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日本史についての雑文その36  武士生活の矛盾
それはさておき、ここで触れておきたいのは徂徠学の政治学としての内容についてです。何故なら徂徠学こそが吉宗の享保の改革期における時代精神そのものであり、1722年以降は徂徠は吉宗の政治的助言者の立場にもあったからです。

徂徠が特に問題点としたのが武士生活の矛盾についてでした。
幕藩国家修正期の後期から常に幕府にとって政策課題となってきたのが経済政策でした。

なぜ幕府にとって経済政策がそんなに重大な課題となってきたのかというと、それは今日のように経済大国を目指したりしていたわけではなく、貨幣経済によって常に領主経済が影響を受け翻弄され、時には圧迫されてきたからです。
つまり幕府にとっては貨幣経済は決して好ましいパートナーなのではなく、むしろ警戒の対象であったというわけです。
では何故、江戸時代になってから貨幣経済が際立って発展することになったのか。これは平和になったからとかインフラが整ったからとか、色々な要因はあるとは思いますが、根本的に最も大きな要因は武士階級の存在でした。正確には、武士階級という名の行政官集団が何も生産することもなく都市部にまとまって住んでいたからです。
江戸時代以前にもそういった異様なライフスタイルを送る階層は存在しました。皇族や貴族、僧侶たちでした。もともと日本に商業や流通というものが発生したのは、生産地から彼らのもとへ食料など生産物を送るためでした。それでも彼らはほんの一部を除けば自分の領地というものを持っており、自給自足も可能な態勢をとっていました。
ところが江戸時代になって兵農分離が徹底されたことによって、武士階級は、いや貴族や僧侶も含めてですが、自分の領地というものを失い、都市部に集められて、領主や幕府などからの俸禄米で食いつなぐだけの存在となったのです。
しかもその人数がかつての貴族や僧侶などとは比べ物にならないぐらい多く、そうした莫大な「生産もせずひたすら消費だけする集団」を食わせるために、生産地である農業地帯から都市部へ向けての流通路が整備され、そこを流れる血液として貨幣が莫大に必要とされたのです。
何故なら、武士階級は給料は米で貰うのですが、米だけで生活するわけではないからです。米は換金してその金で他の生活物資を買わなければいけないのです。そしてそうした生活物資を生産するのもまた主に農業地帯だったのです。
つまり、兵農分離によって都市部の武士と農村地帯の農民とが完全に分断されたことによって必然的に巨大な流通路と貨幣経済が出現することになったのです。江戸時代の飛躍的な商業の発達の背景にはこういうからくりがあったわけです。
しかしこうして発達した貨幣経済が領主経済を圧迫して、それが幕府を悩まし続けるわけですから、これはとんでもない矛盾ということになります。
徂徠は、江戸時代の経済問題の原因は、バブル崩壊でも通貨不足でも貿易不均衡でも商取引法の不備でもなく、その根本的原因は、こうした武士生活の矛盾そのものに内包されるものだと喝破したのです。まさに天才だと言っていいでしょう。

そこで徂徠はその解決策として、武士を農村地帯に土着させて大規模生産に従事させることを提案しました。
しかしそもそも、この幕藩国家というものは兵農分離によって武士を土地から引き離すことによって成立したものですから、この徂徠案を実行すれば、それを根本から否定するということになってしまいます。
実際、生産地に戻り自ら生産力も持つようになった武士が自治農村と結びついた連合体こそが幕府権力にとって最大の脅威となることは、戦国時代の歴史を見れば火を見るより明らかでした。
それを押さえ込むためには徹底した管理社会を作り上げるしかないのです。徂徠もそれは見通して更にその解決策も提案しています。すなわち、戸籍を作成し住民の移動を制限し、厳しい身分制度を確立することでした。

