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日本史についての雑文その37  法治主義
そういったことを踏まえて、だいたい1725年から1750年の期間にあたる幕藩国家改革期後期における吉宗の政策を見ていきたいと思います。
結局、吉宗の改革は、いやこの後の全ての幕政改革もそうなのですが、目的とするところは幕府財政の再建なのです。ただ吉宗の改革の優れていた点は、財政再建のためには小手先の経済政策だけではなく、国家全体の構造改革まで必要であると認識していた点なのです。

ただ、それでも構造改革はあくまで手段なのであって目的ではないのです。財政再建を追い求めていった結果として構造改革が達成されたわけであって、最初から構造改革やその結果の民衆生活の変化を目的としていたわけではないのです。
あくまで構造改革は財政再建の結果の副産物なのであり、幕府の財政再建策を受けた民衆側のリアクションとして民衆生活の変化は生じたのです。このあたりが現代の政治とは違うところです。
現代は民主政治ですから、財政よりも民政が優先される傾向が強いのです。何故なら、民政を疎かにすると選挙で負けてしまうからです。だから政治家は最初から構造改革や民政の変化を引き起こすための政策を実施します。
つまり政治家が常に民衆の顔色を伺っているのでどうしても民政優先になるのです。これが悪く作用するとポピュリズムになり、財政などそっちのけで民政優先の人気取り合戦になってしまいます。これはこれで困ったものですが、民衆にとっては民政の不備を訴える回路が常に保証されているというのは、やはり有難い制度なのだと思います。
それに比べ、吉宗ら江戸時代以前の為政者にとっては構造改革によって民衆生活がどうなるかについては最重要関心事ではないのです。もちろん民衆生活が良好なほうが税収も確保できるわけですから基本的には望ましいのですが、あくまで優先されるべきは財政であって、財政は民政に優先するのです。これはこれで財政再建を断行する場合に人気投票に気を使わなくて済むわけですから、現代の政治家にとっては羨ましいかもしれません。
確かに財政再建は重要であり、民政ばかりにかまけて財政を疎かにしてはいけません。しかし切り捨てられる民衆生活を救う手段も確保されていなければいけません。元禄以前の政治においては、文治政治がその役割をカバーしていました。つまり民を慈しむのが徳のある名君であるという価値観です。
そもそも日本の場合は古来から異民族支配などの例もほとんど無く支配階級と被支配階級との一体感が強いため、そういう傾向は強いのですが、特に幕藩国家修正期にその傾向に拍車がかかりました。しかしそのようにして「善政」にかまけて税率を引き下げてきた結果が幕府財政の悪化であったのです。

六代将軍家宣の時代には年貢税率は三公七民を更に割り込んでいました。それを吉宗は1728年以降、天領の年貢率を五公五民の線に引き上げようとしたのです。このように増税および緊縮財政で財政再建しようというのが吉宗の改革の核心でした。ど真ん中直球といえばこれ以上のど真ん中直球はありません。
とにかく当時の幕府の収入のほとんどは天領からの年貢、つまり米だったのですから、そこの部分に手をつけることこそ、避けて通ることの出来ない財政再建策の王道だったのだということです。
また、そうした修正期の「善政」の具体例として検見法という年貢計算法が実施されていました。これは、豊作の年は豊作の年なりの、凶作の年は凶作の年なりの年貢を取り立てるというもので、非常にファジーな制度だったのですが、1722年には吉宗はこのファジーな制度を廃して、定免法という、豊作凶作に関係なく毎年一定の年貢を取り立てるという制度を導入しました。
つまり吉宗は、農村に甘い文治政治ではもう幕府財政再建は不可能と見切りをつけ、農村に厳しい政治を選択することにしたのです。そしてその手法は武断政治のような力によるものでもなく、文治政治のような徳によるものでもなく、一つ一つきっちり法制化していく法治政治というべきものだったのです。
この法治政治は、時代の大勢であった荻生徂徠の法治主義の影響を受けたもので、農政だけでなく、幕政の全てにわたって法治政治は浸透し、吉宗の時代には多くの法制が作られ、1742年には公事方御定書にまとめられたりしました。こうした法制整備によって幕府権力の正当性を強化して改革の推進力にするというのが吉宗の手法でした。

実際、武士階級相手ならばともかく、圧倒的人口を誇る農民に対して武断的統治を強行することは困難でしたし、かといってもう文治的な理想論で甘いことばかり言っているわけにもいかないのであって、聖域である自治農村に対して介入していこうとするならば、たとえ最高権力者の吉宗であっても、法治主義的に正当な手続きを踏んでいく必要があったのです。
例えば定免法のようなファジーな要素を全く廃した法制の場合、確かに一定の税収が確保され財政は安定しますが、そこには文治政治時代の「善政」が入り込む余地は全く無くなってしまいます。そうなると、吉宗のこうした厳しい法治によって切り捨てられる民衆の生活を救済する回路が別に確保されなくてはならなくなってきます。
そうなるとやはり農民の側の抵抗権をある程度は認めていくしかないわけで、かといって反乱を起こしていいというわけではないのですが、農民の側が訴えを起こす権利も保障していかないといけなくなっていくのです。
もちろん現代のような民主制度の社会とは違うわけですから、幕府の側でそれを明確な形で保障するということはないのですが、農民の側からの訴えかけを受けてそれに対して幕府や領主側が対応していくという、そういう遣り取りを繰り返していくうちに暗黙のルールが形作られていくようになるのです。
そうやって作られた暗黙のルールもまた一種の「法」なのであって、こうして幕府の「法」に対応する民衆側の「法」も整備されてくるのです。これもまた法治政治の浸透ということになりましょう。
いや、このように現場で双方の遣り取りの上で、伝統的農村の実態や慣習をふまえて形作られていく「法」こそが真の法なのであり、こうした慣習法が裏付けとして存在してこそ、吉宗や幕閣が制定するような制定法も実効力を発揮するのであって、逆に慣習法に反する制定法は実効力を有さないのです。だから、むしろ幕府による法の制定よりも、それに対応した農村における慣習法の確認作業こそが真の意味で重要な「法治主義の実践」であり「法による支配」なのだといえるでしょう。
この吉宗による「法による支配」の開始は、民衆側の法治政治を生み出すきっかけになったのであり、それはこの後の時代にかけて民衆側の抵抗運動を通じて作られていくものなのですが、その始まりがこの時代であったのです。
つまり、この時代において吉宗の増税政策に対するリアクションとして百姓一揆が増えていくのは、そういう意味合いのあることなのです。
それは、修正期末期のところで触れた元禄赤穂事件における赤穂浪士の幕府の不当な処分への抗議行動が幕政の法治政治化を促し、浪士は皆切腹となりましたが引き換えに浅野家の再興を果たし、新しい法やシステムの整備への道も開いたという「義挙」の事例を、今度は民衆レベルで繰り返していく過程でもありました。
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