乗ってくるわけです。それを担うのが八代将軍吉宗であり、その改革政治を享保の改革といいます。
吉宗以前に改革に挑んで失敗した2人の天才が荻原重秀と新井白石でした。彼らはそれぞれ前代未聞の発想を持った改革者であったのであり、非常に有能な人間だったのですが、言わば彼らは能吏ではあっても政治家ではなかったのだと言っていいでしょう。
政治家とは、まずは政治力というものを駆使して自らの権力基盤というものを自らの手で固めて、その基盤の上で自らの為すべきことを為すものなのです。権力基盤を固める方法は、それは道義による場合もあれば金力による場合もあり、正攻法もあれば奇略による場合、表もあれば裏もあるわけで、それらを全て清濁合わせ呑み取り混ぜて為す政治家というものが真に政治力のある政治家なのでしょう。
そういう意味では重秀や白石は政治家ではなく、重秀は官僚で、白石は学者に過ぎなかったのでしょう。そして徳川吉宗は色々な意味で非常に政治力のある政治家だったのであり、それが重秀や白石と違って、吉宗が幕藩国家の改革を成功させることが出来た要因であったと言っていいでしょう。

まず吉宗には時間が十分に与えられていました。政治というものは手間のかかるもので、特にこの時代のような根本的改革が求められていた場合は、改革にはじっくり時間をかけられたほうが有利だったのです。性急では事を仕損じるのです。
吉宗は33歳で将軍となった1716年から1745年まで将軍に在任していましたし、その後も大御所として1751年に死去するまでも含めると、実に35年間も幕政を総覧する立場にありました。この35年の間、彼は最高権力者として誰からも罷免される恐れもなく、自由に実権を振るうことが出来たのです。

この35年間のうち、だいたい前期を使い吉宗は修正期の失政の建て直しを行い、後期には新しく生じつつあった社会変動への対処も行いました。そういう意味で同時に2つの時代に対応した家康と類似した部分もあります。
また、この吉宗の作り上げた新しい統治システムは、吉宗の死後、松平定信の寛政の改革の失敗によって破綻するまで、およそ50年ほどは通用したのです。これは江戸時代においてはその建設したシステムが100年通用した家康・秀忠コンビに次ぐ通用期間の長さであり、やはり吉宗は江戸時代において家康・秀忠に次いで偉大な政治家だったといえるでしょう。更に吉宗に次ぐのが保科正之、次いで田沼意次あたりでしょうか。このあたりまでが江戸時代の五大政治家というところでしょうか。

また、吉宗は重秀や白石とは違い最高権力者であったので、幕政全体を総覧することが出来ました。重秀や白石のやった改革とは、結局は経済改革や財政改革に限られていたのですが、吉宗はあらゆる分野に取り組むことが出来ました。そしてもちろんあらゆる分野において絶対的な決定権者として君臨することが出来たのです。
この時代の行き詰まりは、経済政策や財政を多少いじっただけでは根本的には解決しない構造的問題がその本質の姿でしたので、強力なリーダーシップを持ったカリスマ的な最高権力者によるトップダウン方式のほうが、重秀や白石のような組織内の能吏主導改革よりも、断然有利だったといえるでしょう。だからこそ吉宗が将軍に選ばれたのであり、吉宗にはそういう役割が期待されていたのだといえます。
吉宗に何故リーダーシップがありカリスマがあったのかというと、それはまず何といっても血統の問題があります。江戸時代は、いや今でも政治家の世襲など当たり前なのですが、やはり血筋によって正統性が保障される時代でしたから、毛並みが良いということは政治力の重要な要素だったのです。
とにかく吉宗は当時存世していた徳川氏の中では最も家康に血統的に近い人でした。その上、33歳の若さでありながら既に紀州藩の財政を再建させた名君としての実績を持っていました。これでカリスマ性が無ければどうかしています。
特にやはり、家康に最も近い血筋というのは、江戸時代においては家康は絶対的存在でしたから、これだけで大変な威光を発揮するものでした。
ただ吉宗が決して血筋だけの男でなかった点は、このアドバンテージを最大限に利用したことです。つまり自ら意識的に家康の再来として振舞ったのです。

