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日本史についての雑文その34  享保の改革
直球ど真ん中的な政策という意味では、この初期の頃にも吉宗は地道ながら効果的な政策を打ち出しています。それは倹約令であり、これは吉宗自身が木綿の衣服を着用したりして率先垂範して行われました。
これは主に服装の華美を禁じたもので、実際、最高権力者である将軍が木綿を着ているわけですから、その配下たる他の武士が木綿以上のグレードの衣服を着るわけにはいきませんから、これは非常に巧妙な吉宗の作戦だといえます。

木綿以上の衣服というと具体的に言えば、それは絹織物ということになるのですが、この時代の絹織物の消費者のほとんどは武士階級でしたから、つまり吉宗が自ら木綿を着ることで倹約令を武士階級にとって実効性あるものとすることによって、絹織物の消費量が大幅に下がるわけです。
となると絹織物やその原料の生糸は長崎貿易の主要輸入品目であったので、その消費量が減るということは輸入量も減るということで、そうなるとその代価として日本から海外へ流出する銀貨や銅貨の量が減るわけです。そうなるとその分、国内で流通する通貨の量が増えてデフレが克服されるというわけです。
このように倹約令を地道に徹底することによって、それだけでとりあえずは白石時代に陥っていたデフレ経済からの脱却を果たし、経済を回復させることが出来ました。更に倹約令で無駄遣いを制限することによって領主経済が好転するようになり、それに連動して幕府財政も少し好転しました。
そこで更に1722年には上米の制を設けて、各大名から幕府に献上米を出させるようにしました。これは好転した領主経済からの幕府財政への還元を図ったもので、これによって幕府財政はとりあえずは回復することになりました。
これらの一連の流れは相当に幕臣や大名からの反発が予想されるものでしたから、それで吉宗は最初は周到に権力基盤を固めておく必要があったのだといえます。
しかしまた、これらは結局は緊縮財政と貿易制限がその実態でしたから、当座のデフレ経済克服や財政の回復には役には立ちましたが、持続的な経済成長や幕府財政の好転にはまだまだ別の根本的な改革が必要でした。そしてその根本的改革こそがより大きな反対意見が予想されるものだったのです。

その根本的改革に吉宗が着手するのは次の改革期後期のことです。改革期前期は様々な試行錯誤の末にやっと改革の方向性が定まるまでの期間で、改革を一気に本格的に進めるのは改革期後期のことになります。
吉宗にとっての改革期前期は、とりあえずデフレ克服と幕府財政の一定の回復までで一つの区切りということになります。吉宗が真に目指していたのはもっと根本的な国家の構造改革であったのですが、それは改革期後期の部分で説明します。それを一言で言えば、幕府権力の強化とニューフロンティアの開拓ということになります。

一汁三菜の膳を食したり鷹狩りをしたりすることは単なる創業時を意識したイメージ戦略だったのかもしれません。しかし吉宗が真に狙っていたのは、幕府の権力の強化とニューフロンティアの開拓であったのです。
そしてこれはかつて家康も企図したことであり、そういう意味ではまさに家康の再来であったのですが、但しその手法や具体的内容、時代背景は全く異質なものであるという点では家康とは明確に違うものでもあったのでした。
その明確な違いとは、家康の時はニューフロンティアの開拓によってもたらされた社会構造の変革が後に幕府権力の強化に繋がったのですが、吉宗の時代になるとそれが後に幕府権力の弱体化を招くことになったという点です。
これは吉宗の失政というよりは、社会構造の変化が既にそれだけ進展していたということであり、不可逆の流れだったといえるでしょう。それに吉宗の時代とそれから後しばらくはニューフロンティアの開拓は幕府権力の安定化に寄与していたのですから、これは決して失政ではなく、むしろ改革自体は大成功だったと言っていいでしょう。問題は、ただ単に時代の趨勢であったのです。
そして吉宗の発想自体は根本的には時代の趨勢に逆らうものであったのですが、吉宗自身の政治力が際立っていたという点と、この時点ではまだ時代の趨勢がそれほどの勢いではなかったという点で、この時はなんとか成功したのです。時代の趨勢という点で言えば、むしろ吉宗の改革によって時代の趨勢の勢いがついたという面もあります。
しかしやはり吉宗は徳川幕藩体制を何としても守るという立場の人間でしたから、時代の趨勢がどうであろうとも、どんなに幕藩体制そのものに矛盾があろうとも、やはり吉宗の改革は最終的には幕府を維持するという方向性を持ったものにならざるを得ないものだったといえます。それが吉宗の限界でもあったのですし、この時代の限界でもあったのです。
この時代そのものがそこまでのものであったので、吉宗の限界はこの時代においては大きな破綻は見せることはありませんでした。しかし時代が更に下っていき、時代の限界が更に明らかなものになってくるようになると、吉宗路線の限界は破綻した形で露呈していくことになるのです。
こう考えるとやはり吉宗は優秀な政治家なのだと言えますが、時代の限界を超える政治家ではなかったとも言えます。吉宗の限界がつまり江戸幕府の限界であり、幕藩国家の限界とイコール関係だったのだとも言えます。
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