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日本史についての雑文その39  米将軍
さて、こうして百姓一揆が頻発するようになり、吉宗の当初の計画であった五公五民の税率はとても達成出来ない状況になっていき、年貢率は三割二分ぐらいまで回復するのが精一杯という状況となりました。
吉宗の当初の財政再建計画は、緊縮財政によって幕府の支出を減らしつつ、天領の年貢率を上げて幕府に入ってくる年貢米を増やし、それを換金して幕府の収入を増やすというものだったのですが、肝心の年貢米の量がどうも思ったように伸びないわけで、その達成がどうやら怪しくなってきたのです。

そこで吉宗が考えたのが、米の値段を上げることでした。米相場が上昇すれば、同じ量の米を換金してもより多くの代金収入を得ることが出来て幕府の収入アップに繋がるのです。だいたい、新井白石の経済政策の失敗以降、デフレ傾向はずっと続いており、それにつれて米の値段も低落傾向が続いていたのです。
では米の値段はどうすれば上がるのかというと、市場が米不足になれば米の値段は上がるのです。しかし凶作になれば幕府の年貢収入自体が減少するので凶作は困ります。米の絶対量自体は安定させながら、市場に出回る米の量だけを減らす方法が必要だったのです。

そこで吉宗は1730年に諸大名に命じて米を買占めて蔵米として貯蔵させて、市場に出回る米の量を減らすようにしたのです。もちろんこれは諸大名にとっては財政的負担でしたから反発を招く恐れがあり、そのため吉宗は代わりに上米の制を廃止して諸大名の負担を減らす措置をとりました。
また、諸大名が米を買い上げるといっても、諸大名も財政難で現金不足で、米の代金も払えない有様でしたから、吉宗は諸大名の領地内のみで通用する藩札の発行も認めました。
これは紙のお金ですから、荻原重秀の言っていた「政府の信用と社会の安定があれば貨幣は貴金属でなくてもいい」という原理にまさに忠実な施策だったわけですが、吉宗はあくまで慎重に、天領のインフレ防止のために各藩領内のみ通用としたのです。ただ、これによってこの後、各藩単位の殖産興業に弾みがつくようになっていきました。
更に吉宗はそうして諸大名が買い上げた米を大坂に集積し、更に大坂商人にも米を買い占めさせた上で、それらの蔵米を運用しての米の先物取引を許可し、それによって更に米価の引き上げを図ったのです。これは世界初の先物取引市場であり、非常に画期的なものでした。

こうして米価は上昇傾向に転じていったのですが、その矢先の1732年に西国にイナゴが大発生し、米が大凶作となったのです。それが原因で翌年に大飢饉が発生したというのに、ここぞとばかりに米商人が米を買い占めて米価を吊り上げて世間の顰蹙を買い、慌てて吉宗が幕府の蔵米を放出して米価を下げたと思ったら翌年には一転して大豊作となり、米価が暴落してしまったのです。
これでまたデフレに逆戻りしてしまい、これを収拾して米価を上げるためには、今度は通貨の価値を下落させるしかなくなり、つまりインフレ政策をとるということで、1736年には結局、荻原重秀のやったように貨幣の金銀含有量を減らして鋳造量を増やすという貨幣改鋳を行いました。これで結局なんとかデフレ経済の克服に成功したのです。
やはり米価調節策のみに頼り切った財政再建策では貨幣経済の発展してきたこの時代においては無理が生じて、貨幣改鋳という方法に頼ることになってしまうのです。この後の時代においてもしばしば貨幣改鋳は定番になっていくことになります。

また貨幣改鋳以外にも通貨供給量を増やす手段として、新井白石の行った貿易制限によって銀貨や銅貨の海外流出を防止するという法令も、1739年以降、1742年、1746年、1747年にも繰り返し出しています。
ただ吉宗の場合、単純に貿易量を制限するだけではなく、貿易不均衡構造を是正して国際収支をなんとか黒字にもっていこうという試みを開始したところが白石とは違うところです。
日本の国際収支が赤字であった理由は、銀貨や銅貨以外に目ぼしい輸出品目が無かったからです。それは江戸幕府創設以来の米作至上主義の産業政策の結果であって、米作関連以外の目ぼしい産業が育っていなかったからなのです。
いや、そもそも江戸幕府には産業政策といえるほどのものは存在しておらず、単に財政政策が存在したのみなのです。つまり幕府財政を潤すための年貢になる米作だけ発展させておけば良いというような単純な思考が幕閣を支配していたのであり、米作以外の産業は全て民間主導で自然発生してきたものであり、政府主導で米作以外の産業を育成していこうなどという発想は無かったのです。
そんな有様ですから、貨幣以外に海外に輸出出来る品物も無く貿易赤字を招いたのであり、また財政再建策も米作至上主義に立脚したものばかりになり、結局は貨幣経済に翻弄されることになってしまったのです。このあたりで米作至上主義に見切りをつけて積極的に他の産業を育成していく政策に転換する必要が生じてきていたのです。
そうした産業構造の大改革をすることによって海外からの絹織物などの輸入品の代価として貨幣ではなく別の産物を輸出することが出来るようになり、海外への貨幣流出も食い止めることが出来るのです。
海外への貨幣流出を食い止めることが出来れば、貨幣供給量は満たされるので、デフレ傾向にストップをかけて米価も上がり、幕府財政も潤うというわけです。
この方法のほうが貿易制限よりも幕府には得なのです。何故なら貿易制限は貿易の元締めである幕府の儲けをも減らすことになるからです。産業政策によって輸出品目となるような新産業を育成した上で貿易を盛んにすることが幕府財政再建のベストの手段でした。これが吉宗の財政再建策の辿り着いた結論でした。
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