吉宗は将軍に就任してすぐに幕政の人事を一掃し、新井白石をはじめ自分を推挙してくれた人も含め全員追放し、綱吉以来の側近政治を廃して家康の頃のように将軍親政に戻しました。そうやって権力を自分一人に集中して改革を効率的に進められるようにしたのです。
その上で更に自分の権威を高めるために、神君家康公の権威を徹底的に利用したのです。
いつしか華美贅沢になった風潮を戒め、初代家康の頃の質実な気風に戻すように命じて幕政を引き締めました。そのためにまず自分が率先して範を示し、贅沢な服装をやめて木綿の着物を着て、質素な食事を摂り、鷹狩りをよく行いました。
こんなもの、ただのパフォーマンスだと思われるかもしれませんが、パフォーマンスを有効に行えるところが政治家たる所以なのです。官僚や学者がパフォーマンスをしても何ほどの効果はありませんが、政治家が、それも最高権力者が行うパフォーマンスにはそれなりの効果があるのです。それを意識して行えるところが吉宗の政治力の高さの表れだといえるでしょう。
だいたい、鷹狩りなどは、それを趣味にしていた家康を完全に意識したパフォーマンスで、これは幕府開設当初の原点回帰方針を誰にでも分かりやすく周知させる格好のパフォーマンスでした。
つまり吉宗は、幕政の行き詰まりを打開するためには幕府設立当初の原点に戻るべきだというスタンスを示したのです。現状が行き詰っているからといって闇雲に過去の政策を全否定してひたすらに目新しいアイデアに飛びつくのではなく、原点回帰こそ求められるというわけです。
ただ吉宗がひたすら懐古趣味に走っていたのかというと、決してそういうわけではなく、そうしたほうが自分への求心力が高まるという計算ずくだったのだと思います。
最も家康に血筋の近い自分が家康のライフスタイルを模倣することによって、自分を家康の分身であるかのように演出して、自分の意見こそが幕府における最も正統派の意見であるという、一種の自己絶対化を図ったのでしょう。
こうした自己の家康化はあくまで表面的なもので、実際の政策まで家康の模倣をしたわけではないのです。だから吉宗はあくまで象徴的に家康の権威を利用しただけで、単なる懐古趣味や先例至上主義の人ではなく非常にしたたかな政治家であったといえるでしょう。
吉宗は幕藩国家確立期前期への原点回帰をスローガンとはしましたが、それはあくまでシンボリックなもので、シンボリックであるからこそ効果的であるということを熟知していたのでしょう。そして実際の政策については相当自由な発想で行ったのでした。
改革期においてはこうした柔軟性がまだあるのですが、これが後の変質期の末期以降になってくると、実質的な意味での確立期前期への回帰が求められるようになってしまうのであり、それが幕政の行き詰まりを助長していくことになるのですが、それはまた後の話になります。

さて、吉宗の実際の政策、特に初期の政策はむしろ、家康ばりの武断政治というよりは、綱吉の文治政治のような徳治主義的な善政を志向したものが多いといえます。
賄賂を禁止し不祥事を厳しく処罰し、大岡忠相をはじめ有能な人材を登用し、そうした人材登用を効率的に行えるように足高の制を定めました。これはつまり、幕府役人の役職手当にあたる俸禄の昇給を役に就いている期間のみとした制度です。
また目安箱を設置して庶民の意見を聞き、それを反映して江戸町火消しを編成したり小石川養生所を設立したり、また、裁判制度を改正して未決者の入牢を禁止したり、いかにも徳治主義的なきめ細かな善政を行いました。
実は吉宗は綱吉を大変尊敬していたとも言われますが、結局吉宗は自分の求心力を高めるために家康の武断政治復活というイメージ戦略を多用しつつ、更に綱吉的な文治政治にも肯定的な姿勢を見せることで、より幅広い支持を取り付けて、改革断行のための足元固めを図っていたのではないかと思います。
実際、1716年に将軍に就任してから5?6年は吉宗はこうした善政とイメージ戦略、幕政の刷新など、権力基盤を固めることに腐心しています。吉宗ほどの政治力のある政治家が、いや政治力があるからこそなのかもしれませんが、これだけ用意周到に慎重に準備を進めているということは、それだけ吉宗の行おうとしている改革が困難なものだというこということなのでしょう。つまり反対勢力が多数予想されるということです。
それはつまり、吉宗のやろうとしている改革が、重秀の貨幣改鋳や白石の貿易制限のような、どちらかというとトリッキーな変化球ではなく、そういう小手先ではなく直球をど真ん中に投げ込むような力技だったということだったのでしょう。
改革というよりは、本当にある意味では「第二の創業」という意識で行うもので、そういう意味では真の意味で家康的であり武断政治的なものだったのかもしれません。
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