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日本史についての雑文その35  荻生徂徠
そういう幕藩国家の矛盾や限界に対して吉宗がどのように立ち向かっていったのかについて触れる前に、そうした矛盾や限界について見通していた人物として荻生徂徠に触れていきたいと思います。徂徠もまた、この改革期を象徴し、また幕藩国家の限界を象徴する人物でもあると思われるからです。
荻生徂徠は前に元禄赤穂事件の顛末のところで少し出てきましたが、五代将軍綱吉の側用人であった柳沢吉保の政治顧問を務めていた儒学者でした。そうした徂徠が赤穂浪士の処分について意見を求められたのが1703年のことであり38歳の時のことでした。
この時徂徠は朱子学の人治主義的な考え方に拠ることなく「天下の法は曲げること出来ず」と法治主義的な考え方を主張しています。この時点で朱子学を乗り越えて、個人道徳の追求を経由せずしてストレートに儒学と政治学を結びつける傾向を見せています。この頃、既に徂徠は朱子学から離れて古文辞学を確立していたと思われます。
古文辞学は江戸儒学の古学や古義学を更に発展させたもので、徂徠が打ち立てたもので、朱子学に基づいた古典解釈を批判して、古代シナの儒学の経典の原典を原文のまま読み解くことによって真理に近づくという方法論でした。
1709年に将軍綱吉が死に、側用人だった柳沢吉保が失脚した後は、徂徠は浪人の身となり私塾を開いて、更に古文辞学を突き詰めて、古代シナの原典を読む時は古代シナ語の発音で読むことを徹底し、学派の内輪では姓名をシナ風の発音で呼び合ったりするほどの徹底ぶりでした。ここまで来るとさすがに行き過ぎのようにも見えますが、とにかく徂徠の出現を境にして江戸の知的世界の様相は一変したと言われます。

徂徠の私塾で教える教えが「徂徠学」としてオリジナリティーをもって認識され、爆発的に支持者を獲得して江戸の思想界を席捲していくようになったのは1717年に「弁道」「弁名」の二書を著してからでした。
これらの中で徂徠は朱子学の「理気論」をナンセンスだとして否定し、理というものを知るには自分の心をもって推し量るしかないと説いています。つまり理というものは主観的なもので、客観的基準というものは無いのだというのです。
ではどうやって各自が自分の心で理を推し量るのかというと、その方法論は、古代シナの聖人の書いた原典を後世の解釈や注釈によらず、原文のまま読み解いて理解すれば自ずと理というものは把握できるのだというのです。そしてそうして理というものを把握した以上は、今日の時代にふさわしい方法論を工夫していくべきだというのです。
つまり例えば政治に関する理というものを把握したならば、それを今日の時代に則した政治論に活用すべきだということなのです。こうして徂徠学は個人道徳を経由することなくストレートに、第一義的に政治学となることが出来たのです。徂徠学の本質は政治学であることなのです。
徂徠は本当に真摯に原典に向き合い、彼なりの解釈によって理を把握してそれを政治論に昇華させていったのですが、例えばこれを別の人が同じプロセスを経たとしても原典の解釈に客観的基準が無い以上、徂徠とはまた違った結論に辿りつくこともあり得るわけです。
つまり原典を原文のまま読み下せるという条件さえクリアー出来れば、あとは全く自由なわけです。向き合っているのは当人と原典だけであり、その間に後世の注釈者などの権威が入り込む余地は無いのです。

こうして徂徠学の出現によって江戸儒学は発想の自由度を幅広く獲得することが出来たのです。ここに江戸儒学はひとつの頂点を迎え、この後、儒学は政治学として全盛時代を迎え、それは幕末に向けて大きなエネルギーともなっていきます。
これはつまり、儒学が抽象的な道徳論の域を脱して、実用的な政治学に脱皮したということを意味します。これ以降の儒学は極めて実践的かつ実用的な学問となっていき、儒学者の提言も非常に具体的なものになっていきます。
また、儒学者だけでなく、もちろん武士階級全体が儒学の信奉者なのですが、儒学が政治学となったことによって、武士道の在り方も変わってくることになるのです。
武士道とは、生命を賭けて自らの信ずる忠義を尽くす行動哲学なのですが、武士の学ぶ儒学が政治学的なものになることによって、武士のやるべきことは個人道徳の完成よりも、より具体的な政策提言ということになり、それを行うことが忠義の道ということになりました。そういうわけで、主家や天下国家のために生命がけで政策提言、諫言、そしてそのために行動していくことこそ忠義の道であり、最も正しい武士道とされたのです。
これによって、武士による政策提言能力は格段に上昇していくこととなり、幕府や各藩における改革政治を支え、後の平賀源内や林子平のような人材の出現を容易にして、幕末の各藩の有司や志士の出現にも繋がっていくこととなったのです。そしてそのエネルギーは明治以後に更に拡大していくことになるのです。

そしてまた、この幕藩国家改革期においては、儒学を触媒として数多くの実用的な学問が花開いていくことになります。儒学が荻生徂徠の出現でその発展が頂点に達したことによって、今度は儒学以外の様々な学問、例えば心学、蘭学、国学などが発展していくことに繋がっていったのです。しかもそれらは儒学も含めて庶民の間で浸透していったのです。
これがこの改革期における今までに無い新しい展開であり、庶民が学問をする時代が幕を開けることになるのです。
修正期末期に旧文明のエッセンスを消化しきった文明は、この改革期に入って徂徠学の出現と、それに続く様々な学問の創出という、全く新しい展開に到達したのです。これは更なる新しい文明の創出であったと言ってもいいでしょう。
つまり、文明の改革期は、更なる新しい文明の生まれてくる時代でもあるのです。ただその新しい文明は、この改革期においてはまだその姿すら定かではなく、気配が感じられるだけのような存在です。
例えば蘭学や国学、心学にしても、まだ理論構築も十分ではないし、全然普及もしていないのであり、社会に影響を及ぼすような存在ではないし、多くの人々はその存在すら知らない段階なのです。
日の出前の太陽の本体が山の下に隠れていて、その明かりだけがわずかに漏れて、日の出を予感させているような段階という意味で、この時期を新文明の黎明期と呼びましょう。
特にこの1700年から1725年の、改革期前期と重なる黎明期前期においては、新しい文明の例である蘭学や国学、心学などはまだ存在すらしておらず、その準備段階である徂徠学が形成され存在しているのみの状態です。黎明期前期とは、既存の文明がある種の完成点に達し、新しい文明の生まれる準備が進められている時代といえばいいでしょう。
この時代には、具体的には何ら特筆すべきトピックがあるわけではありませんが、しいて言えば、この時代から寺子屋が普及するようになり、庶民の識字率が上がり、庶民が学問を学ぶ下地が作られていった時代であるということと、徂徠学という自由な発想を許容する学問が広まること自体が、新たな学問の興る刺激になったともいえます。
そして、新しい学問も生まれてそうした展開が更に具体的になっていくのは徂徠以後のことであって、次の改革期後期、すなわち新文明の黎明期後期のことになります。
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この記事に対するコメント

①総務省に「免許剥奪は目的ではない」と伝えましたか。
②株価操作の件、イラネ氏から説明を受けましたか。
③イラネ氏の取締役退任は、TBSに対する活動と関係がありますか。
④都合の悪い質問には答えないようですが、いかがですか。

【2006/11/19 18:19】 URL | 57 #- [ 編集]



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