私たち現代人は、そもそも江戸時代というのはそういう時代であったという印象を持っています。実際、現代に比べれば移動の自由は無かったし身分制度もありました。しかしこの徂徠の提案は、その江戸時代においてあえて為されているわけであり、よほど厳しい移動制限と身分制度を志向したものだということが推測されます。イメージとしては現在の北朝鮮の国家体制に近いと言えるかもしれません。
日本史上でもそういう国家体制を試みた時代もありました。古代の律令国家というものがそれだったのですが、これは非常にコストがかかる体制でした。何にコストがかかるのかというと、そういった管理をする実行部隊、すなわち軍隊なんですが、これを国家が保有するのにコストがすごくかかるわけです。結局はそれがどうにも回らなくなって、国軍は放棄されてしまい、律令国家は破綻しました。
放棄された国軍の代わりに治安維持にあたったのが農民のボランティア武装部隊で、要するに農民達が自発的に自衛したわけで、つまり国が治安維持を放棄したわけです。この自発的な武装農民達が武士となっていったのです。
律令国家が崩壊した後は日本はずっとそういう国柄で、武士達が自分のテリトリーを勝手に守るという時代が続きました。国家による管理など全く無縁な、自治の世界が広がっていたのです。
それが極限にまで達して戦乱が絶え間無くなったのが戦国時代で、それを収めて作られた幕藩国家においては、農村自治はそのままにして、武士をそこから引き離して飼い殺すことで平和を維持することにしたのです。
ですから、江戸時代中期のこの時点では、まだ根本的には大きな変化は無いわけで、武士を農村に帰してしまったら戦国時代に戻ってしまう危険はあるわけです。幕藩国家は中世国家の構成単位であった武士と農民を引き離すことによって成立している国家であって、律令国家のように武士が存在せず代わりに国軍が存在するような国家ではないのです。
だから徂徠案を実行しようと思っても、そもそも国軍というものが存在していませんし、それを維持する資金もありませんので、不可能なのです。
徂徠案のように厳しい管理国家の形ではなかったのですが、後に明治時代になって律令国家のように国軍を持ち武士のいない社会が実現しますが、これが何故実現することが出来たのか、それについてはまた後で検証することになるとは思います。
まぁいくつか要因はあるのですが、江戸時代、特にこの吉宗時代以降において農民や町人が非常に大きな力を持つようになって武士の力がその分相対的に低下し、そこへもってきて幕末維新の期間において軍事革命が進行し旧来の軍事制度が無意味になり、これもまた吉宗以降の時代に育まれた国民意識によって明治になって成立した国民軍を前にして武士階級の存在意義自体が消滅して、武士階級そのものが消えていったからだといえます。更に付け加えるなら、そうした急激な変化を誘発した対外危機が存在したということも重要な要素でしょう。

ともあれ、この吉宗の時代においては武士階級は健在であったし国軍など存在していなかったわけです。となると武士を農村に帰すなどという冒険も出来ないわけで、幕藩国家体制を維持していくためには、この徂徠の喝破した武士生活の矛盾とは付き合っていくしかないのです。
正確にはその矛盾にとことん付き合った結果、とうとうその矛盾に耐え切れなくなった時に幕末維新が起きたということになるのですが、とにかくまだこの吉宗の時代にはそうした矛盾と付き合う余裕はあったのであるし、吉宗の手当てが上手くいったので、その余裕期間が幾分伸びたともいえるでしょう。

徂徠の提案とは、結局、士農工商の4つの身分のうちの「士」の部分の存在自体に内包する矛盾の解決を図ろうというものでしたが、これはこの時期においてはあまりにハードルが高いものでした。
そこで吉宗が現実的に手当てした部分というのは残りの「農工商」の部分への手当てということになります。幕府権力を強化した上で、「農工商」への統制を強化していこうとしたのです。一種の統制経済を志向したものだといってもいいでしょう。
特に吉宗が力を入れたのが「農」への統制でした。戦国期以来の「自治農村」という聖域にメスを入れようというのが吉宗の改革の核心部分だったのです。だからこそ、吉宗はこの大改革を断行する前に強大な権力を求めたのです。
しかし、案の定ですが、この農村自治への干渉は猛反発を呼びました。しかしそれでも吉宗は粘り強く農村の構造改革を進めていったといっていいと思います。

この「士」の部分の矛盾に気づいた点で徂徠は江戸時代最高の頭脳であったといっていいでしょうが、しかしそこに手をつけてしまうと、幕藩体制そのものが崩れてしまうのであって、それゆえ吉宗、そしてそれに続く田沼意次以降の改革は「士」は外して「農工商」の改革に限定されたものになるのです。
それはこの時代の限界であったのだと思います。まだ幕藩国家に代わる新たな文明の萌芽が立ち現れていない以上、それは仕方ないことだったのです。いや、むしろこれから始まる吉宗の改革の結果、そうした新しい息吹が生まれてくることになるのです。
そのような時代の矛盾と限界を象徴した荻生徂徠が死去したのが1728年のことで、吉宗の現実との格闘が本格的に始まったのもちょうどこの1728年のことになります。
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