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日本史についての雑文その38  百姓一揆
もともと農民の抵抗運動というものは中世では当たり前のことであり、それはむしろ過剰に危険な存在ですらありました。抵抗運動などという生易しいものではなく、室町時代のそれは暴動というのが適当であったと思われます。
それが戦国時代には更に過激化し、村々はそれぞれが武装し、互いに戦争をして殺し合い、土地や資源を奪い合っていました。戦国大名とやってることは大差なかったわけです。むしろそういった武装闘争の中から戦国大名が生まれてきたのだと言っていいでしょう。

まぁこういった殺伐とした農村というものも、中世の歴史の中で本所制が解体して新しく自治農村が生まれてくる過程の出来事であり、そうした自治農村を生み出すムーブメントが戦国時代に最高潮を迎え、それが信長政権や秀吉政権、そして徳川幕藩体制を生み出す原動力となったのです。

幕藩体制というものはどういうものだったのかというと、自治農村を温存しながら平和を維持して経済発展を達成しようという狙いをもったものでした。農村もまたそれを積極的に受け入れたのであって、それゆえに刀狩にも応じたのです。
自治農村は武器を捨てて殺伐とした農民同士の武装闘争を終結させて、内戦の無い世界での経済発展の道を選んだのです。
しかし、だからといって領主への抵抗権を捨てたわけではなかったのです。ただ、戦国の世に戻らないように、慎重にルールを決めて抵抗権を行使していくようにしたのです。
江戸時代の百姓一揆とは、近代以降の民主化運動のような政治闘争とは違い、あくまで経済闘争であり、一種の集団提訴のようなものだと思えばいいでしょう。
農村はあくまで自治に任されていたのですが、内部でのトラブルがどうにも収まりがつかなくなった時や、あるいは外部から自治に干渉して理不尽な圧力を加える者などが現れた場合は、領主に訴え出ることが出来たのです。もちろんその不当な圧力には領主からの圧力も含まれていたのですが。
そのように何か不都合があれば領主に訴え出る権利は持っていましたが、但しこれは村役人のような代表者が訴え出る形で、徒党をなしての集団提訴のようなもの、これが百姓一揆なんですが、これは原則不可で、やるなら届け出て、代表者は厳罰で、大抵は死罪でした。暴力行為はもちろん駄目でした。
正規の手続きで訴えても正当な裁きが行われるかどうかは領主次第であり、頼りないことこの上ないわけですが、幕藩国家修正期までは、経済も発展していましたし、農村においてそれほど切迫した不都合もあまり無かったので、一揆にまでは至ることはそう多くはなかったようです。出来るだけ一揆にまで至らない段階で、村役人の裁量でなんとか解決するようにするのが原則でした。

しかし、幕藩国家改革期に入ると、百姓一揆の誘因が増えてくるようになったのです。
まず、この幕藩国家改革期の初期の頃、まだ元禄の頃に荻原重秀が田畑売買禁止措置を緩和した後、田畑の質流れが事実上公認されるようになり、自分の耕作地を手放して地主の土地を借りて耕作する小作農になる農民が増えてきました。
田畑売買禁止措置緩和によって商取引自体は円滑になったのですが、その結果の小作農増加は農村内での階層分化を加速化させ、階層間トラブルを増加させることとなりました。それにつれて1710年代ぐらいから百姓一揆はしばしば起きるようになってきていたのです。
また、元禄バブル崩壊によって経済発展が止まり、農民達にとっては、大人しくしていてもあんまり意味が無い状態になってきたのです。
それまでは少々の不満があっても、とにかく我慢して大人しくして平和な状態を維持してさえいれば、経済発展の恩恵を受けられたのですが、そういう恩恵がどうもあまり増える見込みが無いように思えてきたのです。
そうなると、不満に対して我慢する必然性が無くなってきて、ちょっとしたことで暴発しやすくなってくるのです。
そこへもってきて1728年に吉宗が五公五民に年貢率を重くする方針を出した後、百姓一揆は頻発するようになったのです。
農民にとっては可処分所得が一気に減るわけですから、既得権が大きく侵害されるわけです。もう我慢していても経済発展はしないどころか、既得権まで侵害されるのですから、農民としては平和を維持する必要はほとんど無くなってきます。
特に小作農は、小作料を払った上に地主に差し引かれる収穫米の量は増えるわけですから被害が大きいわけで、かといって地主としても小作料を下げるわけにもいきませんから、どうしても小作争議が頻発します。
それがにっちもさっちもいかなくなって、村役人は大抵は地主でしたから、村役人自身が地域の小作農の突き上げを受けて百姓一揆へと至らざるを得ないケースが増えていったのでした。

ただ、百姓一揆を起こしたら代表者は死罪になるわけですから、それはやはり抵抗があるわけです。そのハードルを越えるために「義挙」の思想が導入されました。
つまり、元禄赤穂事件の赤穂浪士が幕府の不当な措置に抗議するために生命を投げ出して行動したことを「義挙」とし、立派な天下への忠義だとした考え方を百姓一揆に応用したのです。
領主の誤った治世に抗議するために百姓一揆を起こして刑死するのは「義」のある行為であり、立派な行為であるという考え方です。これは、どっちにしても一揆を起こせば死罪になるのだから、死に行く者への慰めという要素もありますが、逆に言えば、死を賭して代表者を務める者の名誉のためにも、百姓一揆が本当に「義」のあるものでなければいけないという強制力ともなりました。
そのために百姓一揆には厳格な内部ルールが決められるようになり、決して無軌道な暴徒による暴発ではなく、非常に秩序だった組織化されたものになっていったのです。
農作業具以外の武器は持たないことや、暴力行為は原則として禁止で、打ちこわしに及ぶ場合も殺人や盗みや放火はしないことなど、厳格に決められ、違反者には死罪など厳しい刑罰を課しました。こういうことを農民組織が自分たちで決めて運用していたのです。
こういったルールを徹底することで、一揆側は領主側に対して道義的に優位に立ち、それにより一揆賛同者や参加者も増えて影響力も増し、それにつれて一揆目的の達成率も上がっていきました。
このような百姓一揆のような混乱は本質的には好ましいことではないのですが、これはこれでこの時代においては必要な救済回路ではありましたし、こうした抗議行動と領主側との遣り取りの中で、次第に農村における民衆側の「法」が整備されていったのです。
そして、こうした高度に組織化された抗議行動を厳格なルールを運用しながら繰り返すことによって農村自治の有り様が変化していったという要素も見逃してはいけません。

農村自治というものは信長以前にまで遡る戦国期由来のムーブメントで、そもそもこの幕藩国家文明形成の原動力となったムーブメントだったのです。
つまり、これもまた旧文明のエッセンスであったのであり、江戸幕府はこのエッセンスを新しい支配体制の中でも温存し、その活力も活かして修正期の高度成長を成し遂げたのです。そしてこの改革期に至って、この農村自治は百姓一揆という経験を積んでいくことによって次第に政治的に高度化していくことになるのです。
これは江戸時代前期の農村自治とはまた違った異質な、新しいタイプの農村自治に生まれ変わっていくという、つまり、これはこれで一種の新しい文明の黎明なのであって、この百姓一揆の発生というこの時期の出来事は、新文明の黎明期後期のひとつのトピックと捉えてもいいものだといえるでしょう。
もちろん、こうした百姓一揆による農村における政治の高度化というものが具体的になっていくのはもっと時代を下ってからのことで、この改革期後期、すなわち黎明期後期においては、単に百姓一揆が起きるようになったというだけのことなのですが、これは新文明の黎明であり第一歩でもあるのです。この農村における政治の進展が、最終的には明治以降の近代的代議制度形成へと繋がっていくのです。
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